もはや 今生 に 救い の 道 は ありません。 歎異抄 第15章 煩悩具足の身

歎異抄 第15章 煩悩具足の身

もはや 今生 に 救い の 道 は ありません

生きるということ 人生は旅である。 神と共に歩むとき、真に幸福な生き方ができる。 嵐によって船が難破した中、神の助けを祈る使徒パウロ 信・学・祈・行・伝 自分の人生の中で信仰と幸福がどのように作用していくのか、また信仰を抱いて生きるとはどういうことなのか、についてお話ししたいと思います。 信仰生活において、まず大切な五つの事柄があります。 それらは、信じること、学ぶこと、祈ること、行なうこと(実践)、伝えること(伝道)です。 「信じること」とは、あなたが聖書を通して知ったことを信じることです。 救いは、信仰というパイプを通して、あなたに与えられるのです。 祝福も、信仰を通して与えられます。 あなたは、神の言葉を信じなければなりません。 また、神はあなたの信仰により、あなたを通して事をなそうとされます。 この世でも、王の計画は、王を信頼し王に従順なしもべたちを通して、実現に移されます。 社長の計画は、社長に忠実な部下たちによって行動に移されます。 同様に、天の神のご計画は、天の神を信じる信仰者たちを通して、実現に移されるのです。 あなたは、まず信じることです。 もちろん信じるには、その信ずべき事柄に関して、ある程度の知識は持っていなければなりません。 しかし、あなたが信仰に入るために充分な知識は、本書によってすでに与えられたのではないでしょうか。 もし、 「すべてのことがわかったら信じる」 というなら、おそらくその人はいつまでも信仰に入れないでしょう。 すべてのことがわかるなら、もはや信仰はいりません。 私たちは、わからないから、信じる必要があるのです。 また、信じれば、わかってくる世界があります。 つぎに「学ぶこと」とは、あなたが聖書の教えをよく学ぶことです。 信仰に入りたての時は、まだ聖書の教えについてわずかしか知識を持っていません。 最初はそれで良いのですが、あなたは日々聖書を学んで、聖書知識を増やしていかなければなりません。 そうすることにより、あなたは信仰のもっと奥深い事柄に目覚めるようになるでしょう。 信仰と、聖書の学びは、ちょうど車の両輪のように進んで行くのです。 どちらが欠けても、健全な信仰生活はおくれません。 両方が助け合って、信仰が深まって行くのです。 あなたは聖書を学ぶことにより、たとえば、 「あなたの隣り人を、あなた自身と同じように愛せよ」 という重要な教えに出会うでしょう。 しかし「隣り人を愛する」とは、具体的に、隣り人に対して何をすることなのでしょうか。 そうしたことを学ぶことが、「学ぶ」ということなのです。 つぎに「祈ること」は、神との交わりです。 あなたは日々祈り、神に感謝し、神を讃美し、神に願い、子どもが親に語りかけるように神に語りかけてください。 神はあなたの祈りを聞いてくださいます。 そして、何らかの方法で答えてくださいます。 主イエスも、日々神に祈られました。 神との交わりなくして、私たちが力を受けることはないのです。 御言葉の学びが魂の栄養摂取であり、食事にたとえられるとすれば、祈りは魂の呼吸です。 つぎに「行なうこと」は、信仰の実践です。 「行ないのない信仰は死んだものである」(ヤコ二・二六) と聖書は言っています。 実践がなければ、信仰は実を結びません。 あなたは、学んだならば、また信じたならば、祈りながらそれを実践していってください。 信仰は、思いと、言葉と、行動の中になければなりません。 信仰は思いの中に植え付けられると、言葉と行動に現われてくるのです。 最後に、「伝えること」とは、伝道です。 主イエスは、昇天されるとき、弟子たちに次のように命令されました。 「わたしは、天においても、地においても、一切の権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。 そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマ(洗礼)を授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタ二八・一八〜二〇)。 伝道、すなわち福音宣教は、主イエスのご命令なのです。 私たちは、主イエスの愛を知ったのですから、どうしてそれを人々に伝えずにいられるでしょう。 伝道とは、何もむずかしい神学的なことを語れ、ということではありません。 講壇に立って聴衆を前に説教しなさい、ということでもありません。 あなたは、信じる前にどんな生活をしていたでしょうか。 あなたはどのようにして信じましたか。 また何を信じたのですか。 それなら、誰にでもできるはずです。 私たちは、伝道するなかで成長していくのです。 このように、信仰生活の中で「信じること」「学ぶこと」「祈ること」「行なうこと」「伝道すること」の五つは、非常に重要です。 これら信・学・祈・行・伝を心に刻んで下さい。 人生は旅 また第二に、人生は旅です。 親が子を旅に出すように、私たちは、神からこの世に旅に出されているのです。 「かわいい子には旅をさせよ」とよく言われます。 子は旅の中で、様々なことを学ぶでしょう。 そのように私たちは、この世の旅の中で、様々なことを学んでいるのです。 やがて時が来れば、私たちは"わが家"のある天国へ帰宅するでしょう。 しかしその時まで、私たちはこの世の旅を通して、とくに「愛」について学ばなければなりません。 聖書は、 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命六・五) また、 「あなたの隣り人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ一九・一八) と教えています。 私たちはこの「愛」について学ぶために、人生という旅に出されているのです。 これら二つの聖句は、じつは三つの愛を教えています。 一つは、神への愛。 二つ目は隣り人への愛。 そして三つ目は自分への愛です。 なぜなら、「……あなた自身のように愛しなさい」ですから、自分への真の愛がなければなりません。 神への愛とは、私たちの真の親への愛であり、創造主への愛であり、宇宙の主権者への愛です。 私たちは神を愛するがゆえに、神の御教えを愛し、従い、神を礼拝し、信仰するのです。 また隣り人への愛とは、隣り人に対して最善を行なうということです。 その際、隣り人への「最善のこと」とは何なのか、ということがよく考慮された上で行なわれなければなりません。 この「愛」は、原語でアガペーといい、相手に対して善を行なう愛を意味します。 いわゆる「愛」にはいろいろな種類があって、恋愛、親子愛、兄弟愛、友情、……等がありますが、多くは感情に基づいた愛です。 「相手を好きだから愛する」とか、「気が合うから愛する」などの愛なのです。 しかしアガペーの愛は、感情的にはたとえ相手を好きでなくても、また気の合う相手でなくても、その人に最善を心がける愛なのです。 相手がりっぱな人でなくても、好ましい人でなくても、魅力的でなくても、その人に善をなす愛です。 いわゆる「敵への愛」も、この延長線上にあります。 "敵を好きになる"ことは誰にもできません。 しかし敵を愛することはできる、とキリスト教は説くのです。 あのナイチンゲールが、クリミヤ戦争の時、敵味方の区別なく傷病者を看護したのはなぜでしょうか。 彼女には、聖書の言う「隣り人への愛」「敵への愛」があったからです。 またあのマルチン・ルーサー・キング牧師が、家に爆弾を投げ込まれながら、また心ない人種差別主義者に暴力をふるわれながら、それらの暴力に暴力をもって報いることをせず、それらを堪え忍び、彼らを愛し、善をもって応えながら、公民権運動を展開したのはなぜでしょうか。 彼には、黒人の子と白人の子が一緒に自由に遊べる日を来たらせようという強い意志と、聖書のいう隣人愛があったからです。 またアルバート・シュヴァイツァーが、神学博士、哲学博士、オルガン奏者としての名声を捨て、妻とアフリカに渡り、厳しい自然や伝染病と戦いながら、医療活動と伝道をしたのはなぜでしょうか。 彼には、アフリカの土人の苦しみを自分のものとしてとらえ、彼らを自分の「隣り人」と捉える愛があったからです。 アルバート・シュヴァイツァー博士 「隣り人への愛」とは、このように自分の手、あるいは自分の思いの届く人々に対して、最善を志していくことなのです。 もちろん、このようなことは、誰でも初めから出来るわけではありません。 しかし祈りの中で、こうした愛が自分にも与えられていくと信じるところに、信仰があるのです。 「神への愛」「隣り人への愛」と見ましたが、もう一つは「自分への愛」です。 この自分への「愛」も、やはりアガペーの愛であり、自分に対して最善を尽くす愛です。 自分への「愛」には二種類あり、一つは「利己的な愛」つまり「自分に執着する愛」、もう一つは、自分を本当の意味で大切にし、自分を成長させようとする愛です。 アガペーの「自己愛」とは後者のもので、本当の意味で自分を大切にし、自分の成長のために最善をはかる愛です。 「お体に気をつけてご自愛ください」などと言うときの「自愛」でもあります。 私たちは、神が私たちを愛してくださっているゆえに、自分自身を大切にします。 自分を罪と汚れに渡さないように、自分を清く保つことを努力するのです。 それこそ、本当の意味で自分を大切にすることであり、自分への真の愛(アガペー)なのです。 主イエスは、 「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(ルカ九・二五) と言われました。 自分を罪と滅びに引き渡してしまっては、たとい全世界を手にいれても、何の益もないのです。 私たちは、神への愛、隣り人への愛、自分への愛を学ぶために、人生という旅をおくっています。 愛が、人生を意味あるものとするのです。 私たちはこの地上の旅において、いったい何人の人に出会えるでしょうか。 私たちはそれらの人と、どのような関わりを持っていくでしょうか。 私たちは、人との出会いを大切にし、すべての時間を有意義なものとしたいものです。 神の家族の一員として生きる人生 第三に、人生はクリスチャンにとっては、神の家族の一員として生きることです。 私はクリスチャンになって以来、神の家族の一員であるということにより、どんなに多くの励ましと慰めを受けたかしれません。 この地上の家族も素晴らしいものです。 しかし永遠の神の家族は、もっと素晴らしいものです。 地上の家族には、ときおり骨肉の争いや、不和、近親憎悪などが見られます。 しかしそれらすべてを乗り越えて、神の家族の麗しい交わりは、私たちに常に安らぎと喜びを与えてくれます。 私たちにとって神は父、天国は母、イエスキリストは神の家族の長子(長男)、また、全世界のすべてのクリスチャンは私たちの兄弟姉妹なのです。 私はあなたに、この地上の旅において常に「自分は神の家族の一員なのだ」という自覚をもって歩まれるよう、おすすめします。 あなたが、今どんな職業についていようとも、どんな学問をしていようとも、またどんな立場にあろうとも、つねに、 「私はこの状況下で、神の家族の一員として何ができるだろうか」 と自問しながら歩んでいっていただきたいのです。 あなたは今、どのような状況、どのような環境のもとに置かれているでしょうか。 あなたは、困難な状況下にあるでしょうか。 試練のもとにあるでしょうか。 しかしたとえそうでも、「今自分は、この状況のもとに神から派遣されているのだ」と思っていただきたいのです。 その状況は、あなたがさらに神を知るための機会として、あなたに与えられているのかもしれません。 あるいは、あなたが神の栄光を現わす機会とするために、あなたがそこに置かれているのかもしれません。 エドワード・W・ホーという人は、 「私の知っている成功者は、すべて自分に与えられた条件のもとで最善を尽くした人々である」 と言いました。 私も同じことを言いたいのです。 神は、あなたが自分の置かれた状況で最善を尽くすことを、願っておられます。 どうぞ、自分の置かれた状況から逃げないでください。 もはや、あなたは独りではないのです。 キリストがあなたと共におられます。 あなたは、自分が神の家族の一員として何ができるかを考え、祈りながら、進んでいってください。 そうすれば神が、道を開いてくださいます。 神は言われました。 「わたしは、わたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう」(出エ三三・一九)。 神と共に歩んで行くならば、「もろもろの善」が、また祝福が、あなたの前を通って行くのです。 神のみわざを見る人生 第四に、人生はクリスチャンにとっては、神のみわざを見るためのものです。 あなたは、どんな状況下においても、常に神の導きを信じて歩んでいってください。 神をほめたたえ、感謝し、つねに神に栄光を帰して歩んでいってください。 そうすれば、あなたは神のみわざ、神の問題解決法を見るでしょう。 ある夫妻に、一人の娘がいました。 その娘はしだいに精神的な様子が変になり、ついに精神病院に入れられて回復の見込みなし、と診断されてしまいました。 夫妻は悩みに悩み、いろいろなことをしましたが、どれも娘の回復のために何の効果もありませんでした。 そうしたとき夫妻は、アメリカのマーリン・キャロザースという牧師から、 「現状のあるがままを神に讃美しなさい」という勧めを聞きました。 はじめ夫妻は困惑して、こう言いました。 「こんなにはっきりした悪いことを神様に感謝するなんて、どうしてできるでしょう。 感謝するといっても、それは娘をなぜこんな目に会わせたのかと、神様を責めることと同じじゃないですか。 それは"愛の神"という私の考えとは合いません」。 しかしやがて夫が言いました。 「しかし、もしあの先生が正しいとしたらどうだろう」。 「私にはわかりませんわ」 と妻が言いました。 しかし夫は、 「これ以上悪くなりようはないんだ。 そうじゃないか。 だったら、やってみようじゃないか」 そう言って、二人はひざまずき、次のように祈り始めました。 「愛する神様、あなたは私たちを愛しておられます。 また、私たち以上に娘を愛しておられます。 あなたはこの子の人生にとって最善と思われることを、なそうとしておられます。 そのことを私たちは信じます。 ですから、私たちは娘の病気を感謝します。 娘が入院していることを感謝します。 医者にも治療法がわかっていないことを感謝します。 あなたの知恵と私たちに対する愛のゆえに、神様、あなたをほめたたえます……」。 その日、彼らは祈れば祈るほど、神は本当に最善をなしておられるということを信じるようになりました。 翌朝、病院の精神科医から電話がかかってきました。 「お嬢さんに著しい変化が現われています。 面会においでになりませんか」。 それから二週間とたたないうちに、彼女は病院から退院しました。 一年後、ある集会でひとりの青年がキャロザース牧師のところにやってきて、自分はあの子の兄だと自己紹介をしました。 そして彼女はすでに結婚していること、また近々子どもも生まれることになっており、彼女は今「世界中で一番幸福な人間です」と話してくれたのです。 神の導きを信じ、神が常に最善をなしてくださるかたであると信じるところに、神はご自身を現わしてくださるのです。 「現状のあるがままを神に讃美する」ということをまだしなかったとき、この夫妻の娘はいやされませんでした。 それはこうした心の状態では、神のみわざを正しく受けとめることができないからです。 しかし神に感謝し、讃美することを始めたとき、夫妻ははじめて神のみわざを受けとめられる心の状態になりました。 それで神はみわざをなされたのです。 神を信じる者にとっては、どんな状況、またいかなる試練も、変えられて最終的に益とされます。 それらはさらに神を深く知る契機となるのです。 聖書は言っています。 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロマ八・二八)。 「すべてのことを」働かせて益としてくださるのです。 いかなる状況も、信仰を抱いて進んで行くならば、すべて神の導きにより最終的に益とされます。 最善のものとされるのです。 ですから、あなたは常にそれに信頼し、神に感謝し、神に栄光を帰して歩んでいってください。 人生は、神のみわざを見るためにあるのです。 著 ブラウザがインラインフレームに対応していません。 表示される文章はこちらです。

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もはや 今生 に 救い の 道 は ありません

聖書箇所 エペソ2:19~22 2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。 2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 説教要旨 「神の子ども」という個人に焦点を当ててきましたが、本日と次週は「教会」に焦点を当てて見ていきます。 エペソ書は、パウロがローマの獄中でエペソ教会に記した手紙です。 エペソの人々は、ユダヤ人にしてみれば、神との救いの契約の外にあった他国人、神のない人たちでした。 (v11、v12)そして、ユダヤ人と異邦人は、敵対し合っていました。 でも、エペソの人々もキリストを信じ、不和となっていたユダヤ人との隔ての壁が打ち壊され、一つ教会とせられたのです。 (v13~v15)キリストは、十字架で神との和解の道をご用意下さっただけでなく、人と人との和解の道をもご用意下さいました。 「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 (v19)」「神の家族(v19)」と告げています。 神なしの人々が(v12)、神の家族とせられたのです。 神は、私たちが神を知る前から、一人ひとりを知っておられ、憐れみ、キリストの救いへと導いて下さいました。 (1:5) 私たち一人ひとりは、人間的尺度から言うならば、真に小さな存在です。 例えるならば、名もなき野原にある一つの小石のようです。 でも、神は、その小さな小さな私を知っておられ、見ておられ、神の救いのご計画の内に置かれ、ご自身へと招いておられるのです。 また、神の家族とは、神の教会の大切な一人とせられたということをも示しています。 人が「おぎゃー」と生まれることは、その時から家族の一員ともなります。 同様に、キリストを信じ、洗礼を受け、神の子どもとせられた時から、神の家族の一員であるのです。 一人ひとりの存在が尊いのです。 何ができる、できないではありません。 そこに主を見上げて歩むあなたがいることが尊いのです。 また、私たちは、後に触れますが、相互関係の中に生きていくのです。 パウロは、続いて、神の家族、教会を「建物」に例え、まず土台、礎石を告げます。 (v20)教会の土台は、「使徒と預言者」、即ち神の御言葉、聖書です。 「キリスト・イエスご自身がその礎石です」とは、キリストは、御言葉を通し、私たちに働きかけ、語りかけられるのです。 ですから、教会は、御言葉に聴いていくのです。 家族の体の糧は、食物ですが、神の家族の魂の糧は、神の御言葉です。 続いて、パウロは、教会は、建物が柱と柱が組み合わされて建てられていくように、私たちがともに組み合わされて建てられ、成長していくと告げました。 教会は、一人ひとりが孤立して生きているのではなく、見える形で、見えない形で、支えられ、支え歩んでいます。 個として成長していくだけではなく、全体が成長し、ともに建て上げられていきます。 それは、ただ私たち一人ひとりが組み合わされていくのではなく、「この方にあって(v21)」「このキリストにあって(v22)」と、イエス・キリストに結ばれ、ともに建てられていくのです。 イエス・キリストは、教会の礎石であり、教会を建て上げて下さる主です。 私たちは、弱さを覚え、試練に遭いますが、でも、キリストご自身が、御言葉により、試練の中で礎石となって支え、主として導いて下さるのです。 では、どう成長していくのか。 「主にある聖なる宮となる(v21)」「御霊によって神の御住まいとなる(v22)」宮、神の御住まいとは、旧約時代の神殿を表していました。 神殿は、神との出会いの場でした。 教会の交わりの中に、主がおられ、主と出会い、魂の癒し、喜び、平安を受けていきます。 そして、私たちは神に栄光を帰していきます。 さらには、神の祝福の基とせられ、神の愛と聖さの祝福を、まだ神から離れている方に現わし、キリストのいのちの交わりに加えていくのです。 さらには、そういう教会の交わりの中で、5章では、夫婦、親子、職場の関係が記されていますが、教会は教会の交わり、家庭は家庭の交わりと、分離しているのではなく、一体性があり、教会がともに建てられていく中で、家庭の歩み、自分が置かれた働きの歩みが祝福されていくのです。

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もはや 今生 に 救い の 道 は ありません

生きるということ 人生は旅である。 神と共に歩むとき、真に幸福な生き方ができる。 嵐によって船が難破した中、神の助けを祈る使徒パウロ 信・学・祈・行・伝 自分の人生の中で信仰と幸福がどのように作用していくのか、また信仰を抱いて生きるとはどういうことなのか、についてお話ししたいと思います。 信仰生活において、まず大切な五つの事柄があります。 それらは、信じること、学ぶこと、祈ること、行なうこと(実践)、伝えること(伝道)です。 「信じること」とは、あなたが聖書を通して知ったことを信じることです。 救いは、信仰というパイプを通して、あなたに与えられるのです。 祝福も、信仰を通して与えられます。 あなたは、神の言葉を信じなければなりません。 また、神はあなたの信仰により、あなたを通して事をなそうとされます。 この世でも、王の計画は、王を信頼し王に従順なしもべたちを通して、実現に移されます。 社長の計画は、社長に忠実な部下たちによって行動に移されます。 同様に、天の神のご計画は、天の神を信じる信仰者たちを通して、実現に移されるのです。 あなたは、まず信じることです。 もちろん信じるには、その信ずべき事柄に関して、ある程度の知識は持っていなければなりません。 しかし、あなたが信仰に入るために充分な知識は、本書によってすでに与えられたのではないでしょうか。 もし、 「すべてのことがわかったら信じる」 というなら、おそらくその人はいつまでも信仰に入れないでしょう。 すべてのことがわかるなら、もはや信仰はいりません。 私たちは、わからないから、信じる必要があるのです。 また、信じれば、わかってくる世界があります。 つぎに「学ぶこと」とは、あなたが聖書の教えをよく学ぶことです。 信仰に入りたての時は、まだ聖書の教えについてわずかしか知識を持っていません。 最初はそれで良いのですが、あなたは日々聖書を学んで、聖書知識を増やしていかなければなりません。 そうすることにより、あなたは信仰のもっと奥深い事柄に目覚めるようになるでしょう。 信仰と、聖書の学びは、ちょうど車の両輪のように進んで行くのです。 どちらが欠けても、健全な信仰生活はおくれません。 両方が助け合って、信仰が深まって行くのです。 あなたは聖書を学ぶことにより、たとえば、 「あなたの隣り人を、あなた自身と同じように愛せよ」 という重要な教えに出会うでしょう。 しかし「隣り人を愛する」とは、具体的に、隣り人に対して何をすることなのでしょうか。 そうしたことを学ぶことが、「学ぶ」ということなのです。 つぎに「祈ること」は、神との交わりです。 あなたは日々祈り、神に感謝し、神を讃美し、神に願い、子どもが親に語りかけるように神に語りかけてください。 神はあなたの祈りを聞いてくださいます。 そして、何らかの方法で答えてくださいます。 主イエスも、日々神に祈られました。 神との交わりなくして、私たちが力を受けることはないのです。 御言葉の学びが魂の栄養摂取であり、食事にたとえられるとすれば、祈りは魂の呼吸です。 つぎに「行なうこと」は、信仰の実践です。 「行ないのない信仰は死んだものである」(ヤコ二・二六) と聖書は言っています。 実践がなければ、信仰は実を結びません。 あなたは、学んだならば、また信じたならば、祈りながらそれを実践していってください。 信仰は、思いと、言葉と、行動の中になければなりません。 信仰は思いの中に植え付けられると、言葉と行動に現われてくるのです。 最後に、「伝えること」とは、伝道です。 主イエスは、昇天されるとき、弟子たちに次のように命令されました。 「わたしは、天においても、地においても、一切の権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。 そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマ(洗礼)を授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタ二八・一八〜二〇)。 伝道、すなわち福音宣教は、主イエスのご命令なのです。 私たちは、主イエスの愛を知ったのですから、どうしてそれを人々に伝えずにいられるでしょう。 伝道とは、何もむずかしい神学的なことを語れ、ということではありません。 講壇に立って聴衆を前に説教しなさい、ということでもありません。 あなたは、信じる前にどんな生活をしていたでしょうか。 あなたはどのようにして信じましたか。 また何を信じたのですか。 それなら、誰にでもできるはずです。 私たちは、伝道するなかで成長していくのです。 このように、信仰生活の中で「信じること」「学ぶこと」「祈ること」「行なうこと」「伝道すること」の五つは、非常に重要です。 これら信・学・祈・行・伝を心に刻んで下さい。 人生は旅 また第二に、人生は旅です。 親が子を旅に出すように、私たちは、神からこの世に旅に出されているのです。 「かわいい子には旅をさせよ」とよく言われます。 子は旅の中で、様々なことを学ぶでしょう。 そのように私たちは、この世の旅の中で、様々なことを学んでいるのです。 やがて時が来れば、私たちは"わが家"のある天国へ帰宅するでしょう。 しかしその時まで、私たちはこの世の旅を通して、とくに「愛」について学ばなければなりません。 聖書は、 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命六・五) また、 「あなたの隣り人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ一九・一八) と教えています。 私たちはこの「愛」について学ぶために、人生という旅に出されているのです。 これら二つの聖句は、じつは三つの愛を教えています。 一つは、神への愛。 二つ目は隣り人への愛。 そして三つ目は自分への愛です。 なぜなら、「……あなた自身のように愛しなさい」ですから、自分への真の愛がなければなりません。 神への愛とは、私たちの真の親への愛であり、創造主への愛であり、宇宙の主権者への愛です。 私たちは神を愛するがゆえに、神の御教えを愛し、従い、神を礼拝し、信仰するのです。 また隣り人への愛とは、隣り人に対して最善を行なうということです。 その際、隣り人への「最善のこと」とは何なのか、ということがよく考慮された上で行なわれなければなりません。 この「愛」は、原語でアガペーといい、相手に対して善を行なう愛を意味します。 いわゆる「愛」にはいろいろな種類があって、恋愛、親子愛、兄弟愛、友情、……等がありますが、多くは感情に基づいた愛です。 「相手を好きだから愛する」とか、「気が合うから愛する」などの愛なのです。 しかしアガペーの愛は、感情的にはたとえ相手を好きでなくても、また気の合う相手でなくても、その人に最善を心がける愛なのです。 相手がりっぱな人でなくても、好ましい人でなくても、魅力的でなくても、その人に善をなす愛です。 いわゆる「敵への愛」も、この延長線上にあります。 "敵を好きになる"ことは誰にもできません。 しかし敵を愛することはできる、とキリスト教は説くのです。 あのナイチンゲールが、クリミヤ戦争の時、敵味方の区別なく傷病者を看護したのはなぜでしょうか。 彼女には、聖書の言う「隣り人への愛」「敵への愛」があったからです。 またあのマルチン・ルーサー・キング牧師が、家に爆弾を投げ込まれながら、また心ない人種差別主義者に暴力をふるわれながら、それらの暴力に暴力をもって報いることをせず、それらを堪え忍び、彼らを愛し、善をもって応えながら、公民権運動を展開したのはなぜでしょうか。 彼には、黒人の子と白人の子が一緒に自由に遊べる日を来たらせようという強い意志と、聖書のいう隣人愛があったからです。 またアルバート・シュヴァイツァーが、神学博士、哲学博士、オルガン奏者としての名声を捨て、妻とアフリカに渡り、厳しい自然や伝染病と戦いながら、医療活動と伝道をしたのはなぜでしょうか。 彼には、アフリカの土人の苦しみを自分のものとしてとらえ、彼らを自分の「隣り人」と捉える愛があったからです。 アルバート・シュヴァイツァー博士 「隣り人への愛」とは、このように自分の手、あるいは自分の思いの届く人々に対して、最善を志していくことなのです。 もちろん、このようなことは、誰でも初めから出来るわけではありません。 しかし祈りの中で、こうした愛が自分にも与えられていくと信じるところに、信仰があるのです。 「神への愛」「隣り人への愛」と見ましたが、もう一つは「自分への愛」です。 この自分への「愛」も、やはりアガペーの愛であり、自分に対して最善を尽くす愛です。 自分への「愛」には二種類あり、一つは「利己的な愛」つまり「自分に執着する愛」、もう一つは、自分を本当の意味で大切にし、自分を成長させようとする愛です。 アガペーの「自己愛」とは後者のもので、本当の意味で自分を大切にし、自分の成長のために最善をはかる愛です。 「お体に気をつけてご自愛ください」などと言うときの「自愛」でもあります。 私たちは、神が私たちを愛してくださっているゆえに、自分自身を大切にします。 自分を罪と汚れに渡さないように、自分を清く保つことを努力するのです。 それこそ、本当の意味で自分を大切にすることであり、自分への真の愛(アガペー)なのです。 主イエスは、 「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(ルカ九・二五) と言われました。 自分を罪と滅びに引き渡してしまっては、たとい全世界を手にいれても、何の益もないのです。 私たちは、神への愛、隣り人への愛、自分への愛を学ぶために、人生という旅をおくっています。 愛が、人生を意味あるものとするのです。 私たちはこの地上の旅において、いったい何人の人に出会えるでしょうか。 私たちはそれらの人と、どのような関わりを持っていくでしょうか。 私たちは、人との出会いを大切にし、すべての時間を有意義なものとしたいものです。 神の家族の一員として生きる人生 第三に、人生はクリスチャンにとっては、神の家族の一員として生きることです。 私はクリスチャンになって以来、神の家族の一員であるということにより、どんなに多くの励ましと慰めを受けたかしれません。 この地上の家族も素晴らしいものです。 しかし永遠の神の家族は、もっと素晴らしいものです。 地上の家族には、ときおり骨肉の争いや、不和、近親憎悪などが見られます。 しかしそれらすべてを乗り越えて、神の家族の麗しい交わりは、私たちに常に安らぎと喜びを与えてくれます。 私たちにとって神は父、天国は母、イエスキリストは神の家族の長子(長男)、また、全世界のすべてのクリスチャンは私たちの兄弟姉妹なのです。 私はあなたに、この地上の旅において常に「自分は神の家族の一員なのだ」という自覚をもって歩まれるよう、おすすめします。 あなたが、今どんな職業についていようとも、どんな学問をしていようとも、またどんな立場にあろうとも、つねに、 「私はこの状況下で、神の家族の一員として何ができるだろうか」 と自問しながら歩んでいっていただきたいのです。 あなたは今、どのような状況、どのような環境のもとに置かれているでしょうか。 あなたは、困難な状況下にあるでしょうか。 試練のもとにあるでしょうか。 しかしたとえそうでも、「今自分は、この状況のもとに神から派遣されているのだ」と思っていただきたいのです。 その状況は、あなたがさらに神を知るための機会として、あなたに与えられているのかもしれません。 あるいは、あなたが神の栄光を現わす機会とするために、あなたがそこに置かれているのかもしれません。 エドワード・W・ホーという人は、 「私の知っている成功者は、すべて自分に与えられた条件のもとで最善を尽くした人々である」 と言いました。 私も同じことを言いたいのです。 神は、あなたが自分の置かれた状況で最善を尽くすことを、願っておられます。 どうぞ、自分の置かれた状況から逃げないでください。 もはや、あなたは独りではないのです。 キリストがあなたと共におられます。 あなたは、自分が神の家族の一員として何ができるかを考え、祈りながら、進んでいってください。 そうすれば神が、道を開いてくださいます。 神は言われました。 「わたしは、わたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう」(出エ三三・一九)。 神と共に歩んで行くならば、「もろもろの善」が、また祝福が、あなたの前を通って行くのです。 神のみわざを見る人生 第四に、人生はクリスチャンにとっては、神のみわざを見るためのものです。 あなたは、どんな状況下においても、常に神の導きを信じて歩んでいってください。 神をほめたたえ、感謝し、つねに神に栄光を帰して歩んでいってください。 そうすれば、あなたは神のみわざ、神の問題解決法を見るでしょう。 ある夫妻に、一人の娘がいました。 その娘はしだいに精神的な様子が変になり、ついに精神病院に入れられて回復の見込みなし、と診断されてしまいました。 夫妻は悩みに悩み、いろいろなことをしましたが、どれも娘の回復のために何の効果もありませんでした。 そうしたとき夫妻は、アメリカのマーリン・キャロザースという牧師から、 「現状のあるがままを神に讃美しなさい」という勧めを聞きました。 はじめ夫妻は困惑して、こう言いました。 「こんなにはっきりした悪いことを神様に感謝するなんて、どうしてできるでしょう。 感謝するといっても、それは娘をなぜこんな目に会わせたのかと、神様を責めることと同じじゃないですか。 それは"愛の神"という私の考えとは合いません」。 しかしやがて夫が言いました。 「しかし、もしあの先生が正しいとしたらどうだろう」。 「私にはわかりませんわ」 と妻が言いました。 しかし夫は、 「これ以上悪くなりようはないんだ。 そうじゃないか。 だったら、やってみようじゃないか」 そう言って、二人はひざまずき、次のように祈り始めました。 「愛する神様、あなたは私たちを愛しておられます。 また、私たち以上に娘を愛しておられます。 あなたはこの子の人生にとって最善と思われることを、なそうとしておられます。 そのことを私たちは信じます。 ですから、私たちは娘の病気を感謝します。 娘が入院していることを感謝します。 医者にも治療法がわかっていないことを感謝します。 あなたの知恵と私たちに対する愛のゆえに、神様、あなたをほめたたえます……」。 その日、彼らは祈れば祈るほど、神は本当に最善をなしておられるということを信じるようになりました。 翌朝、病院の精神科医から電話がかかってきました。 「お嬢さんに著しい変化が現われています。 面会においでになりませんか」。 それから二週間とたたないうちに、彼女は病院から退院しました。 一年後、ある集会でひとりの青年がキャロザース牧師のところにやってきて、自分はあの子の兄だと自己紹介をしました。 そして彼女はすでに結婚していること、また近々子どもも生まれることになっており、彼女は今「世界中で一番幸福な人間です」と話してくれたのです。 神の導きを信じ、神が常に最善をなしてくださるかたであると信じるところに、神はご自身を現わしてくださるのです。 「現状のあるがままを神に讃美する」ということをまだしなかったとき、この夫妻の娘はいやされませんでした。 それはこうした心の状態では、神のみわざを正しく受けとめることができないからです。 しかし神に感謝し、讃美することを始めたとき、夫妻ははじめて神のみわざを受けとめられる心の状態になりました。 それで神はみわざをなされたのです。 神を信じる者にとっては、どんな状況、またいかなる試練も、変えられて最終的に益とされます。 それらはさらに神を深く知る契機となるのです。 聖書は言っています。 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロマ八・二八)。 「すべてのことを」働かせて益としてくださるのです。 いかなる状況も、信仰を抱いて進んで行くならば、すべて神の導きにより最終的に益とされます。 最善のものとされるのです。 ですから、あなたは常にそれに信頼し、神に感謝し、神に栄光を帰して歩んでいってください。 人生は、神のみわざを見るためにあるのです。 著 ブラウザがインラインフレームに対応していません。 表示される文章はこちらです。

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