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旧越来村であった沖縄戦の降伏調印式=1945年9月7日(沖縄県公文書館蔵) 75年前の地上戦後、沖縄はいかにして日本本土から分離されたのか。 旧チェコスロバキア出身のコンペル・ラドミール長崎大准教授(44)=比較政治学=は、1946年1月に南西諸島を日本から分離する境目となった「北緯30度線」に着目する。 「戦争は終わった後もさまざまな問題が連続し、恣意(しい)的な判断が下される。 北緯30度線はまさにそれを具現化していた」。 これにより北緯30度以南の奄美や沖縄は日本から分離され、別々の占領下に置かれた。 北緯30度線はもともと、沖縄戦以前から日米双方が軍管区を分ける境目だった。 「沖縄は遠く海で隔てられ、北緯30度線付近は気候帯を分ける自然の境界でもあった。 戦争の軍事的合理性を考える上で、日米の判断は一致していた」(コンペル氏) 終戦によりこの境界は重要な意味を持たなくなるはずだった。 しかし、降伏や戦後処理の過程で北緯30度線は顕在化し、分離を決める断絶線となっていく。 降伏区域を示す経緯度が記されている(沖縄県公文書館蔵) 45年9月7日、旧越来村(現沖縄市)で調印された沖縄戦の降伏文書に、降伏領域を示す座標として「北緯30度」が登場する。 降伏文書は日本やフィリピンなどでも調印されたが、座標が明示されたのは沖縄の文書のみだという。 コンペル氏は理由の一つとして、奄美を、日本本土と沖縄のどちらの降伏領域に含めるかを巡る対立があったことを挙げる。 日本軍の奄美守備隊司令官だった高田利貞陸軍少将は当時、沖縄が壊滅し奄美の指揮系統が九州方面に編入されていたことを理由に、奄美が沖縄の降伏領域に含まれることに抵抗した。 東京湾の米戦艦ミズーリ上で日本の降伏調印式があった9月2日時点でも、奄美の問題は解消されていなかった。 このことが沖縄の降伏調印を遅らせ、奄美が沖縄戦の降伏領域に入っていることを文書に示す必要性が生じたとコンペル氏はみる。 マッカーサー(陸軍)とニミッツ(海軍)の両司令官の確執を背景に、地上戦前後に沖縄の管轄権は陸軍と海軍の間で変更が繰り返された。 対立の爪痕として表れるのが北緯30度線だ。 コンペル氏は「陸海軍のねじれた関係は北緯30度を浮き彫りにし、沖縄固有の状況を泥沼化させた」と指摘する。 連合国軍最高司令官総司令部・太平洋陸軍の1945年10月の文書に描かれた地図。 「捜索・降伏区域」として囲まれている区域は沖縄戦の降伏文書の座標と同じ(マッカーサー記念館所蔵、コンペル氏提供) 敗戦に伴う日本の選挙改革など、民主化に向けた動きの中にも北緯30度線との関連は見いだせるという。 日本政府は45年10月、衆院解散総選挙を早期に進める上で沖縄での実施は困難だとGHQに伝え、後に反映された。 同時期に着手され始めた復員や引き揚げでは、南西諸島への「日本人」の渡航が制限される中、北緯30度以南の人々を「非日本人」とみなすことで、境界を越える移動を可能にする処理がなされた。 46年1月の分離後、米軍基地集中が進んだ沖縄では、日本が独立を果たす52年4月の対日講和条約発効後も米国統治が続く。 ただ、戦後初期の段階で分離を決定付けた要因は決して米軍基地の必要性だけではなかった。 コンペル氏は「分離は宿命的なものではなく、戦後処理の複雑なプロセスやさまざまな混乱が北緯30度線と結び付いた。 沖縄の人々の意思は反映されることなく、境界は都合よく固まっていった」と強調した。 (當山幸都) オンラインで取材に応じるコンペル長崎大准教授 ………………………………………………… コンペル・ラドミール 1976年、旧チェコスロバキア生まれ。 トルコ留学後、99年来日。 2008年、横浜国立大学国際社会科学研究科博士課程修了。 現在、長崎大学准教授。 99年の来日後に沖縄に関心を持ち、日本本土とは異なる文化の多様性に魅了され研究対象となった。 専門の比較政治学では、文化的な独自性や境界の多面性を考えることを重視する。 チェコやスロバキアは19世紀初頭まで、ドイツやオーストリアを中核とした神聖ローマ帝国の領域に含まれていた。 チェコは王国として組み込まれ、コンペル氏は帝国内部の関係性を「日本の江戸時代よりも緩い体制で、琉球王国と中国、ヤマトの関係に似ている側面もある」と語る。 主権国家という枠組みでは見えない文化的、歴史的な結び付きがあるからこそ沖縄にできることがあるという。 「不信感が連鎖する日本と中国の関係においても、沖縄が橋渡しになれるのではないか」.

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