新庄 剛志 パワプロ。 新庄剛志ってパワプロ査定だと:非常識@なんJ

仮面町: パワプロ2018 新庄剛志(SHINJO) パワナンバー

新庄 剛志 パワプロ

新庄剛志について 1990年(平成2年)より阪神タイガースでプレーした後、2001年よりアメリカ・メジャーリーグベースボールでプレー。 サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した2002年にはリーグ優勝を経験して、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場します。 2004年には北海道日本ハムファイターズに移籍し、2006年(平成18年)にチームの25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一を経験して引退。 当時はセ・リーグに比べ人気のなかったパ・リーグを盛り上げることに貢献しました。 現役引退後はエアブラシアート(エアブラシを使用する絵画制作及びメイクアップ)に取り組み、特に引退後すぐに始めた絵画制作に没頭しているといいます。 また、2010年ごろからインドネシア・バリ島へ居を移しモトクロス競技の練習を開始してプロレーサーを目指しています。 参考: 新庄剛志の名言(迷言?) 僕は常にオーラを出す練習をしている。 きょう(のオーラ)は162% 天才的というべきか、宇宙人というべきか。 常人には理解できない発言が彼の特徴です。 確かに現役時代から他の選手とは違う何か特別なオーラを発していましたが、まさか練習してたとは。 ジーパンが似合わなくなるからやりません。 下半身の筋トレをしない理由を尋ねられた際の回答。 足がすらっと長い新庄選手のスタイルは、野球選手というよりモデルのそれでした。 チャンスでしか打てないバッターと思われたい。 記録より記憶に残る選手として語られる新庄選手。 言葉の通り重要な場面でよく打っていた印象があります。 僕は盗塁に興味がないんです 阪神タイガース時代に野村監督から俊足なのになぜ盗塁しないのかと尋ねられた時の回答です。 興味がなければやらない、断固たる姿勢からは学ぶものがありそう。 僕は外人になりたいです シーズン開幕前に今年の目標は?と記者に尋ねられた時の回答。 普通野球選手だったら成績を言ったりするものですが。 少年の心を忘れないような発言は、大人になってしまうとなかなかできないもの。 公の場でいえるのはある意味すごいと思います。 野球選手の枠にとらわれない自由なスタイルでプロ野球を熱くした男・新庄剛志。 記憶に残るプレーと発言でプロ野球を盛り上げてくれました。 引退後はコーチなどにも就かずにバリ島にトクロス三昧。 プロ野球選手としては異色ですが偉業を残しました。 参考: 画像出典:.

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新庄剛志

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活動期間 - ジャンル など 登録者数 約5. 77万人 総再生回数 約 308万回 チャンネル登録者数、総再生回数は 000000002020-04-15-0000 2020年4月15日時点。 新庄 剛志(しんじょう つよし、 - )は、(旧:)生まれ 、育ち の(、 ・右投右打)、、 、( 、、など)、 NAR の。 元妻はタレントの。 受章()。 プロ野球選手として、に所属した他、のなどでもプレイした元でもある。 阪神時代のに記録した21歳8ヶ月での出場は球団の歴代最年少記録(シーズン終了時点)。 に日本人初のメジャーリーガーとなり 、にはとして初めて出場を果たした。 限りで現役を引退していたが、2019年11月27日付でNPBより選手として公示された。 は「 プリンス」「 ツーさん」など()。 また、印象的なプレースタイルや言動、立ち居振る舞いから「 記録より記憶に残る選手」とも称される。 日本ハム時代はを「 SHINJO」としていた。 表記法を以外でのとするのは史上初であった。 2001年よりまで個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し 、所属期間の途中よりは事務所とが業務提携してのタレント活動等のマネジメントを受けた。 に株式会社 レハサフを設立して、の会社閉鎖まで経営した()。 タレント活動等のマネジメントを自社から受けていた期間を経て、以降のマネジメント契約先は、は、2013年より 、より。 ごろに・へ移住した。 経歴 [ ] プロ入り前 [ ] 福岡県でを営む家庭の第2子(長男)として、長崎県の母親の実家にて誕生。 体重は3680グラムあり、生後10か月で歩きだした。 小学時代に8回の交通事故に遭うが、いずれも大怪我は負わずにすんだ。 しかし中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負い、自身はこれがもし右手であったなら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語っている。 小学1・2年時には町内のチームへ所属。 後にを経て野球へのめりこむきっかけは、漫画・アニメ『』との出会いでもあった。 新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。 足の速さとは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられるほどであった。 やがて父親から野球を教わり始めた。 小学時代(2年時より)の日課である自宅近くの坂道でのでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂上まで走らせていた。 父親によると新庄は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。 小学高学年時には家業を手伝い、重い等を持つ作業で体力をつけた。 少年野球チーム結成 [ ] 小学3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会での負けが決定するプレーの判定をしたに泣きながらひとり食ってかかり、なだめるにもを訴え続けた。 こんなにも負けず嫌いな子供は見たことがないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるからチーム(の学童野球)を創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日間でメンバーを集め、のデザインやチーム名命名も担当して「 長丘ファイターズ」というチームが誕生した(5月)。 同チームへは後年に、さらに後にプロ入りする、当時には既に現役のの二人が同学年として在籍した。 ででの新庄は目立ちたがり屋で、ノーステップでのをよくやっていたという。 同チームのを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛を浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語ったほどである。 同チームは結成後1か月余りで福岡県大会(出場64チーム)の第3位に入賞した。 時代には軟式野球部に所属。 当時の監督も新庄の小学時から走力・肩力が桁外れと評すなど実力を認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時のベンチ入りメンバーから外した。 大会遠征から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている。 、高校は父親からの薦めもありへ一般生として入学し 、部員として寮生活を送った。 同部では2学年先輩の後にプロ入りする・、2学年後輩の後に選手からとなるとチームメイトになった。 3年時の、・として挑んだの4回戦・戦()で、練習試合を含む高校時代初のサヨナラ安打を記録(8回)。 決勝の戦(久留米)では、生涯初のを達成するも敗戦。 高校時代に部の出場は叶わなかった。 にてから5位指名を受けた(として)。 この際の能力評価はによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であり、横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである。 新庄がファンであった(以下:巨人) のスカウトからは「3位までには指名できる」と告げられていたこともあり、新庄父子ともに順位の低さを憂いて入団するかどうかを検討した後に入団することに決めた (指名を受けられなかった場合には、へ推薦入学することが決定していた )。 なお新庄を担当した阪神のスカウトはであり、を参照。 契約金3700万円・年俸360万円(金額は推定) 、は「 63」と決まった。 阪神時代 [ ] 1年目のはで過ごし、腰痛の影響もあり 出場36試合・. 074(2)・およびなし。 守備は中堅手から、シーズン中に自らを志願してのへ転向した。 9月から11月にはでの秋季教育リーグへ派遣された。 も秋口まで二軍で過ごし、キャリアにおいて唯一となる二軍に到達して打率. 246・本塁打9・打点39を記録した。 そして一軍のら首脳陣により見いだされ、9月9日に初の。 翌10日、での巨人戦で9回表のとしてプロ初出場を果たし、から初初安打初打点を記録した。 16日、での戦で7番・遊撃手としてプロ初を果たした。 亀新フィーバー [ ] 詳細は「」を参照 より守備位置登録が内野手へ変更となった。 3月に欧州で実施予定であった壮行試合の対戦チームメンバー に選出されるも、キューバ代表側の都合で遠征中止となった。 シーズン開幕は二軍となり、からも外れるも、同枠の中に故障者が出た場合の特例として4月にと入れ替わった。 5月に一軍の主砲でのが故障離脱したのを機に、急遽の三塁守備練習後に昇格し、26日の戦()で7番・三塁手としてこの年の初出場。 第1打席での初球を左翼席へプロ初本塁打してこれがとなり、初のを受けた。 この初本塁打をはじめとして、2日後の初代「」と称されるが亡くなった日ので決勝打を含むプロ初を記録し 、シーズン初出場から12試合連続安打 、10割を保った期間もある 活躍などにより、次代のミスタータイガースとなることを期待するの記事が出始めた。 そして一軍に定着して「(虎の) プリンス」という愛称が浸透していった。 この年の打順は主に5 - 7番。 守備は遊撃手を経て、7月4日に一軍では初めて就いた中堅手に定着した(NPBでのキャリアにおいて、公式戦の外野守備は全て中堅となった)。 7月17日の(東京ドーム)に遊撃手として出場した。 9月16日、優勝争いが山場を迎えていた広島戦(甲子園)の両チーム無得点8回表二死満塁の守備で、の右中間へのを中堅から走り込みしてピンチを防ぎ、そのまま0-0で迎えた9回裏の攻撃ではからプロ初サヨナラ安打となる本塁打を放った(も参照)。 試合後のヒーローインタビューでは「 優勝です!」と宣言した。 前述のようにこの年、前年まで低迷していたチームは最終戦の1試合前まで優勝争いをした(最終順位は2位)。 この躍進は、右中間守備コンビを組むらと共に活躍したことから亀山・新庄の頭文字をとり「 」と称された。 当時に入寮している(当時は甲子園球場に隣接)へ届く新庄宛のファンレターは1日につき段ボール1個分あったという。 また寮や新庄の行く先々へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道され、寮の前の混雑により球場からの帰寮もままならない状況となった際には、寮長などが新庄をホテルへ一時的に住まわせるなどの対策を施した。 シーズン打率. 278・本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、を選定する記者投票でも同僚のに5票及ばず次点となった。 11月のに初出場してとも対戦するも無安打に終わった。 より背番号を「 5」へ変更。 春季より再び遊撃手へコンバートされるもキャンプ中にコンバート中止となった()。 2月下旬のでのの際に左肩を故障した影響で シーズン初出場は5月中旬となり、中堅手として2番と7番以降を除く打順で起用された。 10月1日、甲子園での戦でプロ初の先発4番打者として出場。 21歳8か月3日での先発4番は球団歴代最年少記録である (2018年終了時点)。 この年に初めての規定打席へ到達。 初のシーズン100安打も達成(高卒4年目までの達成はドラフト制以降の球団史上3人目) して打率. 257、オマリーと並びチーム最多の23本塁打を記録し、初受賞。 守備ではリーグ外野手最多13(キャリア最多タイ)を記録し初受賞。 より外野手登録へ戻った(そのままキャリアを終えた)。 1番中堅で開幕して、その後打順は6番・7番・3番で起用された。 自身の発足記念の「新庄ナイター」となった5月13日の戦(甲子園)で、からプロ初となるサヨナラ本塁打を記録した。 7月のにファン投票最多得票で初選出され、第1戦()にてとして初出場し、球宴初を記録した。 この年はと並びチーム最多の17本塁打、同じくチーム最多の205を記録。 守備ではリーグ外野手最多289(キャリア最多)を記録しゴールデングラブ賞受賞。 は中村監督が途中休養となり代行となる中、主に6・7番中堅で起用され、当年のみチームに復帰した打撃コーチの指導のもとで打撃フォーム改造を試みたが、山内の打撃理論を理解することが出来ず、逆に打撃成績は大きく低迷してしまった。 本塁打性打球が応援旗に当たり二塁打と判定 6月20日の戦()にて、1点差を追う9回表の先頭打者としてから放った左翼フェンス最上部付近への大が、観客により振られている応援旗(新庄の名前入り)に包まれた後にグラウンドへ落下。 そして内野へと送球され、その間に新庄は三塁まで達した。 この出来事に対し審判団は協議の末、3. 16(妨害と同時に。 審判員は妨害がなければ競技はどのような状態となったかを判定するとの旨。 )に従い、二塁打と判定した。 妨害がなければ柵越えしていたかどうかは微妙であり、阪神側の抗議後に審判員からの場内説明がなされると、左翼席からグラウンドへ多量のメガホンやごみに加え、太鼓・ごみ箱なども投げ込まれ、侵入者もでる事態となり、出場選手は一旦ベンチへ引きあげた。 中断後、試合はそのまま敗れた。 この件について自身は2年後の取材では「一生懸命応援してくれているので仕方ないですよ」と語った。 なお後の時代2004年4月にも、自身の大飛球を東京ドーム右翼席最前列の観客により捕られた際に、同様の二塁打の判定がなされている (「」を参照)。 この年は右足関節捻挫・右膝打撲など で抹消を繰り返し規定打席に到達できず、この年から打率が4年連続して2割4分を切った。 引退宣言騒動 [ ] 1995年オフの11月19日、契約更改交渉後会見にて「 野球に対するセンスがないって見切った」と突然の現役引退宣言を行った。 予想される真の引退理由として報じられた当オフの出来事は、故障の治療に専念しようとしていた時に藤田平・新監督によりへ出場させられた件や、慕っている打撃コーチの退団により球団への不信感を募らせて、横浜ベイスターズへのを志願するも拒否された件などであった。 新庄は引退宣言を撤回するようセ・リーグ会長 やスカウト(を参照)などからも説得を受け、宣言後に父親の病気が悪化したことを母親より伝え聞き 、最終的に父親を勇気づけるために現役続行を決断。 21日に宣言を撤回して契約更改した後の会見にて「ユニフォームを着ている姿を見せるのがオヤジへの一番の薬だと思ったんです。 自分の人生どうこうじゃなく、命にはかえられませんから」と説明して謝罪した。 なお新庄は球団へ引退を申し入れるにあたり、地元福岡の後援会「福岡剛虎会」 からの了解を得るなどの手続きを踏んでいた。 また引退宣言の際の「センスがない」発言については、著書に「1995年シーズン中に足首の故障で二軍落ちしていた練習日に、故障状態の深刻さから自身で判断して開始時間に合わせグラウンドへではなく室へ行った行動について、当時二軍監督であった藤田から頭ごなしに遅刻であると咎められた際に正座の罰を受けた件 をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていった。 しかしどうせ辞めるのなら人のせいにはしたくないとの考えから、発表する理由を『センスがない』にすれば打撃成績も悪かったのである程度は納得してもらえると思った」との旨を記している (「」も参照)。 この騒動の頃より、プロ1年目のアメリカ・教育リーグでの経験をきっかけに抱きだしたMLBへの移籍志望が強くなった (志望の旨は騒動以前に球団へ伝達済み )。 引退を宣言した他の理由として、後年の取材では「引退してのように大リーグに挑戦したい気持ちもあった」と告白している。 なお翌1996年の年俸はプロ入り以来初の減額となった。 は開幕より5月下旬まで1番中堅で、その後打順は9月上旬までは主に6・7番、そして藤田監督が途中休養に入り、代行から4番で起用された。 4月の中旬に自身初の4試合連続本塁打を、29日からの横浜3連戦1・3戦目の2試合で初回先頭打者本塁打(1戦目が自身初の先頭打者弾)を記録した。 10月9日のシーズン最終戦(対中日・甲子園)1回裏には、4番の自身と9番(代打)のが満塁本塁打を共にから放ち、チーム12満塁本塁打というNPB史上初の記録を残した。 シーズン打率. 238・本塁打19。 共にキャリア最高となる55・. 335を記録した。 ゴールデングラブ賞受賞。 オフに派遣され所属したの ()には、後に日本ハムで再会するが監督として、(2001年)で再び同僚となるが選手として在籍していた。 新庄はこの1996年に移籍を志願しており、水面下でとのトレードの交渉が進められていたが監督の途中解任を受けて話が流れている。 は新監督のもと5月下旬まで3番中堅で、その後打順は1番・7番・6番・5番で起用された。 応援ボイコット 7月のにファン投票外野手部門第2位で選出され、シーズン打率2割1分台の状態で出場するが、第1戦()で自身の打席ごとのセ・リーグ応援団による応援ボイコットと一部の観客による「新庄帰れ」コールが起こった。 自主的に応援する者もいたが、ペットボトル・メガホンがグラウンドへ投げ入れられたことによる試合中断もあり、スタンドのある横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」 と書かれていた。 この件について自身は後年の現役引退会見にて「あの時のショックな気持ちは未だに忘れない。 (自身は引退するが)選手は一生懸命プレーしているので、例え不調であっても応援して欲しい。 」という旨を訴えた。 またも参照。 この年は公式戦でも自身のみへの応援ボイコットを受け 、を組んだと共にを量産した(キャリア最多120三振)。 キャリア唯一となるシーズン全試合出場を果たし、本塁打は20本記録して4年ぶりの20本台にのせた。 守備ではリーグ外野手最多13補殺(キャリア最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞受賞。 オフに『』へ出場し、(巨大跳び箱)に挑んだ際に跳び箱で左膝を強打負傷。 残りの競技をリタイアし、その後のゴールデングラブ賞授賞式では立っているのも辛い状態となった。 は6番中堅で開幕して、その後打順は7・8番など主に下位で起用された。 この年はオープン戦のセ・リーグ・スター大賞 を受賞するもシーズンでは極度の打撃不振に陥り、通算100本塁打まで残り3本としての開幕であったが、シーズン1号および記念本塁打達成は7月となった。 10月8日に甲子園で横浜がリーグ優勝を決めた試合では、最終回二死から佐々木主浩の前に空振り三振に倒れ、最後の打者となった。 シーズン打率. 222(リーグ規定打席到達者最低)・本塁打6・打点27と、それぞれ規定打席到達年度ではキャリア最低となった。 守備ではリーグ外野手最多タイ12補殺を記録しゴールデングラブ賞受賞。 翌1999年の年俸はプロ入り以来2度目の減額となった。 投手挑戦 詳細は「」を参照 秋季キャンプから新監督の発案により、外野手との兼務()を目指してとしての練習を開始した。 翌1999年オープン戦の2試合にするも左膝を痛めたため、投手挑戦を断念した。 後に、投手として抑えるのが簡単でつまらなかったため監督に対して嘘をついたと語っている。 は前述の故障によりシーズン初出場が4月中旬となり、左太股痛も抱えながらシーズンを送った。 1990年代後半から現役引退まで、ほぼ常に脚・腰・右 などの中のどこかに故障を抱えることとなった。 3番中堅で多く起用されるが、打順は4番・6番・8番など特に変動が激しい年となった。 5月27日、首位攻防の中日戦()にて、(無死一二塁から三塁ゴロ)をとられたり、守備では満塁からの中前安打を後逸し3失点となるを犯した 後、7点を追う攻撃でチーム初得点となる2点本塁打を放つなど二度得点に絡み、さらに6-7と1点差まで追い上げた最終回の攻撃ではから9球粘り中前安打して一打同点の場面をつくった。 結果チームは敗れ「僕のせいで負けた」と語り、良くも悪くも目立ったこの試合は、数週間後に敬遠球をサヨナラ安打した試合(後述)と共に「 新庄デー」などと報じられ、当時の新庄の代表的エピソードとして取り上げられた。 敬遠球をサヨナラ安打 [ ] 1999年6月12日、巨人との首位攻防戦(甲子園)12回裏同点一死1. 3塁の場面(投手:、捕手:)でを打ちサヨナラ安打を記録。 初球の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同様の投球を打ち、三遊間を抜いて左翼前へ転がした。 外し方の甘い投球が来るように、初球の前より内の三塁側の白線付近で構えておき、が二塁ベース寄りに守っていて大きく空いた三遊間を狙ったという。 巨人側から「打つ際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しておりではないか」という抗議があったが、球審のは「バッターボックスの白線に左足のは残っていた(はみ出した足が白線を踏んでいれば反則打球にはならない)」とこれを退けた。 自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、予め打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造と大きく外された投球を打つ練習を行っていた。 また野村監督とも柏原を通し状況により実行許可のサインをもらえるよう打合せていて、実行直前にサインが出されていた。 なお巨人側のこの敬遠策は走者三塁となったためのであるが、前イニング同点の場面での阪神の攻撃においても先頭・新庄のが出たため満塁策がとられ、後続は三者凡退するという経緯があった。 新庄のこのプレーは引退後の2015年に行われた阪神球団創設80周年特別企画でのファンに対するインターネットアンケート「思い出のシーン ベスト10」にて第6位に選出された。 この試合では他にも、リードされた直後の8回の攻撃で同点ソロ本塁打を放つなど、6打数4安打2打点を記録。 12回の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった事情でプロ初のに就いた。 ヒーローインタビューでは、最後の質問に対して「 明日も勝つ! 」と宣言し、そのままお立ち台を離れ自らインタビューを締めた。 しかし翌13日の同対戦でチームは敗戦。 自身も前夜から一転してから3打席連続三振を喫するなど5打数無安打に終わった。 自身は前夜の取材では、敬遠球を打つのは一度きりと宣言していたが、この日の試合前にも大きく外された投球を打つ練習を行っていた。 以降しばらくの間、新庄を敬遠する際には相手捕手が投手に対して投球前ごとに大きく外すようを送る姿が見られた。 7月の第2戦(甲子園)でから記録した自身球宴初安打が、全セ・リーグ通算1000本目の安打となった。 第3戦・2リーグ制発足50周年記念試合()ではから球宴初本塁打を放つなど全セの全2打点を記録して、初のを獲得した (「」も参照)。 9月10日の巨人戦(甲子園)で決勝本塁打を放ち、再びお立ち台で「 明日も勝つ! 」と宣言するも、今度は翌日から12連敗(球団歴代最長タイ〈2016年終了時点〉)を喫した。 この年はチームに復帰した恩師である柏原打撃コーチの指導のもとで、打撃成績は前年の低迷からは持ち直し、5年ぶりの打率2割5分台に復帰して14本塁打。 5月にはを初受賞。 この年の投手4冠を達成した巨人の新人・上原浩治との対戦では打率. 381(21打数)・3本塁打を記録し、低めへのを難しい体勢で打った本塁打 や前述の連続三振などにマスコミも注目した。 を5月後半まで記録せずシーズン初は珍しい(前述)であったが、シーズン総数は21と終わってみれば両リーグ最多でキャリア最多を記録した。 ゴールデングラブ賞受賞。 翌2000年の年俸は阪神時代最高の推定7800万円となった。 オフに左膝の遊離除去手術を受けた。 は手術の影響で春季キャンプは別メニュースタートになるもキャリア唯一となる開幕戦4番で先発出場した。 シーズン序盤に故障離脱もするが4番中堅でほぼ固定起用された。 6月17日に自身の公式サイト「 CLUB SHINJO」(旧サイト)を開設した。 7月20日に甲子園で行われた巨人戦で通算1000試合出場を達成した。 26日には生まれ故郷長崎県のでの第3戦でから左翼場外への本塁打を放っている。 9月30日の広島戦で9回裏にから右翼席へサヨナラ本塁打を叩き込んだ。 (これが虎戦士としての最後のホームラン。 加えても含めNPBで記録された最後のサヨナラホームランである)。 この年は6月に自身2度目の4試合連続本塁打を、9月には16試合連続安打を記録した。 はチーム最多で自己新となる13回を記録するが僅か1回の差でのタイトル(特別賞)を逃した。 終わってみれば打率. 278 142安打 23二塁打 28本塁打 85打点(本塁打・打点はキャリア最多。 ホームランは「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲ホームランが20本)15盗塁でチーム六冠王に輝き、猛打賞10回を含む(三塁打以外の)打撃成績全てがこの年のチーム最多記録だった。 ベストナイン・ゴールデングラブ賞受賞。 シーズンオフの11月に開催された日米野球に出場して打率. 409(22打数)を残した。 MLBへの移籍表明 [ ] 2000年8月に取得した初めてのを11月9日に行使してFA宣言。 横浜およびヤクルトとの交渉が報道された。 シーズン中より残留交渉を重ねてきた阪神が当年の好成績の評価と、人気選手を引き止めようとして提示した条件は、他球団より好条件となる5年契約総額12億円(金額は推定)であった。 しかし新庄の決断は交渉をしていた阪神の球団関係者も予想できなかったところである 、のへの移籍となった。 契約内容は、契約金30万ドル(日本円換算で当時約3300万円)・年俸20万ドル(同2200万円、当時のメジャー選手最低保障額)プラス出来高払い50万ドル(同5500万円)の3年契約 であった。 シーズン中にはメッツのスカウトや補佐も試合を視察していたが 、移籍交渉の事実はメッツ側の意向で公表されていなかった。 へ移籍した外野手と共に日本人(投手以外)として初めてMLBの球団へ在籍することとなった。 12月11日の契約締結後の移籍発表会見では「 やっと自分に合った野球環境が見つかりました。 その球団とは、ニューヨーク・メッツです。 」と発言した。 背番号は阪神時代と同じ「 5」に決まった。 12月27日、タレントのと入籍。 彼女との交際は始まった1993年当時から認めていたが 、入籍に際しそれまで約8年の間同棲していたことを公表した。 夫人は芸能活動を2005年まで休止した。 MLB1年目は自身の意向で単身渡米し 、2年目より夫人も居を移した。 をMLBでの3年間、マイク・ニコテラおよびその同僚のジーン・カザレッジョが務めた。 を2001年は球団職員・ が、2002年より球団職員・(2003年は新庄と共に移籍)が務めた。 また2001年より現役引退まで数人のと専属契約を結んでいた。 のでの新庄を取材する日本人メディアの多さや新庄の話題性の高さについて、が「がきた」と表現して報じた。 での成績に対し球団よりジョン・J・マーフィー賞 を受賞して開幕メジャー入り(MLBでの3年間は毎年開幕メジャー入り)。 シーズン序盤は途中出場も目立つが実績に伴ってレギュラーとなっていき、打順は7番・6番・1番・3番・4番など様々となった。 MLBでの守備はの全てへ毎年就くが、この年のみ中堅メインではなく両翼へも万遍なく就いた。 4月3日の開幕戦(対、)8回表の代走としてMLB初出場。 一塁としては珍しい外野への飛球の時ので二塁へ進塁し(右中間の手前への飛球を中堅手が捕球後)、10回表の初打席では ()から初安打を記録した。 5日の同対戦で7番・右翼手として初先発出場。 9日の本拠地開幕ブレーブス戦()でから初本塁打を放ち、チームメイトが整列しての日本式の出迎えを受けた。 この初本塁打を機に、メディアが新庄の姓を文字ったである「 (シンジョイ)」を使い始め、以降これは愛称として浸透していった。 27日に アジア人初の死球での出塁を記録した。 5月24日の戦の大差リード中 11-3 の打席で3ボール-0ストライクから打ちに出た行為がに反するとされ、翌日の同対戦で足にを受けた。 MLB1年目には他にも、日本では日常的に行っていた、本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げる行為()や、その後ホームイン時に手で触塁する行為()が相手チームから挑発的と解釈されたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際にが出すサインを覗いているのではないかという疑惑()をかけられたりもした。 左太股の故障をおしての出場を続ける中、6月17日の戦(シェイ・スタジアム)2点を追い掛ける8回裏一死一三塁の攻撃で二塁ゴロを放ち、全力疾走して一塁へ足から滑り込んで併殺は阻止した(打点1)。 その後に次打者の逆転決勝2点本塁打が出て、この試合は屈指の名試合と称され、新庄の故障をおしての走塁は「 カミカゼ・スプリント」と称されて報じられた。 しかし代走を送られこの走塁が最後のプレーとなり、20日より左太股裏()肉離れで15日間の(期間は延長できる制度)に入った。 その後級・での調整出場2試合 を経て7月16日より復帰した。 22日、戦()6回裏一死一塁の中堅守備で、直射日光を受ける中、の方向への大飛球を背走して追い続けた末にフェンス手前で振り向くことなく(背面キャッチ)。 このプレーは、の「」を彷彿とさせると報じられた。 監督などからとの評価を受け打順3番で起用されることが多くなり 、9月11日に起きたがに影を落とす中、チームの進出争いに終盤は4番打者としても貢献した。 この年は外野3ポジションそれぞれでを記録して総数は12(リーグ外野手5位、両リーグ新人外野手最多、球団新人外野手歴代最多〈当時〉 )。 打撃では故障離脱の影響もあり規定打席には未到達(MLBでの3年間は毎年が未到達)ながら、満塁時に打率. 583(12打数7安打)・打点17を記録し 、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多。 () などを受賞した。 翌2002年の年俸は135万ドルとなり、日本円換算で当時約1億3500万円と自身初めて1億円を超えた。 プライベートではとを受賞。 以降の野球以外での受賞歴については「」を参照 ジャイアンツ時代 [ ] 2001年12月16日、 ()内野手と共に、投手との2対1で移籍した。 背番号は引き続き「 5」。 は球団が獲得に際し想定していた通り、監督のより1番中堅で起用され開幕。 1番打者ということで基本的に早いカウントでは打つなとの指示を受け 、4月下旬に打撃不振で打順降格してから7月下旬の離脱(後述)までは7番など主に下位に入った。 5月11日、戦()1点リード8回裏一死一塁の守備で、の右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて すぐさま本塁まで約90メートルをワンバウンド送球して走者・ ()を補殺した。 このプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入した。 試合はそのまま勝利し「新庄の肩が試合をした」などと報じられ、相手監督のもこのプレーを賞賛した。 7月、で100万票以上を得て外野手部門第4位となった。 25日の出場を最後に右太股()を痛め15日間の故障者リストに入った。 その後級・での調整出場2試合を経て8月13日に復帰出場するが、離脱中に外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失った。 復帰後の先発出場は激減し、この年は打撃のほとんどの部門において前年より成績を下げた。 守備ではリーグ外野手および中堅手の1位を記録。 日本人選手初のワールドシリーズ出場 10月19日、第1戦()にて9番・で、日本人選手として初めてに出場。 指名打者起用について監督のベイカーは「守備面を考えれば新庄を中堅守備に就かせたいが、(当時は相手先発が左投手時限定の先発起用方針で、かつ第3戦 - 5戦は指名打者制ではなく)シリーズを通して先発出場するロフトン中堅手のリズムを崩せないため」と説明した。 第2打席にからシリーズ日本人選手初安打となる中前安打を放ち、この時使用したバットは「 TSU No. 5」と自筆サイン入りでに展示されている。 27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)の3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場するが、の前に空振り三振に倒れた。 チームはそのまま敗れシリーズ制覇を逃し、選手らはナ・リーグのを翌年に受け取った。 当ポストシーズンでの個人打撃成績は出場4試合・8打席で安打は前述の1本であった。 オフ、球団は翌2003年の契約オプション を行使せず、11月15日にとなった。 メッツ復帰 [ ] 1月11日に古巣のニューヨーク・メッツと年俸60万ドル(日本円換算で当時約6000万円)で契約した。 背番号は引き続き「 5」。 オープン戦で50打席以上のナ・リーグ選手としての最高打率. 426を残すも 、シーズンでは最終的に現役引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり 、主に相手先発が左投手時の先発中堅手としての起用で出場試合は減少した。 23日のターナー・フィールドでのブレーブス戦では外野手としてキャリア唯一となる、勝利を決める最後のアウトの補殺を記録(中堅からの本塁直接送球で同点の走者を刺した)。 打撃成績は5月にこれまでの自身ワーストとなる24打席連続無安打を記録するなど次第に低迷していき 、6月28日のヤンキース戦第1試合()終了後に、MLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めて落ちした (最終出場は前日27日の同球場での同対戦)。 その頃「あのような成績でメジャーにいるのは恥ずかしかった」と語った。 この年はスプリングトレーニングで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、監督との確執が報じられた。 7月17日にから外れとなり、後日にメッツとマイナー契約を締結。 AAA級・(背番号 23)でシーズンを終え、打率. 324(111打数)・本塁打3・打点9を記録。 マイナー生活では様々なメジャーとの条件格差を体験するが、昇格を夢見て頑張る若い選手との交流などもあり、これまでの野球人生で一番に学べ、楽しい時代であったと語っている。 なお自身は渡米する2001年シーズン前には、MLB移籍は3年間と示唆していた。 日本ハム時代 [ ] 移籍先はNPBの翌シーズンよりへ移転するに決まり、契約金4000万円・年俸8000万円 プラス出来高払い5000万円の2年契約(金額は推定、補殺数の出来高払いもあり )を結んだ。 最初にオファーを受けた球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという。 他にオファーを受けたNPBの球団はであった。 また非公式ながら最初に獲得を打診してきた球団は巨人であるという(引退後に告白 )。 古巣の阪神は外野手層が厚くなった事情からオファーを出さなかった。 入団発表予定の前日となる11月19日、映画『』の日本公開特別試写会にて、非公式に入団を発表した。 翌20日の仮契約の席にてサインする様子が新庄の希望で後にテレビ放送された。 仮契約後の入団公式発表会見では、北海道などのファンが自身の入団を求める署名を紹介した。 12月3日に新本拠地・で行われた入団発表(正式契約後)の会見は、当初非公開の予定が約2000人のファンが来場したため、急遽グラウンドにて一般公開された。 会見では「 札幌ドームを満員にする」「 チームを日本一にする」と目標を掲げた。 は「 SHINJO」、背番号は「 1」と決まり、自身の専属広報にが就任した (現役引退まで在任)。 また日本ハム時代の専属トレーナーは自身運営のスタッフが務めた。 入団初年度よりファンサービスの一環として、本塁打時の談話にて独特の打法命名()を始めたほか、翌年にかけて試合前にて かぶりもの()を着用するというを5度行い 、該当試合でチームは3勝1敗1引き分けの成績を残した。 かぶりものパフォーマンスについての詳細は「」を参照 は開幕から7月まで主に2番中堅で、8月早々に打順をと交代した後はまでの1番で起用された。 3月28日、開幕2戦目となる大阪ドームでの戦でから、北海道日本ハムとしての球団第1号本塁打を記録。 5月30日、での戦でからNPB通算1000安打を達成。 球宴予告MVPを本盗で決めて……「これからは、パ・リーグです」 [ ] 2004年の前半戦最終試合(札幌ドーム)で受けた入団後初のヒーローインタビューと後日の取材にて、出場について触れ「MVPは僕のものです」と宣言した。 7月11日、第2戦()3回裏二死三塁の場面(:元同僚の・、打者:同僚の)で、三塁走者の新庄は捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り本塁にヘッドスライディング。 投手からすぐさま送球されでセーフとなり、球宴史上初となる単独を記録した。 が脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びを表した。 このプレー直前に新庄は三塁塁上から、三塁を務めていたや三塁側の対戦相手である全セ・リーグのベンチの・などに対して本盗敢行についての相談を行い、古田・山本は新庄に対して敢行をあおるジェスチャーを送っていた。 この試合では二塁打2本を記録して、球宴通算打率を. 382とし、当年開催終了時点30打席以上の選手として歴代5位となった。 また本盗での決勝点と合わせ全の全2も記録して、先の宣言通りにMVPを獲得した。 ヒーローインタビューでは、この年起こったを受け「 これからは、パ・リーグです」と宣言した。 走者追い越しでサヨナラ「フェンス越え」安打 [ ] 2004年プロ野球再編問題から発展した日本初の明けの初戦となる、9月20日の戦(札幌ドーム)試合前に「 一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、・・・坪井智哉との同僚外野手5名で『』のかぶりものパフォーマンスを実施した(他人と合同では初実施)。 プレーオフ進出争いを繰り広げる中での試合では、4-8で迎えた4回裏にから左翼へソロ本塁打を放った。 さらに9回裏にはチームが9-12から12-12の同点として なおも二死満塁の場面で、から4回の本塁打時と同じくへ打球を運んだ。 この場面で一塁走者のは歓喜のあまりに新庄を二塁の手前で迎え、二人は抱き合ってその場で一回転。 この動作により新庄は前位の走者を追い越したことになりアウト(後述)となった。 しかし安全進塁権のある三塁走者が本塁へ到達したので(勝利)は成立した(安全進塁権下において、二死からの追い越し行為による第3アウト〈後述〉の場合は、先行走者の進塁権は確保されるが、本件は記録上本塁打とはならないため、決勝点の得点時において試合終了となる。 したがって三塁走者の得点をもってサヨナラゲームとなりスコアは13x-12)。 新庄の打席には通常はアウトとなった場合に記録されるではなく、一・二塁走者と同じくが記録された。 なお新庄の打撃記録はサヨナラ()となった(二塁到達が果たせなかったため)。 サヨナラ本塁打の取り消しは史上3例目であるが、取り消された結果でもサヨナラ勝ちのままとなるのは初めてである(「」を参照)。 またサヨナラ打による得点が満塁本塁打の場合の4ではなく1となったことにより、この試合のチームの総得点となった13得点というのは、サヨナラゲームにおけるチーム総得点のリーグ歴代最多タイ記録である(2016年5月14日時点)。 また仮に満塁本塁打が成立していたとすれば、個人通算サヨナラ満塁本塁打のNPB歴代最多タイ記録達成(当時2本)となるところであった。 新庄はアウトとなっているがダイヤモンドを一周し、本塁付近でチームメイトから手荒い祝福を受けた。 この後、新庄の満塁本塁打が消えたことに対し責任を感じた田中より謝罪を受け、新庄は「いいんです。 勝ったんだから」と笑顔で返した。 ヒーローインタビューでは「 今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」と発言。 さらに「 明日も勝つ!」と宣言して、ではお立ち台でその言葉を発すると翌日にチームは負けておりとして報道されていたが、翌日も勝利した。 この年は猛打賞12回(チームは該当試合で11勝)・打率. 298(リーグ16位)とそれぞれキャリア最高を記録。 7月から9月はいずれも月間打率3割以上を残し 、7月には下旬に『』のかぶりものパフォーマンスを行った試合から5試合連続を記録。 8月には中旬から7試合連続複数安打とリーグ月間最多二・三塁打(11本)を記録。 9月には全16試合中15試合で安打し、前述したストライキ明けの試合から3試合連続本塁打するなど、それぞれリーグ月間最多の本塁打7・打点20・得点15を記録して月間MVPを受賞。 守備でもリーグ外野手最多272刺殺を記録するなど、球団移転初年度での進出に貢献。 プレーオフ第1ステージにて自身NPBポストシーズン初出場を果たした。 11月の日米野球にファン投票選出されるも、シーズン終盤から悪化させた右太股裏痛を理由に出場を辞退した。 を選定する記者投票で第4位(チーム最多)となる点数を得た。 受賞は他に、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、3回(歴代年間最多タイ)、功労賞など。 は1番中堅で開幕して、打順は5月中旬より7月中旬の故障(後述)までは主に5番で起用された。 11日、甲子園での古巣阪神戦で本塁打を打った際にからも拍手を受け、打法名「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と命名した。 7月上旬より自身初の3試合連続猛打賞を記録するも、19日に死球を受けて右手を挫傷した。 その後はその故障による登録抹消期間もあり出場がまばらとなり 、でも話題は提供するも打席数は1に終わった(「」を参照)。 この年は規定打席に到達できなかった。 ゴールデングラブ賞を外野手部門最多得票で受賞するが、授賞式を欠席し、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。 1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。 来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。 そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」と声明を出した。 2年契約満了のため結んだ再契約は、新庄側の希望で1年契約、年俸はNPB歴代最高昇給額(当時)の2億2000万円増であり、キャリア最高額の3億円となった(金額は推定)。 新庄劇場 [ ] 、阪神時代の監督であったがオリックスの、がのと同リーグ球団の監督に就任し、ロッテの監督(2001年メッツ時代の監督)と合わせ、3人の恩師と対戦することとなった。 1年間を6番中堅でほぼ固定起用された。 自身の発案で「ファイターズ超満員大作戦(43,000プロジェクト)」と銘打ち 、何かやりますと予告していた3月25日の開幕戦(対楽天・札幌ドーム)試合開始にあたり守備へ就く際に、自身がのを運転して入場し場内を周回して守備位置へ向かい、続いて他の先発選手もそれぞれの助手席に乗車して守備位置へ向かうというパフォーマンスを、満員となった観客の前で披露した。 これを皮切りとして、この年の試合前に本格的なパフォーマンスショーを行った3試合はいずれもチームが勝利を収めた。 詳細は「」を参照 4月18日、東京ドームでのオリックス戦にて、1本目の本塁打を「 28年間思う存分野球を楽しんだぜ。 今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名することにより、試合中に当シーズン限りでの現役引退を表明。 そしてヒーローインタビューで改めて引退を宣言した。 なお引退を表明した回の命名を最後に、2004年より続けてきた本塁打への打法命名を封印した。 引退表明以降のマスコミからの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「 」と形容されて連日のように報道された。 襟付きアンダーシャツ問題 30日の戦へ出場した際、の下に着用していた襟付き練習着についてマナーの問題で物議を醸した。 自身は試合前に審判団へ同品を着用しての出場可否確認を求め、パ・リーグ審判部長の「現行規則では明記されていないため、今後の検討材料にする」との判断により着用許可を得ていた。 試合中から試合後に渡り、相手球団の監督およびフロントが苦言を呈し、審判団の協議の末「今後は着用しての試合出場不可」と通告を受けた。 さらなる物議や新庄の意図についても含め、詳細は「」を参照 6月16日、札幌ドームでの広島戦でからNPB通算200本塁打を達成。 7月、現役最後となるの第1戦()にて、中堅守備での好捕などでを2つ獲得して優秀選手賞を受賞(「」も参照)。 引退試合・セレモニー 9月27日、最終戦となる札幌ドームでのソフトバンク戦にて、この日限定で背番号をプロで最初に背負った「 63」に変更。 これに伴い、元々同番であるも1日限り「68」に変更した。 チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合後に引退セレモニーが行われた。 場内を消灯して大型ビジョンに流された野球人生を振り返るVTRを、中堅の守備位置から帽子の上にグラブを被る姿(日本ハム時代の新庄の恒例となっていた姿である)で観た後、ユニフォーム・グラブ・リストバンド・タオルをその場に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後にした。 ユニフォームを脱いで現れたアンダーシャツの背中には「 今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ! 」とファンへ向けるメッセージがプリントされていた。 スピーチは行わなかったが、去り際には大型ビジョンに「 残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」と署名付きの直筆メッセージが表示された。 なお球団はこの時点では新庄の引退を認めておらず(慰留するため)、このセレモニーは球団ではなく自らがプロデュースしたものであり、先の引退表明を東京で行ったことに対する地元ファンへのけじめの意味合いも込められていた。 予定通り、翌28日に渡部と共にそれぞれ背番号を元に戻した。 自身NPBでは初めてのリーグ優勝を決めた第2ステージ(対ソフトバンク・札幌ドーム)の全2試合通算で6打数2安打1打点(第1戦の勝利打点)を記録した。 自身初出場の日本シリーズで、日本一を達成して引退 終了後の11月に開催予定のにファン投票最多得票で選出されるも、引退することを理由に出場辞退を表明し「日本シリーズで完全燃焼したい」と声明を出した。 このシリーズでチームは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝き、個人5試合通算17打数6安打1打点を記録した。 10月26日の最終第5戦(札幌ドーム)8回裏、涙を流して入った現役最後の打席では、からのに倒れた。 最終回の守備、二死からアレックスの左飛で日本一が決まると、捕球したは方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱き合った。 そして両者はマウンド付近にできている歓喜の輪へ向かい歩き出すが、新庄は涙を流し、まともに歩くことができなかった。 日本ハム入団会見で掲げた2つの目標である「 札幌ドーム満員」と「 チームの日本一」を共に達成してユニフォームを脱いだ。 翌27日に札幌ドームのグラウンドで引退会見を行い、11月のについても、気力と体力の限界を理由に出場辞退を表明した。 11月8日、10度目のゴールデングラブ賞を受賞。 シーズンMVPを選定する記者投票では第5位となる点数を得た。 18日、札幌で行われた優勝パレードに私服姿で参加し、これがファイターズの新庄としての最後の姿となった。 シーズン中から引退撤回を求めるファンが署名活動を行い 、球団からも撤回要請を受けていた。 しかし本人の意思は固く、球団側は手続き上、とすることを勧めるが、本人側の希望でとなった。 現役引退後 [ ] 現役引退後はへ転身。 また(を使用する制作および)と、よりごろまでは競技の練習にも取り組む。 詳細は「」および「」を参照 1月28日、2003年を最後に休止していた自身の公式サイトの更新を再開して、今後の活動の方向性などを報告した。 3月1日、2006年度・スポーツ賞を受賞。 4月25日、前年に行った寄付についてを受章()。 12月28日、夫人との離婚を自身の公式サイトにて連名で発表した。 会社設立 [ ] 1月28日、 新庄剛志が株式会社 レハサフを設立して取締役に就任した。 業務内容はアスリート・アーティスト等のマネジメントや、・グッズの企画・販売など。 自身の公式サイトを自社のものと共同として、名称「CLUB SHINJO」から「」へ変更した(に自社を閉鎖するが、以降も個人の公式サイトとして存続)。 自社は5月より元同僚・とマネジメント契約を結んでいた期間がある。 5月18日、でのソフトバンク対日本ハム戦の投手として、余興ながら森本と1打席の真剣勝負を行った(「」を参照)。 11月23日、札幌ドームでの日本ハムのにて特設スペース「SHINJOコーナー with ひちょ」が設置され、および森本のプロデュース商品などが販売された。 28日、にて「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌年の自身の活動予定(自社商品の開発・・・地方競馬の馬主〈後述〉・)を発表した。 この頃、絵画制作モデルとして購入する馬がのとなる予定であることから 、 NAR の資格を取得していた。 同馬は タノシンジョイ号と命名され、9月の初出走で勝利を挙げた(翌年にはへも一度出走)。 また翌年公開予定の映画『』の製作総指揮()を務めた。 同作品主演・が11月1日の・日本ハム対巨人第2戦(札幌ドーム)にて始球式投手を務めた際に、付き添ってグラウンドへ登場し 、その後の同試合テレビ中継にて自身初のを担当した()。 バリ島移住 [ ] 前半を最後にメディア出演がなくなり、この頃より・へ移住した。 当地への移住を決めるきっかけはCM撮影での訪島であった。 モトクロス競技の練習は当地を拠点として行っていた。 また当地では日本で始めた絵画制作に加え、当地の子供達への簡単な野球指導も行っている。 8月初旬、自身の父親の通夜・告別式にてメディアに映った。 9月8日放送のTBS『』にて2年ぶりにテレビ番組へ出演し、以降も仕事などの度に日本へ帰国している。 10月、球団買収される予定のの買収企業がとなる場合の、次期監督の最有力候補に挙がっていると『』が23日より複数回に渡り報じるも実現しなかった。 12月9日、入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された(も参照)。 11月18日の阪神対巨人OB戦(甲子園)では試合には参加しなかったが、試合のダイジェスト番組の企画でらがバリ島の自宅およびモトクロス場を訪れた時に収録した、新庄からのビデオメッセージが試合のイニング間に大型ビジョンで放映された。 現役復帰宣言 [ ] 11月13日、自身のインスタグラムに動画を投稿し、翌年のトライアウトを受験し現役復帰を目指すためトレーニングを始めると発表した。 が「WorldTryout2019」の監督に就任したことで刺激を受けたとしており、動画では「みんな、夢はあるかい? 1%の可能性があれば、必ずできる。 きょうからトレーニングを始めて、もう一回、プロ野球選手になろうと思います。 みんなも何か挑戦しようぜ」と語りかけた。 同月18日には日本に帰国したことを自身のインスタグラムで報告した。 その後、2019年11月27日付で選手公示が抹消され、選手公示された。 野球選手としての特徴 [ ] 前書き [ ] 守備において、NPB・リーグの年間1位を3回(1993年、1998年、2004年)、2位を4回(1994年、1996年、2000年、2006年)記録。 外野守備に対して一切の手抜きがなかったと評されたことがあるが 、に対し故意にスタートを遅らせてしなかった経験があり、その動機は該当試合で打ちこまれていた投手からそれ以前に、打撃陣の不振のせいで勝てないと批判されたことを思い出したからという。 なお、この故意に刺殺しなかった行為を初めて告白した際には、動機を「延長戦に入っていた試合後にへの参加を予定していたので、早く試合を終わらせたかったから」という趣旨で説明していた。 打撃において、年間での3割や30に到達した経験はない。 タイトル争いの経験としては、阪神時代2000年の(特別賞)を1点差で逃している。 走塁において、年間数は一桁台の年がほとんどであるが、阪神時代に年間のチーム最多盗塁を3回(1993年、1997年、2000年)記録。 年間数は阪神時代にリーグ最多を2回(1994年、1999年)記録している。 守備 [ ] 守備位置の遍歴 [ ] プロ入り前よりであったが、1年目の1990年にからのへ転向した。 内野守備 [ ] プロ1年目の1990年シーズン中に中日・遊撃手の守備から刺激を受け、自らを志願して遊撃へ転向した。 1992年5月下旬の一軍昇格時の三塁守備はが離脱中の措置であり、その後が離脱中の遊撃を経て中堅へ戻り定着するも、翌1993年1月のコーチ会議で遊撃への再コンバートが決まった。 同年春季キャンプにて久慈と守備位置を競うも守備力評価で劣り、腰痛の影響や首脳陣による「遊撃を守ることによりパワーのある打撃の長所を消してはいけない」との判断もあり、同キャンプ中に再び中堅へ戻り、そのまま外野手としてキャリアを終えた。 主に三塁に就いた1992年6月(下旬は遊撃)に・好捕賞を受賞した。 中堅への定着後も阪神在籍時最後の2年間に以外全ての内野守備経験がある。 また三塁へは1994年・1999年のでも就いた。 外野守備 [ ] 映像外部リンク 全般 NPB公式戦での外野守備は全てとしてであり、中堅守備について自身は、投手の動きがよく見えて投手へ助言できるからと好む。 ・守備の経験は、阪神時代のオールスターゲーム・であるほか、MLB公式戦では両翼ともに毎年あり、1年目の2001年は両翼へも万遍なく就いた。 守備理論に独自の合理性のもと拘りをもち 、日本ハム時代の外野守備走塁コーチ・や左中間コンビを組んだは、その理論には驚く点があるという。 ポジショニング などの状況や、投手と打者の特性の組み合わせにより、独断で頻繁に時には大幅に立ち位置を変える。 また中堅から両翼の選手へ指示を送るリーダー的存在である期間が長く 、自身がにも、その場から先輩外野手へ合図を数度送っていた。 構え 自身は少年野球の子供達にも向けた提言として「投手の投球モーション時に上半身を屈める構えは、外野への打球の大部分である飛球の場合に上体を起こすことで一瞬目線が浮き上がり、それだけでスタートが遅れてしまう。 自分の場合は常に上体を起こして体の力を抜いた状態でいて、小刻みなステップを踏みながらスタートのタイミングを計る」と解説する。 打球判断 元外野手のや(元同僚)は新庄の守備の優れている点として「打球を予測する勘、嗅覚」を挙げた。 走者が次々塁を狙った場合に余裕でできると判断すると、狙わせるためにあえて捕球を遅らす。 捕球 平凡な飛球でも落下点へ入った後に軽くジャンプしながらするというスタイルであり、これは高校時代に先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身に付けたものである。 阪神時代に少年野球の指導者より、野球少年に悪影響を及ぼすと指摘されたことを機にコーチと結んだ、もし落球した場合はやめるという約束により一時封印して以降は 、引退までこのスタイルを貫いた。 自身はその利点について「走り込んできて、フライ性打球は上方向、ライナー性は横方向へ早めにジャンプして、その頂点で打球を見ることで目線が一瞬止まり(ぶれを防ぎ)、打球の急な変化に対応できる。 そして着地しながら捕球することで、打球の勢いを吸収できる。 さらに着地後には、その勢いですぐにスローイング()できる」と解説し、これらを知人から「新庄式野球力学」と からかわれるという。 このスタイルはアメリカで「Shinjo hop」 「Shinjo's crow hop」 と称されている。 を行う外野手であり 、上で、袖の無いアンダーシャツを着用して腕を晒した状態であっても敢行した。 送球 捕球してからに移るまでの動作時間が速い。 内野手の中継に送球する前の飛球捕球や、跳ねたクッションボールを素手の右手で捕る際などには、スローイング体勢に入りながら捕球する。 送球の球筋が変化してしまう場合には、で投げ込み修正していた。 また強度の投げ込みを行い、肩と肘の張りをつくるという独特の調整法もとった。 若手時より球界の人間からもと評され 、その肩力をMLB時代のテレビ実況が「 ロケットアーム」と称した。 阪神で同僚時の捕手は新庄からの本塁送球について「きれいなの球質。 ワンバウンド送球時、手元までグゥーと伸びてくるので、どこでバウンドするか判らない。 彼の強肩なら、送球が内野手の頭上を通過するノーバウンドのバックホームをしたとしても、打者走者は送球間の二塁進塁を狙わないと思う。 」と語った。 他の野手との連携 他の野手の守備へのを怠らない。 MLB時代の2002年には中堅手としてに加わり刺殺を記録した。 2000年5月25日の中日戦(甲子園)6回表同点無死一三塁の場面で、打者・が打ち上げた左翼手の定位置付近への飛球の落下点にが入ろうとしたところへ、中堅・新庄が声で自身の到達を知らせながら走り込み(坪井から譲られて)捕球して本塁へ送球し、した走者・を補殺した。 2002年には中堅から走り込んで右翼守備をカバーして補殺したこともある()。 日本ハム時代、左翼・、右翼・との外野陣を2005年に10数試合、現役最終の2006年には1年を通して形成し、3人揃って2006年度を受賞した(同一チーム選手での同賞の外野手部門独占は〈・・〉以来、史上2回目)。 日本ハムでは投手交代時に外野3選手が中堅の位置に集まり、立て膝をついて膝を突き合わせ、グラブを帽子の上に被ってミーティングするシーンが恒例となった(新庄の発案)。 第4戦では、外野に加え内野でも4選手が集まり同じポーズをとって話す姿が見られた。 新庄の引退後も日本ハム外野陣はこのポーズでのミーティングを続けている。 その他 日本ハム時代には「走者がいる場面で後方への飛球を追い、刺殺は無理でフェンスに直撃すると判断すると、咄嗟に振り返って打球に正対する体勢を一度とり、塁間で打球を見極める走者に一瞬「捕られる」と思わせてに備えさせるなど惑わせて、その走者の進塁を一つ少なく抑える」というトリックプレーを稀に行った。 投手挑戦 [ ] 1998年秋季キャンプから外野手との兼務()を目指してとしての練習を開始した。 この挑戦について自身は「センターの守備位置からしてみたい」と発言するなど乗り気であった。 挑戦の発案者である監督のが発案した理由は、投手をやることで、打撃時に活かせるよう投手心理を理解してほしいため、また、上半身主体ではなく下半身を使う打撃に活かしてほしいためであるが 、当時に野村は「あれだけの強肩の持ち主。 どんな球を放るか元として純粋に興味がある。 しかし傾斜のあるからの慣れない投球動作により、また当時の痛をかばって投げていたことも影響して、左を痛めたために挑戦は断念した。 高校時代は外野手であったが、1年秋・新人戦の準決勝・決勝において、エース投手の故障による代役として連続完投勝利を記録した。 自身は「投手は好きではなかったし、コントロールもなくなどの変化球が投げられなかった」という。 当時の監督で監督時代にを発掘したは、新庄を投手として育てなかった理由を「外野守備に天性のものがあった。 加えて性格的に常に一生懸命投げるから肘を壊しかねず、素直なので打者に球種を読まれる恐れがある。 」と説明した。 打撃 [ ] 全般 投球初球からでも積極的にスイングする。 新庄の打撃の特徴について、ヤクルト監督時代の野村からは「状況によらず、強引に長打狙いのフルスイングをする」と評され 、同じくヤクルトの捕手として長年に渡り対戦したからは「狙い球を変えずにヤマを張ってフルスイングし、腹をくくって打ってくる。 例えば1・2球目にカーブが連投されたのに対し、直球を待っていたと予想される空振りを連続でした後の、(一般的に打者は空振りした球種を次も待つ傾向にあるので)今度はカーブを狙ってくるであろうと投げられた3球目の直球に対し、またも直球を待っていたと予想されるスイングで本塁打を打つ(そのようにして打たれた経験がある)。 一般的な打者に対してのマニュアルから外れるという意味で嫌な打者。 」との趣旨で評された。 であり、阪神時代の145本塁打中で右翼方向への当たりは4本であった。 に対しての成績は右投手に対してより良い場合が多く、大差がつく場合もあった。 MLB時代における2年目中盤以降は左投手時限定での起用が多かった。 比較的にを得意とし、などの落ちる球種をはじめとしたを苦手とする。 に対し苦手意識があり、日本ハム時代に対戦した右の(ロッテ)からは安打できず、次第に渡辺との対戦では起用されなくなっていった(通算対戦17試合で6打数3三振。 2006年は対戦6試合で打席なし。 阪神時代2000年にキャリア最多28本塁打を打ち、そのうち「先制・同点・勝ち越し・逆転」の殊勲本塁打は20本あり、13はリーグ2位(1位とは1回の差)。 MLB通算での時の成績は打率. 400(25打数10安打)・本塁打2・打点30であり、特に初年度2001年は打率. 583・打点17を記録し 、同じく2001年にチーム最多タイとなる勝利打点11を挙げるなど 、であるとの声が挙がった。 打撃において最も影響を受けたコーチは、プロ入り時の二軍担当で後に一軍でも指導を受けたであり、すり足打法(後述)やなどの試行錯誤を共にした(も参照)。 自身の打撃に対する考えや談話の中には「思いきり振っただけ」などのように単純明快な表現があるが、阪神打撃コーチ在任時のは若手時の新庄について「あの年齢であそこまで(打撃について)考えている選手はいない」と評している。 打撃復調へのヒントを求めて、グラウンド整備担当者に対して自身の状態を尋ねたりもした。 構え 両手を伸ばしてバットを高く掲げ、呼吸をするように幾度か全身の背伸びを繰り返す。 この待機の仕方は「 ジャック打法」と呼ばれた(由来は童話『』より )。 この動作は形を変え、時には行わず、MLB2年目ごろまで続けた。 MLB1年目には相手チームから「両手を上げた脇の下からが出すサインを覗いているのではないか」という疑惑をかけられたこともあるが、以後も自己流を貫くと疑惑は消えていった。 この動作の全身が伸びきった状態を描いたを自身の個人マークとして、グッズなどに使用している。 また新庄をするタレントのは、演じる際に新庄の特徴としてこの動作を強調する。 フォーム・スイング の時期が殆どである。 阪神時代後期にはなどを参考にした、の時期もある。 特に阪神時代は成績不振と打撃コーチが頻繁に交代することも影響して、フォームの試行錯誤を繰り返した。 柏原コーチ指導のもとで年間本塁打・打点のキャリア最多を記録した2000年シーズン序盤、自身はそれまでにおける最大の弱点とされたドアスイング(からインパクトにかけてが遠回りをして出てきてしまうスイング)について「昨年まではバットを棒のように使ってしまっていた」と表現し、好調の要因については「バットをのように使って打てた」「バットヘッドの重みと投球のスピードを利用して打てた」などと表現した。 日本ハム時代、自身は右腕の筋力が左に比べ強くなりすぎたことを気にしていたが、ヘッドコーチのアドバイスででバットを振ることで成績が向上した。 2005年6月12日の阪神戦で、の左翼席中段まで本塁打を運んだこともある。 本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げる。 これはと共にMLB1年目に相手チームより挑発的と解釈された行為であるが、放り投げる理由にはに滑り止めの松脂を多量に塗っていて手が離れにくい事情もある。 走塁 [ ] ベースランニング が広く 、一つ塁を回って以降のトップスピードが速い。 右打席でスイングが大きいため一塁までのタイムは4. 4秒と平均を下回る。 高校時代の直線100メートル走タイムは11. スライディング 阪神時代にヘッドを行い左肩を二度故障して以降はこれを封印するが、2004年のオールスターゲーム第2戦では時に敢行している。 打者走者として一塁へ駆け込む際では珍しい、守備側選手との接触を回避するための足からのフットファーストスライディングをMLB時代以降に稀に敢行し、2001年のの際にも足から滑り込んでいる。 その他 本塁打を打ったホームイン時に手で触塁することがある。 これはと共にMLB1年目に相手チームより挑発的と解釈された行為であり、この行為は以降MLBでは封印した。 手を使う理由はベースを土で汚さないためであり、から礼を言われたこともあるという。 評価 [ ] 受賞歴については「」を参照 NPB 2011年12月9日、「平成24年・第52回競技者表彰委員会・入り候補者名簿」のプレーヤー部門に掲載された。 得票は5で翌年の名簿から外れた。 が2000年より毎シーズンオフに行っている「選手が選ぶ!ベストナイン・中堅手部門」アンケートで、2004年・2006年に選出された。 に出場の「選手が選ぶ思い出のオールスター・ランキング」アンケートを中継局・が行った結果、が7票を集め第1位に選出された。 投票者は、、、、他4名。 他にプロ入り前にオールスターを観て印象的だったとして、現役時の取材でこのプレーを挙げた選手には、、、、などがいる。 は内の球団事務所を2012年に大幅改修した際、1階会議室の3部屋それぞれの部屋名に「北海道に移転してからの球団の功労者」として、、新庄、(入団順)の3人の姓のアルファベット表記を使用した。 時にはドラフトで注目された選手など、プロ入り前後の選手がもつ高い身体能力や野球センスが「新庄級」「新庄みたい」などと評されたり 、そのような評判を得た新庄と同じ九州出身の外野手が「新庄2世」と称されることがある(、など)。 MLB ()が2011年発表の " The 100 Worst Baseball Players Of All Time: A Celebration " に「But They Had Good Points(しかし、彼らは良い点を持っていた)」というグループで選出された。 野球用具 [ ] 短期的に使用した用具(オールスターゲームで使用したもの、襟付きアンダーシャツなど)については「」を参照 アドバイザリースタッフ契約• :1993年 - 2003年• 現役最終の2006年は特定の企業と契約せず、社から衣装類の、社から野球バッグ類の提供を受けるなどした。 社製 :外野手用 初任給を使い7,500円で購入し、MLB時代の同僚に誤ってスパイクシューズで踏まれて大破損したりと4回の大補修を重ね、現役引退まで使用した。 ひとつのものを長年使い続けるプロの外野手は稀であるが、これには父親からの「商売道具を大事にしろ」という教えが影響を及ぼしていた。 保管の際のなどにも気を配り、自身の「 もうひとつの手」と称する拘りの代物で、現役の間は他人がはめることを許さなかった。 冗談交じりにながら「もし盗まれたら引退する」と語ったこともある。 引退会見では、前日の最後の試合でのを捕球した際に破けたりと、消耗度合いが限界まで達していると語った。 2011年に父親が死去した際に、このグラブもに納めた。 打球の手元での急変化に対応するため、が「土手・中央・ウェブ・ウェブ先端」の4か所にあり、ウェブ先端部分から外側にボールが半個分ほど飛び出した状態でも捕球できるという。 使用時は手との固定のため、守備用手袋にを塗布する。 グラブ外側の親指部分に「 TH 63」(阪神球団マークと入団当初の背番号)と黒色で刺繍を入れている。 現役最終年には、手首(甲側)の位置にオリジナルタグを縫い付けていた(デザインはと「Shinjo」の筆記体表記)。 高校時代は社製・外野手用を使用。 特注品であり、各パーツなどについての注文事項を記した手紙を同社へ送付していた。 受注した「日本屈指のグラブ作り・型付け名人」として知られるは、あんなにも事細かな注文を受けた経験はないと語っている。 デサント社製:34. 5インチ・910g(1999年 )• オールドヒッコリー社製 Old Hickory Bat Company :素材・34インチ・890g(2006年) 他。 他選手よりの譲受品や借用品も試合で時折使用し、プロ初本塁打はのもので 、2001年には全10本塁打中9本をとのもので打っている。 を使用し、同品の普及以前の若手時は右手親指にスポンジを巻いていた。 打撃時の投手側に向ける肘をから守る防具。 1993年当時に同品は未普及であり、7月に死球を左肘に受け負傷したのを機に球団トレーナーに作成を依頼した、既存のを切り刻み改良し、即席で肘にフィットさせるものを着用し始めた。 またエルボーガードを外野守備時のダイビングに備え着用したこともある。 長年の足の故障を考慮しての改良を度々行い、主にミドルカットタイプを着用した。 2006年は奈良県の社製も着用した。 類 NPB時代はユニフォームを製作しているデサント社(個人契約もあり)および社(日本ハム時代のビジター用のみ)へ特注して、上着は既製品と比べて胸元部分が深くV字型に開き、袖部分が短くタイトなものを着用した。 日本ハム時代のズボンも特注の、裾がラッパ型に広がってスパイクの底の近くまで被さるものを着用した。 また日本ハム時代はズボンの臀部付近や帽子のつばなどにも見た目を良くする加工を施した。 アンダーシャツは主に、汗が首筋をたれ落ちるのを防ぐためので、夏場はのものを着用した。 ノースリーブのタートルネック製品普及以前の若手時には長袖の製品の袖部分を切断していて、この型のものを着用した選手はNPBでは自身が最初であろうという。 なお日本ハム時代にはNPBで初めて首部分に自身の個人マークをプリントする など、様々なデザインのものを着用した。 若手時にズボンの裾を足首付近まで下ろす穿きこなしが一般化して、そうし始めた当時のアンダーストッキングは、通常2枚穿く靴下類の代わりにサッカー用のものを1枚のみ着用していた。 これは規則では禁止であるがこちらの方が都合が良く、皆も真似しだしたという。 主に長いものを両手に着用し、日本ハム時代には短いものを2枚(隙間をあけて)ずつ着用することもあった。 色はNPB時代は主に。 MLBではチームカラー以外の用品の着用は認められないため、所属した2球団のカラーの中のオレンジ色を主に着用した。 日本ハム時代にはチェッカーフラッグ柄や水玉柄などの柄物も着用した。 特筆事項 [ ] 現役引退について [ ] 1995年の出来事については「」を参照 シーズン開幕直後の引退表明 2006年4月18日、恩師である監督が率いるオリックス戦(東京ドーム)2回裏にからソロ本塁打を打ちホームインすると、普段とは異なり外野応援席方向へ向かい、脱帽して深々と一礼した。 攻撃が終わり守備位置に就くと再びファンに一礼(阪神時代途中からファンの新庄コールに対しては、一礼からガッツポーズに変えていた)。 しばらくすると、恒例の本塁打の打法名が「 28年間思う存分野球を楽しんだぜ。 今年でユニホームを脱ぎます打法」と発表され、当シーズン限りでの現役引退表明がなされた。 7回裏にから満塁本塁打を打つと三たびファンに一礼し、今度は打法命名がなされなかった。 チームが勝利して受けたヒーローインタビューでは、冒頭からしばし沈黙した後に自らマイクを握り「 ええ……今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。 タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年……。 今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました」と観衆に改めて宣言した。 引退を決意した決め手は開幕戦で観客満員を達成したことであり、早ければその翌日にでも表明するつもりでいたという。 なおその決意はあらかじめ専属広報のへのみ明かしており、試合中の発表直前に荒井の判断でのなど一部の関係者へのみ伝えられていた。 またこの日の表明に踏みきった理由には、東京ドームが球団の前であり、自身のプロ初出場時の球場でもあるということもあった。 翌19日の試合前には監督をはじめとした現場の人間へ、早い時期に引退表明を行い驚かせた件、決意を一部の人間へしか伝えていなかった件を謝罪。 早期表明の理由を「 1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから」と説明し、理解を得た。 引退理由 概ね以下のような理由を挙げている。 守備の衰えと体力の限界。 左内の故障。 の低下 (遺伝性の眼病によるものとされる)。 開幕戦で観客満員を達成して夢が叶い「自分の仕事は終わった」という達成感。 足の故障に関しては、MLB時代に筋肉を2本切っていた。 動体視力の低下に関しては、2006年の開幕後1週間ほど経った試合から急に投球が霞んで見えだし、特に右投手のと左投手の投球が見えなかったという。 この動体視力低下の件は現役中は球団関係者へも明かしておらず 、またMLB時代の2002年頃に原因不明の目の痛みを抱えていたことも、引退後に判明した。 引退試合から現役最終試合・優勝パレードまで 「」以降を参照 引退記念キャンペーンなど 当時CM出演契約中である・の「SHINJO引退記念缶」が2006年10月2日より同年12月まで限定発売され、同時に「SHINJO引退記念キャンペーン」も展開された。 またと新庄の所属事務所(当時:剛ゴーエンタープライズ)が業務提携して開いた引退記念グッズショップが同年10月3日より全国数か所を行脚して設置された。 現役引退後の活動について [ ] エアブラシアート [ ] 現役引退後より(を使用する制作および)に取り組み、特に絵画制作には没頭した。 2018年の取材時点では絵画制作を行っていない。 絵画制作 作品数は2008年12月時点で30作を超え、数作品を公式ブログにて公開中で、の開催経験もある(を参照)。 作品の売却収入もあり、代々の自宅にはを設置している。 絵画制作を始めたきっかけは、2008年11月23日放送の『』のチャリティーオークションへの出品作品を描いたことである。 同プロジェクトへ参加した理由は、前年に出演した日本テレビ『』の企画にてへ行き、現地住民の厳しい生活状況を目の当たりにしていたためである。 その作品は「青空・夕空・夜空」を描いたもので、タイトル「Shinjo is Shinjo」と命名。 日本ハムファンの人物により300万円で落札された。 またの節も参照。 メイクアップ エアブラシをメイクアップに応用した新技法(エアブラシメイク、「」を参照)にも取り組んでおり、アメリカ・で生まれた同技法の日本での普及を目指す活動のプロデュースを手掛けた。 エアブラシメイクの複合ビル「HOLLYWOOD AIR TOKYO」(東京都)の2009年のオープニングセレモニーでは、エアブラシによるを行った。 モトクロス競技の練習 [ ] 現役引退後の2011年より移住先ので競技の練習を開始してプロレーサーを目指し 、2016年ごろまで練習を行っていた。 郊外の自宅近所に練習場(日本円にして2000万円規模)を開設して、地元住民へも無料開放している。 2012年には日本のでと共に走行練習を実施した。 人物 [ ] 人物像 [ ] 阪神で同僚時のは新庄について「No. 5にはカリスマがある。 彼が打つと甲子園は世界一熱狂的なボールパークになる」と評した(No. 5は当時の背番号)。 MLB時代ごろから「野球を楽しむ」といった発言が目立ち始め、日本ハム移籍以降は同僚へも「楽しもう」と声をかけ、試合中でさえ笑顔をみせることがあった。 MLB移籍以降には、その楽しそうにプレーする姿を指した愛称「 (シンジョイ)」が浸透した。 に対しては、自身から取材陣の方へ出向いて朗らかに話すとストレスはたまらないということをアメリカで学び 、その独特の喋り口は「 新庄節」 と称され、2004年のにノミネートされた。 また現役引退宣言で沸いた2006年の同賞には「SHINJO」「 」がそれぞれノミネートされた。 開幕早々に引退宣言して日本一を経験できたラストシーズンについて自身は「(強運を) もってるわ、俺。 本当にこの漫画みたいなストーリー、出来すぎてません、これ? 今後俺、体に気をつけたいと思います」と総括した。 ジャイアンツに所属した2002年の契約には400打席達成で数十万ドルのがあったが、達成まで残り6打席となっていたシーズン最終戦試合前の打順6番での先発出場が決定後の時間帯に、監督より詰め寄られ「なぜインセンティブの件を黙っていたのか。 申告していれば達成のための配慮をし、今日だって打順1番に入れたのに」との旨を問われたことがある。 これに対し新庄は「チームがプレーオフ進出を争っていたので、個人的なことで迷惑をかけたくはなかった」との旨で返答した。 日本ハム時代の新庄について当時のヘッドコーチ・は「チームの勝利最優先の精神を徹底して貫き、自分が三振してもチームが勝てば素直に喜べる選手だった。 当初は単なる目立ちたがり屋なのではないかと思っていたが実際は全く違い、常にチームの勝利、ファンに喜んでもらえることを最優先にしていた」と評している。 ファンサービス 日本ハム時代に独自で考案したファンサービスの詳細は「」を参照 「新庄のファンサービスなくして、日本ハムの北海道での成功はなかった(かもしれない)」といった声があり 、日本ハム時代に女性野球ファンの増加へも貢献したと評されている。 などでの質問に対して「そうですね」などと前置きしてから返答すると話が間延びしてしまうという持論から、自身は即答を心掛け、日本ハムでは一部の同僚へも即答を奨めた。 また「観客」という言葉は球場以外で観ている人間のことは指さないため「ファン」という言葉を使うこと、日本ハム時代には本拠地を札幌ではなく「北海道」と言うことに拘り、記者等に対してもそう言うよう指導していた。 日本ハム時代には試合で活躍してお立ち台の依頼を受けても、他に活躍をした後輩へ譲ることが幾度かあった。 また自身が赤色をトレードカラー(後述)とするように、後輩達へも各自の色を持つよう奨めたり 、に同僚も誘って実行した。 同僚も巻き込んでファンサービスに力を注ぐ狙いは、自身以外へも興味を持ってもらい新たなファン層を開拓するきっかけづくりにあり、後輩のは新庄の引退後もその役割を引き継いだ。 同じく後輩のも新庄の姿勢に学び、プレーとファンサービスの切り替えができるようになったという。 選手生活晩年には選手としてのファッションに関する話題が多く報じられたが、それ以前からファッション的なことに限らず、球界に前例のない行動が目立った。 引退を前にした現役最終年には「 ファンのために選手個々がいろいろなことを最初にやる勇気を持ってほしい」と球界全体に訴え、これからは選手のファッション性も向上しないと集客できなくなってしまうと危惧した(「」を参照)。 こういった派手でな言動が日本ハム移籍後には「新庄劇場」と称されて目立ったが 、試合前パフォーマンスなどの事前に各方面へ了解を取りつけるなど、周囲に対する配慮もあった。 漫画家のは「新庄ほど常にファンのことを考え、楽しんでもらおうと思っている選手はいない。 日本プロ野球界において、たった一人で球場を満員にできる唯一の選手だ」と評している。 トレーニング 幼少時から努力している姿を人には見せない性格で 、プロ入り後も同僚からの「個人練習している姿が見つかるとやめてしまう」といった証言がある。 阪神時代途中までは下半身の強化をしておらず、その理由は「 がはけなくなるから」また「走る時の足の回転スピードが遅くなるのではないかと考えていたから」と説明した。 しかし怪我防止のために考えを改め鍛えてみると、下半身は太らない体質であると判ったという。 MLB時代に足の筋肉を2本切って 以降は、故障箇所をカバーする筋肉をつけるため、ジーンズの着用も止めてハードな筋力トレーニングを続けており、日本ハム時代の同僚のは、新庄が鬼気迫る表情でバーベルを担いで片足屈伸を続ける姿を目撃した時には、圧倒されて声をかけられなかったという。 性格 幼少時から大会で負けて泣いた翌日には再挑戦し優勝するなど負けん気の強さを持っており、阪神時代晩年以降は敗戦後のコメントを例え自身が活躍していても控えていた。 反面、幼少時の得意のかけっこでは足の遅い友達を待ってゴールし、先生に「この子はタイムが計れない」と言わしめたというなどのエピソードがあり、現役時代には幾度か自身の代わりに若手選手の抜擢を監督へ進言したことがある(2003年オープン戦にメッツ同僚を、2006年リーグ戦に森本稀哲を 〈「」を参照〉、2006年日本シリーズにを など)。 裕福ではない家庭に育ち、高校時代に冬場の練習での寒さにたまりかねて革手袋が欲しいと言い、初めて親に物をねだると、父親は自分の手が荒れるのも構わず仕事用のを買うための予算を使い購入してくれたと感謝している。 幼少時から父親より「不言実行」の教えを受けてきたが、自身は目標ごとについては「有言実行」を目指す考えである。 阪神時代から時々の目標を積極的に公言し、MLB初打席安打やも事前のインタビューで予告していた。 その動機は、目標を公言することで実現できなければ恥ずかしいという感情をモチベーションにすると頑張れる性格であると自己分析するからであり 、現役引退後も目標を掲げる発言をすることがある。 トレードカラーと背番号・登録名 好きな色は「 赤」。 一軍定着と共にトレードカラーとして定着し、NPB在籍時はなどで主に赤色のものを着用した。 好きな数字は「 1」。 シンプルで格好いいからという。 1992年オフに球団より63からの変更を打診された際には「1」、もしくは憧れを抱くと目標とするが着用した「44」を希望したが、両方とも空き番ではなかった。 変更となった新背番号5に愛着を持ち、以降三度の移籍の際にも同番を背負い、その後 日本ハム移籍時に念願の「1」へ変更した。 また同時にはNPB初となる以外での表記「 SHINJO」とした。 の選手名表記が縦書きの球場ではアルファベットが縦に綴られて表記された。 しかし既に従来の漢字表記での知名度が高かったため、新聞などで漢字表記をする例が多く、「」や「新庄劇場」などのフレーズではアルファベット・漢字の表記が混在した。 引退した翌2007年に、親交があるが登録名を「TSUYOSHI」へ変更する際には相談を受けた。 外国語 MLB在籍時には自身の時間や精神的余裕を確保するためにも専属通訳を通して取材を受け、チームメイト等とは大きなを交えコミュニケーションをとっていた。 また「」の黒人選手とのエピソードも参照。 社会への影響 [ ] 1992年のの際の状況については「」を、2004年に北海道の理容業界へ与えた影響については「」を参照 特に2003年オフの日本ハム入団以降に、新庄が地元・北海道 や一軍春季キャンプ地・沖縄県 をはじめとする各地へもたらした経済効果についてが頻繁に報じられ、「 SHINJO効果」 (「SHINJOフィーバー」とも )と称された。 2006年のシーズン限りでの現役引退を表明後に、引退後のへの出馬要請をとより受けるも、出馬はしなかった。 社会貢献活動 [ ] 復興支援 1995年に所属する阪神の地元で起きたの際に、球団選手会副会長として同僚と共にの支援募金活動などを行った。 2001年に所属するメッツの地元をはじめとする地域で起きたの際には、同僚と共にの支援物資運搬などを行った。 2004年に起きたの際には、出演したラジオ番組イベントや自身の写真展での支援募金活動で集まった寄付金とポケットマネーを合わせた義援金と、クリスマスイヴ前には小型ケーキ約2000個を被災地へ贈るなどした。 同じく2004年に起きたの被災地へは、翌年の自身の本塁打数に応じた義援金を贈るなどした。 SHINJOシート・個人広告看板 日本ハムに入団した2004年より引退した2006年まで自費で、本拠地・での主催試合の外野左翼席に野球少年達などを無料招待する「SHINJOシート」を毎試合126席ずつ用意し 、上方の看板スペースの右翼側2枚分に個人広告看板を連ねて掲示していた。 この看板はSHINJOシートから見えやすい位置にあり、2枚共に同じデザイン(向かって右側は拡大されたもの)で、などが描かれていた。 なお現役最終の2006年のみ向かって右側の1枚のデザインを、が喋る余白のが描かれたものに新調し、観客満員達成時には余白部分へメッセージを入れると宣言。 そして満員となった開幕戦の翌日以降は「 札幌ドーム43,000ファン ヤバい 感動だぜっ!! 」と書き入れられていた。 また2005年より2006年までは準本拠地・での主催試合にもSHINJOシートを用意していた。 札幌ドームのバックスクリーン上方に合計7枚ある広告看板のうち、向かって右側より水色系・赤色系の2枚が新庄のもの(2006年) 寄付 2005年8月、母校の野球部がに出場したことを称え(車種は)を寄贈し、「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった。 2006年6月に達成したNPB通算200本塁打を記念してメモリアルが製作され、その販売収益金1000万円を「北海道の青少年のスポーツ振興のため」として道へ寄付した。 寄付金は道内の競技用具購入のために活用され、この件について道内の子供達から感謝の手紙を、から感謝状を受け取り 、翌年にを受章した。 「新庄」と名のつく市町村との交流 阪神時代の一軍デビュー後に、山形県・奈良県北葛城郡(当時)・岡山県真庭郡が、新庄剛志の人気にあやかり村おこしの一環として友好自治体共同事業協議会「新庄会」を創設。 その後、剛志を1993年11月より現役引退まで公式に応援した。 同会は1994年に創設記念の阪神公式戦「新庄ナイター」(甲子園、)を開催し、以降も球場での応援活動も行った。 剛志も現地を訪れており 、新庄村は1998年に剛志が訪村してクリスマスイベントなどへ参加した12月13日を「 DAY」と称して、翌年以降約10年間続ける村役場などでのクリスマスイルミネーションの点灯日を同日としていた。 対人関係 [ ] 首脳陣 プロ入り時の二軍打撃コーチであり、阪神で長年に渡り指導を受けたを師匠と慕う。 二軍時代には夜遅くまでの指導など、強く後押しを受けた。 一軍での初本塁打やMLB移籍の際にも真っ先に報告したという。 新庄の父親は著書で柏原の指導法について「見守り続けた上で、わかりやすい言葉で端的に伝える」やり方が、自身の教育方針とも合致して息子と相性良かったとの旨の記述をしている。 新庄は1995年オフに柏原が阪神から退団したことをきっかけに、自身もトレードを希望した(当時新監督のとの関係も含め、を参照)。 阪神で最後に仕えた監督であったは新庄の現役時代を振り返って「もっとアタマを使う習慣があったら、どころではない、長嶋をも超える、最強の選手になっていたかもしれない」と評した。 野村は阪神監督に就任した1999年から新庄を度々4番打者に据え、抜擢の理由を「地位が人を育てる」と説明した。 2000年に新庄は打撃の主要三部門などで過去最高の成績を残し、著書に「ウマが合った。 選手個人の性格をうまく見抜いて、それを利用する」「監督の言葉で力を出すことができた」などと記した。 また「」および「」のエピソード、「」も参照。 野村や、は監督としての新庄への指導において「褒めて、乗せる」ことに重きをおいていた。 2003年オフの新庄のNPB復帰の際に、オリックスGMの中村と実際にオファーを出したロッテの新監督バレンタインは新庄の獲得に興味をもっていた。 また移籍先となった日本ハムの監督のは、新庄と前所属メッツ時代(2003年)の監督のとの確執が報道されていた件について独自に情報収集を行い、新庄の個性を尊重した上での指導法で接した。 チームメイト 阪神時代の同学年のとは親友で、阪神時代から日本ハム時代まで自主トレーニング等も共にした。 広沢は引退後に『』よりMLB1年目の新庄付特派員として派遣された。 後輩のとは阪神・日本ハムで同僚となり、日本ハム移籍を決断するにあたり、先に同球団へ移籍していた坪井の存在が大きかったという。 日本ハムでのも共に行った。 阪神時代のや、日本ハムではなど、来日する外国人選手とすぐに打ち解けあい、阪神時代には来日後の早い段階で解雇されていた外国人選手たちを擁護する発言もしている。 ジョンソン、タラスコとは2001年メッツので再会した。 また同年の背番号5は前年のジョンソンより譲られた番号であり 、翌年以降も互いの移籍や引退により、二人は2000年 - 2003年の期間に一年交代でメッツの「5」を背負っている。 MLBでの初所属チームとなったメッツでは、当時から日本でも知られていたと合計2年間同僚となり、公私にわたる交流があった。 ジャイアンツへの移籍時、同チームで中堅を任される予定の新庄は左翼手のから「俺はホームランを打つから、守備はおまえに任せるよ」と伝えられた。 誰もが一歩距離をとってしまう存在であったボンズとの親交を深め、日本ハムでの3年間の打席登場曲として、同僚時のボンズが起用していた『 ()』()を起用していた。 日本ハム時代の後輩のと師弟関係を築いている。 新庄の日本ハム入団が決まった頃の森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩み、同じ外野のスター選手の加入を快く思っていなかったが、新庄から打撃や守備を毎日根気強く教わるうちに「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたという。 新庄は日本ハム時代の3年間を北海道内のホテルので暮らしていたが、森本もそこに同居しているに近い状態であり 、球場でのかぶりものパフォーマンスなども共に行った。 新庄は現役最後の日に自身の背番号1の森本への継承を希望し 、現実となった。 また「」および「」のエピソード、「」の件も参照。 日本ハム時代の同学年のとは、チームを北海道に定着させるという方向性が一致したこともあり意気投合。 二人でキャンペーン等にも参加した。 日本ハム時代の後輩のとは不仲説やそれを否定する報道がなされた。 2006年のリーグ優勝決定後の合同記者会見で小笠原は「日本シリーズを制覇して監督はもちろん、ツーさんを胴上げしたい」と発言。 これを聞いた新庄は「感無量」と語った。 球団関係者 時に九州地区を担当したスカウトは新庄の気持ちが前へ出る性格も高く評価していたが、当初阪神としては上位指名を投手中心と決めていたため、他球団から上位指名されると予想する新庄の指名をほぼ諦めていた。 このためヤクルトを除く11球団スカウトが新庄家を訪問した中で、渡辺は比較的簡略に挨拶を済ませていて、しかも新庄本人と父親は留守であった。 よって父子は渡辺と指名後に初めて対面し、下位指名となった説明を受けるなどした際に、父子共に渡辺に対し好印象を抱いた。 入団後も渡辺は病気がちだった新庄の父親のことも気に掛け、新庄はの際にも渡辺から電話をうけ「親父さんは元気か。 心配掛けるなよ。 」とだけ告げられて感激したという。 1998年8月31日に渡辺が内のビル屋上から謎の転落死を遂げた直後の試合となる、翌9月1日・ヤクルト戦(甲子園)7回裏の2点を追い掛ける攻撃で、新庄はから1点差と迫る本塁打を放った。 善戦するも敗戦の試合後に新庄は「今の自分があるのは渡辺さんのおかげ。 どうしても勝ちたかった。 」と悔やんだ。 他球団選手 1992年に新庄から得意としていたを甲子園左翼席へサヨナラ本塁打()された広島・は、その打たれ方のタイミングや飛距離を受けて、それを機にパームを投げるのを封印した。 新庄は1997年のオールスターゲームにて後にベンチで落ち込んでいた際、大野から「若いもんが、そんな暗い顔をしとったらいかん」と励まされたことに感激し、後に「他のチームの人から、あんな優しい言葉を掛けてもらったのは初めてでした」と振り返った。 とは、阪神時代のオフに佐々木のラジオ番組へゲスト出演するなど親交があり、1995年の対戦にて放ったについて、もし妨害がなければ本塁打であったか否かを言い合うという。 またではを得意球とする佐々木より教わった同球種を投じている。 2006年限りでの引退を発表後の9月10日・オリックス戦()で、相手チームのから贈られた労いのメッセージ入りの ()を着用し、現役最後となる本塁打を放った。 その後2008年に引退試合を迎える清原に対して、自身がで着用した打撃用手袋を贈った。 2006年の日本シリーズ(を参照)での現役最後の打席は、全3球勝負を受けての空振り三振であった。 この時涙を流しながら打席に立つ自身に対して、阪神時代から長年に渡り対戦してきた中日・捕手が1球目の見逃し後に「泣くな、真っ直ぐいくぞ」と言ってくれたように思ったという。 プライベート ホームゲーム打席登場曲にはの曲も数曲起用した(を参照)。 2000年の自身初の登場曲も福山の曲であり、これに対して福山はでステージバックに阪神の球団旗を掲げて演奏し、感謝の意を表した。 そして新庄が同年のコンサート前の楽屋に福山を訪ねたのを機に親しい間柄となった。 ファッション・美容・趣味・嗜好 [ ] ファッション関連の活動歴については「」を、受賞歴については「」を参照 ヘアスタイル を好み、現役時代にはプロ2年目の3色ほか、緑色や金色に染めたこともある。 を被って乱れた髪は見せたくないとの理由から、球場ではにおいても常に帽子を着用していた。 ファイターズスタイル [ ] 日本ハムが移転した2004年に北海道内ので 新庄剛志のようなヘアスタイルへの注文が頻発したのを機に、北海道日本ハムファイターズ後援会が球団として、2007年より毎年の最新ヘアデザイン「 ファイターズスタイル」のモデルを若手選手の中よりファン投票で選出 する企画が始まった。 年度 モデル 2007年 2008年 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年 2019年 引退後にのCMに出演する際には「出演者3人の中でアデランスをしているのは誰?」というクイズ形式のCM内容の正解役となるため、丸坊主にした。 服装 阪神時代初期にの服などを愛用。 中学時代から(当時:日本ハム)のスーツ姿をテレビで観て同ブランドに憧れていたという。 MLB - 日本ハム時代にはの服などを愛用した。 香水 球場においてもベンチの汗臭さにたまりかねて、タオルやリストバンドにをつけていた。 引退後には香水の類の商品開発にも携わった(を参照)。 真っ白い歯・美容整形 阪神時代の時に食いしばり欠けた歯が痛くて集中力が低下し、食事も満足に出来ない時もあったため、また歯の黒ずみを嫌い、約500万円(最終的には合計約2000万円)をかけて真っ白い歯()に総入れ替えした。 歯に関する一般アンケート調査において、調査「歯がキレイだと思う有名人」男性部門で初回2006年より3年連続第1位に選ばれるなどした。 また引退後に顔のを受けたことを2017年に告白した。 愛車 自動車好きであり、阪神時代の契約更改へ訪れる際に運転してくる車種を頻繁に替えるため、自動車専門誌記者までが取材するほど知られるところとなった。 1993年:、1994年:、1995年:・チータ、1996年:などである。 新庄がに乗る姿は、それを見た当時少年ののプロ野球入り後に購入する車種選びに影響を与えた。 MLB移籍決定後には所有するフェラーリをオークションにかけ、「僕のフェラーリ売ります」というCMにも出演した。 食生活・その他 少年時代から少食であった。 ひどいのため、やが全く食べられず、エビを主原料とするでも無理だという。 生魚も苦手で、馴染みの寿司屋では自身のみにしか出されない特別メニューである好物のを注文していた。 引退後の2018年に、現役時からしていることを明かした。 メディア出演詳細 [ ] テレビ番組 2004年1月2日放送の『』に解答者として出演。 スタジオでの応援として、として・・・の同僚5名も出演した。 自身で解答を考えるしかない状況となった後には、鉛筆(各面に選択肢を記入した)を転がして上となった面の選択肢を選ぶという方法をとり、全15問正解して賞金1000万円を獲得。 この賞金を2004年分の設置費用の一部に使用した。 2009年11月1日、フジテレビ『 北海道日本ハムVS巨人第2戦』(札幌ドーム)の中継にて、自身初のをと共に担当した。 冒頭の挨拶にて、清原と一緒だから解説依頼を受けたこと、今回が自身最初で最後の解説であることを告白した。 試合中は「(自身の引退後にプロ入りした)巨人・を知らない」「いくら言っても生で観ないと分からない」と、日本ハム選手との交流エピソードを多く話した。 CM 新庄の姓をもじったキャッチコピーが使われた作品がある。 「 イッシンジョーの都合でデューダしました」 「一身上」現役引退した翌年明け放送の作品(「」) 「」CMの2004年からの主演バージョンの初代相手役として出演した。 キャッチコピーのセリフは、上戸「元気ハツラツぅ?」に対し、新庄「 OF COURSE! なおにて最後を締めたセリフは「 元気ハツラツぅ?」であった。 この共演に関連する翌年のエピソードとして「」を参照。 2作品の日本公開のCM出演経験もあり、後述する。 映画イベント 2004年11月、『』のでのプレミア試写会にて、プロデューサーのや主演のらと親交を深めた。 その縁で同作品の日本公開(翌年5月)の宣伝プロデューサーを務め、テレビCM企画および出演、新聞広告用のキャッチコピー製作、イベント参加など宣伝部門全般を担当した。 2007年にはブラッカイマー制作3作品『』(CM出演)、『』、『』の日本公開応援プロジェクトの総合プロデューサーを務めた。 他には2003年11月のブラッカイマー作品『』の日本公開特別試写会トークショーにて、日本ハム入団を非公式に発表した。 またブラッカイマー作品以外では、2005年の『』日本公開記念イベントの一環として、同年5月の公式戦に現役選手として登板した(「」を参照)。 新庄語録 [ ] 「」を参照 愛称 [ ]• プリンス 冠がつく場合もある。 阪神時代:「虎の - 」「浪速の - 」「 - オブ タイガース」。 日本ハム時代:「北の - 」「球界の - 」。 本人はこの呼称について快くは思っていない。 メッツ時代(2001年)にMLB初本塁打を打ったのを機に、楽しそうにプレーする姿を地元紙がこう表現して使い始めた。 現役引退後にはの一部に使用した。 なお阪神時代の「SHINJYO」の下2文字を入れ替えた綴りでもある。 宇宙人 他人には予測できないパフォーマンスや性格から。 を当時の監督・がこう称し、メディアが使い始めた。 本人はこの呼称については不快に思っている。 直接の呼称• ツー 名前の「ツヨシ」という読みから。 阪神時代に親友のらからこう呼ばれて、その継承。 日本ハム時代は同学年であるらから「ツーやん」、後輩から「ツーさん」と呼ばれた。 パーソナルデータ [ ]• :181cm - 182cm• :88cm(2001年)• :左右とも1. 5(1993年) - も参照。 :右88kg・左79kg(1993年) - 並みともいわれる。 :220kg(1993年) - 当時の阪神チーム内では一番強かった。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 13 17 17 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 3 1. 118. 118. 118. 236 95 378 353 39 98 16 3 11 153 46 5 2 3 0 18 0 4 73 11. 278. 320. 433. 753 102 436 408 50 105 13 1 23 189 62 13 2 0 0 20 3 8 91 6. 257. 305. 463. 768 122 506 466 54 117 23 7 17 205 68 7 5 2 2 30 0 6 93 9. 251. 304. 440. 744 87 346 311 34 70 15 3 7 112 37 6 4 2 2 26 1 5 76 6. 225. 294. 360. 654 113 473 408 55 97 16 4 19 178 66 2 2 1 3 55 6 6 106 10. 238. 335. 436. 771 136 539 482 62 112 17 3 20 195 68 8 4 0 4 44 0 9 120 7. 232. 306. 405. 711 132 451 414 39 92 21 3 6 137 27 1 2 4 2 25 4 6 65 4. 222. 275. 331. 606 123 507 471 53 120 21 7 14 197 58 8 2 2 1 23 2 10 72 21. 255. 303. 418. 721 131 549 511 71 142 23 1 28 251 85 15 6 3 2 32 7 1 93 10. 278. 321. 491. 812 123 438 400 46 107 23 1 10 162 56 4 5 4 2 25 3 7 70 8. 268. 320. 405. 725 118 398 362 42 86 15 3 9 134 37 5 0 3 3 24 2 6 46 5. 238. 294. 370. 664 NYM 62 124 114 10 22 3 0 1 28 7 0 1 2 1 6 1 1 12 0. 193. 238. 246. 483 123 544 504 88 150 28 3 24 256 79 1 3 12 4 15 0 9 58 6. 298. 327. 508. 835 108 406 380 54 91 20 1 20 173 57 5 1 5 2 14 1 5 64 6. 239. 274. 455. 729 126 477 438 47 113 21 0 16 182 62 2 6 10 3 24 3 2 76 8. 258. 298. 416. 716 :13年 1411 5629 5163 647 1309 234 36 205 2230 716 73 39 44 25 326 27 71 990 105. 254. 305. 432. 737 :3年 303 960 876 98 215 41 4 20 324 100 9 6 9 6 55 6 14 128 13. 245. 299. 370. 668• 各年度の 太字はリーグ最高。 ポストシーズン打撃成績 [ ] 4 8 7 1 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 3 0. 143. 143. 143. 286 3 14 13 3 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0. 231. 286. 231. 516 7 27 23 1 8 1 0 0 9 2 1 0 1 1 1 0 1 4 1. 348. 385. 391. 776 :1回 4 8 7 1 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 3 0. 143. 143. 143. 286 :2回 10 41 36 4 11 1 0 0 12 2 1 0 1 1 2 0 1 5 1. 306. 350. 333. 683 年度別守備成績 [ ] 内野守備 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 8 6 10 3 2. 842 - - 9 9 18 0 3 1. 000 26 13 47 6 3. 909 - - - 1 0 1 0 0 1. 000 2 0 3 0 0 1. 000 1 0 0 0 0 ---- 2 0 0 0 0 ---- 通算 19 15 31 3 5. 939 27 13 47 6 3. 909 3 0 1 0 0 1. 000 外野守備 年 度 球 団 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 阪神 - 65 127 8 1 1. 993 - 65 127 8 1 1. 993 - 102 236 13 6 1. 976 - 102 236 13 6 1. 976 - 120 289 4 1 0. 997 - 120 289 4 1 0. 997 - 87 206 5 3 3. 986 - 87 206 5 3 3. 986 - 111 248 6 4 1. 984 - 111 248 6 4 1. 984 - 135 276 13 6 1. 980 - 135 276 13 6 1. 980 - 124 268 12 4 5. 986 - 124 268 12 4 5. 986 - 121 247 8 3 2. 988 - 121 247 8 3 2. 988 - 129 251 8 3 3. 989 - 129 251 8 3 3. 989 46 68 8 2 3. 974 53 123 3 0 0 1. 000 39 65 1 1 0. 985 119 256 12 3 3. 989 1 1 0 0 0 1. 000 108 275 10 6 3. 979 10 10 0 0 0 1. 000 117 286 10 6 3. 980 NYM 7 8 0 0 0 1. 000 50 90 5 3 1. 969 1 0 0 0 0 ---- 54 98 5 3 1. 972 - 122 272 8 5 1. 982 - 122 272 8 5 1. 982 - 106 212 3 2 0. 991 - 106 212 3 2 0. 991 - 126 271 4 3 0. 989 - 126 271 4 3 0. 989 :12年 - 1348 2903 92 41 18. 986 - 1348 2903 92 41 18. 986 :3年 54 77 8 2 3. 977 211 488 18 9 4. 983 50 75 1 1 0. 987 290 640 27 12 7. 982• 各年度の 太字はリーグ該当守備位置としての最高。 NPBにおいてはリーグ外野の各守備位置としての最高は公表されていない。 したがってNPB在籍時における各年度のリーグ中堅手最高は、 外野手として最高のもののみが太字。 表彰 [ ] NPB• :3回 (外野手部門:1993年、2000年、2004年)• 阪神在籍時の受賞7回は球団歴代最多 (いずれも2018年度発表時点)。 :2回 (野手部門:1999年5月、2004年9月)• 優秀:3回 (1993年、1994年、2000年)• 2004年の受賞3回は(2001年)と並び歴代年間最多タイ。 好捕賞受賞の1992年6月の守備は全て内野手として。 MVP:2回 (第3戦、第2戦)• オールスターゲーム優秀選手賞:3回 (1999年第2戦、第3戦、第1戦)• ・スター大賞:1回 (1998年)• 功労賞:1回 (2004年)• :1回 (スポーツ賞:2006年)• MVP大賞• 大賞:1回 (1993年)• 新人賞 (1992年)• MLB• () (外野手部門:2001年)• () (外野手部門:2001年)• ジョン・J・マーフィー賞 (2001年) 記録 [ ] NPB初記録• 初出場:1991年9月10日、対24回戦()、9回表にの代打として出場。 初打席・初安打・初打点:同上、9回表にから中前適時打。 初先発出場:1991年9月16日、対22回戦()、7番・遊撃手として先発出場。 初三振:同上、2回表にから。 初本塁打:1992年5月26日、対6回戦()、2回裏にから左越ソロ。 初盗塁:1992年7月9日、対横浜大洋ホエールズ15回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に二盗(投手:、捕手:)。 NPB節目の記録• NPBその他の記録• 外野手最多刺殺:2回 (1994年:289、2004年:272)• 外野手最多補殺:3回 (1993年:13、1997年:13、1998年:12)• 外野手1位:3回 (1993年:2. 44、1998年:2. 26、2004年:2. 30)• 連続試合:3 (2005年7月6日 - 7月12日)• 連続試合:7 (2004年8月15日 - 8月24日)• 連続試合本塁打:4 (2回:1996年4月13日 - 4月17日、2000年6月8日 - 6月13日)• 1試合5安打:2004年8月20日、対22回戦()• 1イニング歴代最多タイ(2018年終了時点)。 オールスターゲーム• ファン投票リーグ最多得票:2回 (1994年:434,906、1999年:915,773)• 本盗としては1978年第2戦のに次いで史上2人目。 連続試合安打:7 (1999年第2戦 - 2000年第3戦、2004年第1戦・第2戦)• 日米野球• ファン投票最多得票 (2006年:40,156) MLB初記録• 初出場:2001年4月3日、対1回戦()、8回表にの代走として出場。 初打席・初安打:同上、10回表に ()から中前安打。 初先発出場:2001年4月5日、対アトランタ・ブレーブス3回戦(ターナー・フィールド)、7番・右翼手として先発出場。 初打点:同上、9回表にから二塁ゴロの間に記録。 初三振:2001年4月8日、対3回戦()、9回表にから空振り三振。 初本塁打:2001年4月9日、対アトランタ・ブレーブス4回戦()、6回裏にジェイソン・マーキーから左中間越ソロ。 初盗塁:2001年5月4日、対1回戦(シェイ・スタジアム)、7回裏に二盗(投手:、捕手:)。 初サヨナラ安打:2001年5月20日、対3回戦(シェイ・スタジアム)、9回裏に ()から中前適時打。 初先発4番打者出場:2001年8月3日、対アリゾナ・ダイヤモンドバックス4回戦()、4番・中堅手として先発出場。 初満塁本塁打:2002年5月17日、対1回戦()、8回裏にから左越満塁。 初出場:2002年10月19日、対第1戦()、9番・として先発出場。 ワールドシリーズ初安打:同上、5回表にから中前安打。 MLBその他の記録• 外野手1位 (2002年:3. 14で1位。 1試合5安打:2002年7月2日、対8回戦()• リーグ最高打率 (2003年:. 1000安打:2001年6月6日、対5回戦()、2回表に ()から三塁内野安打。 150本塁打:2001年6月7日、対フィラデルフィア・フィリーズ6回戦(ベテランズ・スタジアム)、9回表にから左越ソロ。 100補殺(外野守備機会):2003年5月8日、対ロサンゼルス・ドジャース3回戦(シェイ・スタジアム)、1回表にを補殺。 1500試合出場:2005年4月23日、対4回戦(東京ドーム)、1番・中堅手として先発出場。 1000三振:2005年5月4日、対西武ライオンズ8回戦(インボイスSEIBUドーム)、6回表にから。 200本塁打:2005年6月5日、対中日ドラゴンズ6回戦()、1回表にから中越3ラン。 1500安打:2006年8月22日、対13回戦()、5回表にから遊撃内野安打。 背番号 [ ]• 63 (1990年 - 1992年、2006年9月27日)• 5 (1993年 - 2003年)• 1 (2004年 - 2006年9月26日、同年9月28日 - 同年終了) 登録名 [ ]• 新庄 剛志 (しんじょう つよし、1990年 - 2003年)• 阪神時代のの綴りは「 SHINJYO」 であったが、MLB移籍以降「 SHINJO」に修正された。 登場曲 [ ] この節のが望まれています。 阪神時代• 関連情報 [ ] 栄典・野球以外での表彰 [ ] 栄典• (2007年) - を参照。 ファッション関連• (スポーツ界部門:2001年)• (スポーツ・芸能部門:2001年)• (男性部門:2002年)• (男性部門:2005年)• (Mr. COTTON USA:2007年)•

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