キスカ 島 撤退 作戦。 3

太平洋戦争の名将|木村昌福

キスカ 島 撤退 作戦

略歴 [ ] 紺屋町で代言人(現在のに相当)の父・近藤壮吉・母・すずの次男として生まれる。 生後すぐに木村家(母の実家、元士)の養子となり、木村家の籍に入ったが(このため本籍は)、引き続き静岡の近藤家で養育された。 父の壮吉はの党員で政治好きであり、1910年(明治43年)に選挙に失敗して財産を失い、各地を流浪して1916年(大正5年)に下関で客死した。 母のすずは、1期生の才媛であり、夫が財産を失った後は、女子美術学校(の前身)の教員、帝国女子医科専門学校(の前身)の舎監を務めて家計を支えた。 旧制静岡師範学校附属小学校、静岡県立静岡中学校(現・)を経て入校。 席次は入校時120名中84番、卒業時118人中107番。 同期に、、、らがいる。 開戦時は「」艦長。 2月に第3水雷戦隊司令官に着任。 で重傷を負い、復帰後第1水雷戦隊司令官に着任。 7月にはキスカ島撤退作戦を成功させる。 にはレイテ島挺身輸送作戦「」を二度指揮して成功させ、さらにの米上陸地点への突入作戦「」をも成功させた。 その後、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎える。 人物像 [ ] 海軍兵学校の卒業成績()が下位で、かつ甲種学生を経ていない。 人事においてが重視される帝国海軍では目立つ存在ではなかったが、開戦時には熟練した「水雷屋」として一定の評価を得ていた。 水雷艇長・掃海艇長を3度、駆逐艦長を5度、駆逐隊司令を3度務めており、いわゆる「水雷屋」のコースそのものを歩んでいる。 しかし、「水雷屋」の要件である高等科学生の履歴がなく、海軍士官としての専門を持たない「ノーマーク士官」であった。 やでの経験が無い艦隊勤務一筋の実戦派提督であり、勇猛果敢な上に豪放磊落な性格の人柄で知られ、部下をむやみやたらに叱ることもなく、常に沈着冷静な態度であったので将兵からの信頼は厚かったと言われる。 あだ名は名前を音読みにした「ショーフク」。 トレードマークは、顔面からはみ出した。 大変な酒豪で若い頃から家に帰れば酒ばかり飲んでいたというが、一方でやの心得もあったという。 「」艦長時代にベンガル湾でのにおいて敵の輸送船(民間船)を撃沈する際に乗員を退去させてから沈めるという人道的配慮を見せた。 この際、自艦の機銃指揮官が射撃命令を出そうとしたとき、艦橋から身を乗り出して「撃っちゃあいかんぞォッ! 」と大声を出して制止した。 では、所属する第七戦隊(司令官中将)と共に攻略部隊支援隊として参加。 4空母が沈んだことで混乱した連合艦隊からの第七戦隊だけでの同島砲撃命令を受けて突入を開始。 しかし到着直前に命令は撤回され合流指示が届き、逆に同戦隊は敵前に孤立する羽目になる。 全速で戦場離脱、本隊への合流を図る第七戦隊だが、不運にも米潜水艦と遭遇、これを回避しようとした際に命令伝達が混乱し、僚艦の「」と「」が衝突、最上は大破してしまう。 栗田は上級司令部に報告するが返事はなく、何時までも敵前に居ては戦隊全てが全滅してしまうと判断、健在な鈴谷と旗艦「」は引き続き本隊合流に向かい、最上と三隈は味方勢力圏への退却を決断する。 その後護衛の駆逐艦「」「」が補給を済ませたうえで反転し最上、三隈の救援に赴き、敵機の空襲で大破した三隈の乗員を救助しているが、一説では木村の指揮する鈴谷も「我機関故障」と偽って戦隊と離れ、大破漂流する僚艦「」乗員救助に当たり、多くの命を救ったともいう話もある。 しかしこの証言は「鈴谷」運用長のみのもので、当時の記録には鈴谷が戦隊と別れた記録はなく、救助された「三隈」乗員で「鈴谷」に直接救助されたと証言している者はいないため信憑性は低い。 尚記録上では「荒潮」が救助した「三隈」の艦長以下生存者を、本隊合流後に「鈴谷」が収容したとされている。 その他にも数々の海戦に参加しており、では護衛部隊指揮官として参加。 任務には失敗し、艦橋で敵攻撃機の機銃掃射により左腿、右肩貫通、右腹部盲貫銃創を負い倒れるが、最後まで指揮を行った。 この際、信号員が咄嗟に挙げた「指揮官、重傷」の信号旗を「陸兵さんが心配する」と叱りつけて下げさせ、「只今の信号は誤りなり」と訂正させたというエピソードも残っている。 キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に必要な濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事はしなかった。 1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも、霧が晴れた為突入を断念。 強行突入を主張する部下たちに「 帰ろう、帰ればまた来られるから」と諭して帰投し、状況をよく判断した指揮を行った。 痺れを切らしたや司令部からの催促や弱腰との非難にも意に介さず、でをしたり、司令室で参謀と碁を打つなどして平気な顔をしていたという逸話がある。 また、百神の加護を願う漢詩を詠んでいる。 上層部の批判に心動かされること無く慎重に慎重を重ねた指揮を行い、2回目の出撃では待ち望んでいた濃霧に恵まれたこともあり、アメリカ軍に作戦を悟られず、味方に全く犠牲を出さずにキスカ島の守備隊5,200人を短時間で救出する。 この作戦成功によりに拝謁する栄誉を受けた。 また、帝国海軍の水上作戦で最後の勝利となった「」(ミンドロ島沖海戦)に司令官として参加。 この際、「」、「」の巡洋艦2隻と駆逐艦6隻の布陣であったが、敢えて旗艦に巡洋艦を選ばず、駆逐艦「」を選んでいる。 この作戦では「」を失うものの、作戦目的の敵上陸地点の砲撃と敵輸送船団への攻撃は大成功に終わり各艦避退に移る中、「旗艦は清霜の乗員を救出する、各艦は合同して避退せよ」との命令を出し、自ら殿軍となって敵魚雷艇の襲撃及び敵空襲の危険の大きい海域に止まり機関を停止しての救出活動を敢行し、この行動に感銘を受けた艦隊各艦の必死の防戦と救助活動により、残った全艦で無事帰還している。 この際には撤退を勧める周囲の具申に対して「まだだ、まだ見落としていないか」と海上に浮かんでいる生存者を徹底的に探索するよう命令を下している。 木村の敵味方を問わず常に人命を疎かにしなかったこと、慎重且つ的確な指揮統率を行い正しい判断を下す判断能力、そして運の強さは身内の日本軍よりもむしろ戦後になってから敵手たる関係者や軍事研究家から高い評価を受けた。 内地帰還後の1945年1月3日、軍令部出仕となり、前線での生活に終止符を打つ。 6月1日には海軍対潜学校長、7月15日には海軍兵学校教頭となり、当時校長であった開戦以来の上官である栗田健男と共に後進の育成に取り組む。 それからほどなくして終戦。 海軍が解体される直前の11月1日、帝国海軍最後となる中将に昇進。 これは海軍大臣の推薦であったとされる(「」項目参照)。 戦後はの海軍兵学校防府分校跡地に於いて、彼を慕う旧部下と共に製塩業を営んだ。 資金調達や販売先の確保などに自ら奔走し事業は成功した。 トレードマークであったカイゼル髭を剃り落し、穏やかな日々を送ったと言われる。 太平洋戦争中の数々の武勲や戦歴についても寡黙であり、1957年に元海軍でのが木村らに取材してキスカ撤退作戦の経緯を雑誌に発表するまでは、家族すら木村の事績を知らなかったという。 なお、実兄近藤憲二(40期、)、実弟近藤一声(50期、戦死後大佐)もともに海軍軍人で、憲二は開戦前の1940年(昭和15年)に病没、一声は1943年で「」副長として戦死している。 年譜 [ ]• 1891年(明治24年)12月6日- 生• (明治43年)9月12日 - 海軍兵学校入校• (2年)12月9日 - 海軍兵学校卒業 ・ ・「」乗組• 8月11日 - 帰着• 8月13日 - 装甲巡洋艦「」乗組• 12月1日 - 任 海軍• (大正4年)12月13日 - 「」乗組• (大正5年)4月4日 - 「」乗組• 12月1日 - 任 海軍・普通科学生• (大正6年)6月1日 - 普通科学生• 12月1日 - 附• (大正7年)7月1日 - 附• 7月16日 - 戦艦「」乗組• (大正9年)7月22日 - 附• 9月1日 - 第2艇隊艇長心得兼海軍水雷学校教官• 12月1日 - 任 海軍• (大正10年)7月27日 - 「」分隊長• 同年、原田貞と結婚。 昌福の死まで生涯を共にし、2男1女を得た。 (大正11年)4月11日 - 待命• 9月1日 - 水雷第2艇隊長兼海軍水雷学校教官• (大正12年)6月30日 - 「」• 7月10日 - 兼 水雷学校教官• (大正12年)12月1日 - 長• (大正14年)12月1日 - 「」艇長• (大正15年)8月1日 - 兼 掃海艇「」艇長• 12月1日 - 任 海軍・「」• (昭和4年)5月10日 - 1等駆逐艦「」艦長 兼 1等駆逐艦「」艦長• 9月5日 - 「」艦長• (昭和5年)11月15日 - 1等駆逐艦「」艦長• (昭和7年)1月28日 - 「」艦長• 9月20日 - 司令部附• 12月1日- 任 海軍・河川用砲艦「」艦長• (昭和9年)3月10日 - 1等駆逐艦「」艦長• (昭和10年)11月15日 - 第16駆逐隊司令• (昭和11年)12月1日 - 司令• (昭和12年)12月1日 - 任 海軍・第8駆逐隊司令• (昭和14年)1月28日 - 「」特務艦長• 4月20日 - 「」特務艦長• 12月5日 - 「」艦長• (昭和15年)10月15日 - 重巡洋艦「」艦長• (昭和17年)11月1日 - 任 海軍• 11月24日 - 横須賀鎮守府出仕• 12月5日 - 舞鶴司令官 兼 舞鶴海兵団長• (昭和18年)2月5日 - 司令部附• 2月14日 - 第3水雷戦隊司令官• 3月6日 - 横須賀鎮守府附• 6月8日 - 第1水雷戦隊司令官• (昭和19年)11月20日 - 司令官• (昭和20年)1月3日 - 軍令部出仕• 2月18日 - 附• 4月25日 - 兼 司令部附• 6月1日- 長 兼海軍技術会議議員 兼海軍艦政本部技術会議議員• 7月15日 - 海軍兵学校教頭兼防府分校長 兼監事長 兼海軍防府通信学校長• 10月1日 - 横須賀鎮守府附• 11月1日 - 任 海軍中将(帝国海軍最後の中将昇進 )• 11月10日 - 編入• 3月 - 退役軍人らの自活策のため自ら資金調達、防府市の旧・通信学校敷地の一部「二ノ枡」の払い下げを受け、近傍の三田尻塩業協同組合の協力・支援を得て「二ノ枡塩田開発組合」(のち二ノ枡塩田組合と改称)を発足。 同組合の理事長(実質は組合長)に就任。 以後、元部下らと共に製塩業に取り組み、自ら遠方への営業活動にも当たった。 1959年(昭和34年) - 1950年代中期から技術革新による塩の生産過剰が問題となり、木村は製塩業の縮小策と部下たちの再就職に奔走するも、この年8月再発により入院。 同年、防府地区の塩田は国策による塩業整理特別措置法の対象となり、二ノ枡塩田組合は11月廃止。 1960年(昭和35年)2月14日 - 胃癌進行により付属病院にて死去。 享年68。 脚注 [ ] 注釈 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2017年1月)• 『帝国海軍士官入門』 光人社(光人社NF文庫)、2007年。 キスカ(市川浩之助著・コンパニオン出版社)• 私記キスカ撤退(著・) C0131• 不滅のネイビーブルー(著・光人社NF文庫) C0195• 連合艦隊の名リーダー(著・阿川弘之編・) C0034• 指揮官の決断(著・) C0095• 第2水雷戦隊突入す(木俣滋郎著・光人社NF文庫) C0045• 日本海軍指揮官総覧(太平洋戦争研究会編・新人物往来社) C0021• 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)• 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)• 最前線指揮官の太平洋戦争 岩崎剛二著・光人社NF文庫• 一海軍士官の半生記 草鹿龍之介著・光和堂• 『戦場の将器 木村昌福』 光人社(光人社NF文庫)、2005年。 『キスカ 撤退の指揮官』(2009年8月、)• 『キスカ島 奇跡の撤退』(2012年8月、新潮文庫)。 上記の改題・全面改訂版• 将口泰浩『アッツ島とキスカ島の戦い 人道の将、と木村昌福』(2017年6月、海竜社) 木村昌福を演じた俳優・声優 [ ]• 『』(/) この映画では、木村では無く大村少将と名前が変えられている。 『』第16話(/) 関連項目 [ ]•

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キスカ島撤退作戦

キスカ 島 撤退 作戦

概要 [ ] アッツ島の戦いは、(いわゆる「」)におけるにともない(昭和18年)5月中旬から下旬にかけてでおこなわれた戦闘。 アメリカ軍はの奪回を目指して、5月12日に上陸を開始した。 陸軍大佐指揮下のがアッツ島(当時の日本側呼称は 熱田島)を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった。 北方方面を担当するのもアメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず 、またアッツ島への補給や救援に失敗した。 島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された。 は空母機動部隊 やを含む主力艦部隊 を方面に集結させたが、反撃には出なかった。 はアッツ島増援を検討したものの 、最終的には西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念する。 5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した。 アッツ島守備隊はしたアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、にした。 太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、またで唯一、で行われたである。 本記事では、アッツ島攻防戦に至る経緯、アッツ島地上戦闘の様相、日本軍が西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)放棄を決定するに至った経緯を記述する。 背景 [ ] 連合軍が(昭和17年)4月18日に敢行したによるは 、日本軍に大きな衝撃を与えた ()。 日本軍は同年5月下旬に実施されたの作戦として、また北東方面からの連合軍空襲阻止を企図しアリューシャン群島西部要地の攻略または破壊を目的として、さらに米ソ連絡遮断を企図して 、を発動した。 日本陸軍の北海支隊(支隊長陸軍少佐、独立歩兵一大隊、独立工兵一中隊、高射砲中隊、補助部隊、約1,150名)はのを 、はを攻略することになった。 アッツ島は「熱田島」、キスカ島は「鳴神島」と改称された。 陸海軍部、(司令長官海軍大将)、(司令長官海軍中将)の防衛方針は統一されておらず、アッツ島玉砕の原因は攻略計画立案時から内包されていた。 たとえば大本営海軍部()と連合艦隊は「キスカやアッツの守備は陸上兵力と水上機だけで良い」「飛行場を造るつもりはない」と考えていたが、第五艦隊や日本陸軍は「飛行場を建設して積極作戦に打って出たい」と考えていた。 詳細は「」を参照 この時期、アメリカ軍がアリューシャン方面に配備していた兵力は貧弱であった。 日本軍の暗号解読により攻勢を察知したアメリカ軍は、巡洋艦5隻・駆逐艦14隻・潜水艦6隻をアリューシャン方面に派遣した。 一方の日本軍は第五艦隊と第四航空戦隊(司令官少将:空母、)を基幹とする機動部隊と攻略部隊でアリューシャン方面に進撃する。 6月7日、アッツ島攻略部隊(第一水雷戦隊〈 、、、〉、輸送船〈〉)はの穂積部隊(北海支隊独立歩兵第三〇一大隊と配属部隊の独立工兵一個中隊)の約1,100名を乗せてアッツ島に到達、同島に上陸してにした。 キスカ島の守備は日本海軍の陸上部隊が、アッツ島の守備は北海支隊が行うことになった。 6月23日、大本営は西部アリューシャン群島の長期確保を指示した。 アメリカ軍はの基地から大型爆撃機で空襲をおこない、またを投入して日本軍に損害を与えた(など)。 8月8日、を基幹とするアメリカ艦隊はに来襲し、艦砲射撃を敢行した。 の生起にともないの関心はに集中しており、大本営陸海軍部は特に検討することなく北海支隊のキスカ島移駐を命じた。 北海支隊はアッツ島を放棄するに際し、携行できない軍需品や施設を破壊した。 またアッツ島の住民約40名を同行した。 第五艦隊の協力下、穂積支隊はキスカ島への転進を完了した。 この時点で北海支隊は第五艦隊の指揮下に入った。 日本軍の防衛方針は、相変わらず統一されていなかった。 10月18日、日本軍はアメリカのラジオ放送からアムチトカ島が占領されたと判断し(実際は誤報であった)、急遽アッツ島の再占領を決定した。 10月20日より、アッツ島の再占領がはじまる。 24日、大陸命第七百八号と第七百九号により北海守備隊が新編され、第五艦隊司令長官の指揮下に入った。 北海守備隊司令官には陸軍少将(陸士28期)が任命され、札幌の守備隊司令部に着任した。 一方、を守備していた米川浩陸軍中佐(陸士第31期) が率いる歩兵隊の2,650名が、アッツ島に配備される。 米川部隊は第五艦隊の軽巡洋艦や駆逐艦に分乗してアッツ島へ移動、10月29日に上陸した。 11月1日、大本営は各方面に陸海軍中央協定を指示する。 第五艦隊司令長官が北海守備隊を指揮すること。 キスカ島とセミチ島に陸上航空基地を、キスカ島とアッツ島に水上航空基地を建設すること。 陸上航空基地の建設は陸軍の担任であること。 急速輸送は海軍艦艇が、その他は陸軍輸送船が担任し「右陸軍輸送船(軍需品ヲ含ム)ニハ護衛(間接護衛ヲ含ム)ヲ附スルヲ本則トス」。 以上のような項目が定められた。 この方針により、西部アリューシャン列島の各島での建設と強化がはじまった。 鳴神地区隊(キスカ島)は北海守備隊司令官が担任し、熱田地区隊は北千島要塞歩兵隊長が担任する。 だが地形や補給の関係から飛行場の建設は遅々として進まず、キスカ島・アッツ島とも飛行場の完成前に米軍の反攻に晒されることになった。 また一年のほとんどがかという気候のため、守備隊にはストレスのあまり精神を病む者が続出した。 さらに絶え間ない空襲や艦砲射撃の恐怖、補給不足によるが重なった。 11月25日、アッツ第二次輸送作戦(阿武隈 、木曾 、若葉 、 等が参加)が行われて成功したが、セミチ島攻略部隊は輸送船「ちえりぼん丸」がアッツ島で空襲をうけ擱座したため中止された。 各島への輸送と部隊配備は12月末までに終了する計画だったが、輸送船の被害や、水上戦闘機の進出が遅れたことが重なり、昭和18年3月末完了予定と延期された。 同時期の日本軍艦船は、連合軍による空襲の激化と潜水艦の蠢動によりアリューシャン列島から北千島への退避を余儀なくされており、補給輸送の断絶はアッツ島・キスカ島の命脈が絶たれることを意味した。 1943年(昭和18年)初頭になるとアメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、従来の航空機や潜水艦による封鎖や妨害の他に、水上艦艇による襲撃も行うようになった。 アメリカ艦隊は建設中の飛行場にを加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想された。 また輸送船にも被害が続出した。 1月6日、アッツ到着目前の「琴平丸」が空襲で沈没する。 同日、キスカ行の増援部隊を乗せた「もんとりーる丸」が空襲で沈没する。 1月24日、日本軍は米軍がアムチトカ島に進出したのを発見した。 2月になると、米軍はアムチトカ飛行場の使用を開始し、日本軍の水上戦闘機では対抗できなくなった。 アリューシャン方面のは連合軍のものとなった。 大本営海軍部(軍令部)では一部で撤退意見があったものの、軍令部第一部長をはじめ大多数は「アリューシャン列島の保持」という方針を堅持した。 同年2月5日、大本営は北部軍司令部を改変し、北方軍司令部(司令官陸軍中将)を編成した。 この改変にともない、北海守備隊は第五艦隊司令長官の指揮下を離れ、北方軍の隷下に入った。 すなわち西部アリューシャンの防衛は北方軍と第五艦隊、千島方面の防衛は北方軍と大湊警備府の担当となった。 アッツ島に陸上航空基地を建設することが決まり、飛行場完成は3月末を目標とした。 飛行場や防御施設の整備は進んでいなかったが、現地を視察した日本陸軍上層部は海軍に「キスカやアッツ島の陸海軍は仲良く協調し、糧食も十分、飛行場整備も大いに進捗、さして心配はいらぬ」と説明しており、後日のアッツ島上陸の報をうけた連合艦隊参謀長は「彼等(日本陸軍)の楽観説には誠に恐れ入るものあり」と評している。 2月11日、大本営陸軍部は北海守備隊(司令官陸軍少将、キスカ在)の編成を改正し、キスカ島を担当する第一地区隊(歩兵三コ大隊、地区隊長陸軍大佐)と、アッツ島を担当する第二地区隊(歩兵一コ大隊、地区隊長は米川浩中佐から陸軍大佐に交代)を区分した。 同時にの増援が計画されたが、海防艦「」に護衛されていたアッツ行輸送船「あかがね丸」がアメリカ艦隊により撃沈された。 日本軍は戦略の転換をせまられ、第五艦隊の護衛による集団輸送方式に転換した。 3月10日、第五艦隊と第一次増援輸送船団( 、、崎戸丸)がアッツ島に到着して輸送に成功した。 これがアッツ島に対する最後の輸送船補給となった。 しかし3月27日にアメリカ水上艦隊と遭遇して(連合軍呼称はコマンドルスキー諸島海戦) が生起し第五艦隊旗艦「」が小破 、第五艦隊は撤退して輸送作戦は中止された。 山崎保代大佐も上陸できなかった。 これ以降、アッツ島に対する水上艦の輸送は悪天候や米軍機の妨害により実施できず、潜水艦による輸送に限定された。 この海戦の後、第五艦隊司令長官は細萱中将から海軍中将に交替した。 山崎大佐は4月18日に「」潜水艦に便乗してアッツ島に到着した。 大本営海軍部は戦闘機隊のアッツ進出に一旦同意したが間もなく取り消し、日本陸軍は憤慨して失望した。 山崎保代大佐 アメリカ軍のアッツ島攻略部隊の全指揮は海軍少将がとり、ロックウェル海軍少将とブラウン陸軍少将の上陸部隊を指揮する。 当初はキスカ島に上陸予定だったが、アメリカ軍の兵力不足、各島防備状況等を考慮し、統合参謀本部は上陸目標のアッツ島変更を承認した。 アッツ島への上陸作戦は5月7日と定められた。 アッツ島周辺は一年霧に覆われているが、この時機は濃霧期の直前であった。 米軍の計画では3日で全島を制圧する予定であった。 アメリカ海軍省は西部アリューシャンの奪回と時機を公表して宣伝しており、報道を知った日本軍は警戒を強めていた。 アメリカ艦隊は4月27日にアッツ島を砲撃し、5月9日には潜水艦で北海道幌別村(室蘭北東16km) に砲撃を加えるなど、活発に行動していた。 軍令部第一課長大佐は「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。 来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想している。 4月11日に東京でおこなわれた中央関係者・北方軍・第五艦隊の懇談会で、北方軍は「米軍の反攻作戦は霧期前(4月~5月)におこなわれ、キスカ島への反攻は必至で間近い」と意見している。 第五艦隊は北方軍の主張するアッツ中心主義に同調したが、霧期前の強行輸送には同意しなかった。 大本営海軍部参謀は「海軍機の現地飛行場進出は7月中旬、それまでは水上戦闘機で対処。 陸軍戦闘機の(アッツ、キスカ)進出は無理」と述べている。 経過 [ ] アッツ島地上戦 [ ] 青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路 1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる3隻、6隻、1隻、19隻、輸送船5隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊が のコールド湾を出港した。 編成は以下の通り。 戦艦「」「」「」• 護衛空母「」• 重巡洋艦「」「」「」• 軽巡洋艦3隻• 駆逐艦19隻• 輸送船4隻など 上陸部隊は陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。 アメリカ軍の作戦名は「 ランドクラブ作戦 Operation Landcrab 」という。 上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した。 主力は霧に紛れて北海湾 Holtz Bay と旭湾 Massacre Bay 、さらに北部海岸に上陸し、海岸にを築くことに成功した。 「全力を揮つて敵を 撃摧 ( げきさい )すへし 隊長以下の健闘を切に祈念す 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」 アメリカ軍は戦艦部隊でアッツ島の日本軍守備隊に対し艦砲射撃をおこなったが、有効な損害を与えられなかった。 地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。 2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台 Hill X にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。 日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。 芝台を奪われた日本軍は西浦 West Arm の南の舌形台 Moore Ridge に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。 日本軍はを水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。 一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。 平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。 米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという。 この部隊は虎山 Gilbert Ridge と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。 この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」 Massacre Valley と称されることになる。 その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。 険しい地形がアメリカ軍を阻んだ 各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受けた。 16日、アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。 北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田 Chichagof に後退させた。 この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。 同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。 18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山 Black Mountain や獅子山 Cold Mountain の高地に拠って抵抗し寡兵をもってよくアメリカ軍の攻撃を撃退した。 特に荒井峠 Jarmin Pass の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。 ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、少将が代わりの指揮を執った。 5月20日、大本営は北方軍に対しアッツ島への増援計画の中止を通告し、北方軍司令部は大きな衝撃を受けた。 5月21日、大本営陸軍部(参謀本部)の参謀次長は自らの北方軍司令部を訪ね、北方軍司令官陸軍中将にアッツ島増援中止に至った事情を説明した。 秦次長の帰京時の説明は以下のとおり。 彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。 大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。 ついては企図を中止せられたい」と。 私は一個の条件を出した。 「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。 (中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。 そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。 本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電した。 山崎隊長は「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した。 23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った。 「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」 命令電の中で、はじめての言葉が使われた。 これについては事実上の玉砕命令だとする指摘がある。 これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉()が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。 一方で昭和天皇は軍部の対応を批判していたという。 アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。 日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。 兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続けとなったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。 翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。 各将兵の労をねぎらった後に最後の電報をのへ宛てて最後に打電した。 野戦病院隊も参加す。 最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。 僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。 但し何等の遺憾なし。 天皇陛下万歳。 聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。 十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。 私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。 どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。 ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。 ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。 敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。 敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。 一個分隊に護衛されていたとも伝えられる。 一方、熱田島守備隊は無線機を破壊した。 日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。 弾薬はすでに尽き、銃剣による突撃であった。 この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。 日本軍の進撃は止まらず、遂には第7師団本部付近にまで肉薄する事態となるが、雀ヶ丘 Engineer Hill で猛反撃を受け全滅。 最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。 なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。 米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している。 「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。 霧がたれこめ100m以上は見えない。 ふと異様な物音がひびく。 すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。 先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。 右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。 どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。 手に銃のないものは短剣を握っている。 最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。 足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。 我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。 わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。 しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。 また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。 また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。 遂にわが砲火が集中された…」 日本軍は雀ヶ丘 Engineer Hill で全滅した 日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。 5月21日時点では二割弱の兵力損失だったが、大本営より増援中止を伝達されてから八割強が斃れたことになる。 江本少佐と沼田大尉の収容にむかったは6月上旬に幾度かアッツ島へ突入したが、連絡に失敗した。 6月11日、伊24潜水艦は哨戒機とパトロール艇により撃沈された。 江本少佐一行はアッツ島東海岸突端のでし 、戦後になって日本側慰霊団により発見された。 アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。 大本営の対応 [ ] 5月12日午前中、大本営海軍部では第一部(作戦)・第三部(情報)・特務班(通信諜報)関係者があつまり、太平洋方面の情況判断をおこなった。 大本営陸軍部では、北方軍作戦参謀陸軍大佐が、参謀次長陸軍中将・作戦部長陸軍少将・作戦課長陸軍大佐達と共に、北部太平洋方面の情況と今後の作戦について検討していた。 同日午後、大本営陸海軍部はアメリカ軍アッツ島上陸の報告を受け、アッツ島確保の方針を打ち出した。 アッツ島への増援部隊は、第七師団(師団長陸軍中将)から抽出する予定であった。 翌13日、陸海軍部はアッツ島に増援部隊をおくりこむことで一致していたが、連合艦隊は微妙な態度であった。 5月14日、海軍部はアッツ島への緊急輸送につき「(一)落下傘部隊 (二)潜水艦輸送 (三)駆逐艦輸送」の具体的研究を進めた。 午後4時より行われた宮中大本営戦況交換会で、アッツ島守備隊は善戦しているが至急増援部隊をおくる必要があることを再確認した。 の準備もはじまった (水上機母艦により5月28日~29日アッツ島着予定)。 日本陸軍の一部では、落下傘部隊と潜水艦によるアムチトカ島奇襲「テ」号作戦の研究がすすめられた。 落下傘部隊だけによる奇襲は「ヒ」号作戦と呼称された。 5月16日から17日にかけての大本営陸海軍合同研究会は、徐々に悲観的な空気に包まれていった。 旧式戦艦(、)と第五艦隊各艦および落下傘部隊でアムチトカ島を攻略する「テ」号作戦も検討されたが、もはや時機を逸しており成算も疑問視された。 5月18日、大本営は「熱田奪回の可能性薄し」とアッツ島放棄を内定した。 当時の参謀次長中将は「陸海軍共反撃作戦を考えたが、第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたので反撃中止になった」と回想している。 5月19日、は第五艦隊の出撃を促し、連合艦隊の状況についても下問した。 大本営は北海守備隊を如何にして撤退させるかの検討に入った。 キスカ島については潜水艦を主力とし駆逐艦と巡洋艦を併用する方向であったが、アッツ島に関しては「熱田湾ハ水深三米程ニテ潜水艦ハ入レナイ、「ボート」一隻モナシ、午前三時以後ハ絶エズ哨戒駆逐艦動キツツアリ(現地の日出0122、日没1652)。 ココハ最後ハヤムナシト云フ案モアル。 五月末集メ得ル潜水艦ハ全部デ十隻、海軍全部デ四〇隻、ソノ三分之一ガ行動可能」であった。 5月20日、昭和天皇は大本営に臨御した。 大本営陸海軍部は、中央協定を結ぶ。 アッツ島守備部隊は機会を見て潜水艦により撤退、キスカ島守備部隊は潜水艦・駆逐艦・輸送船による逐次撤退と定められた。 大本営陸軍部は20日付大陸命第793号と大陸指第1517号等の発令をもって、中央協定を示達した。 大本営海軍部はアッツ島守備隊について、一部だけでも潜水艦で収容する方針を示した。 5月28日午前中、大本営陸海軍部は宮中で戦況交換をおこなう。 午後、大本営陸海軍部と連合艦隊参謀があつまり、戦局全般の研究会が開かれた。 5月30日、大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し 、初めて「」の表現を使った。 それまでなどで前線の守備隊が全滅することはあったがそのようなことが実際に国民に知らされたのはアッツ島の戦いが初めてであり、また元帥戦死公表の直後だったため(5月21日午後3時、大本営発表) 、日本国民に大きな衝撃を与えた。 大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道した が、実際には上記のとおり5月16日に補給と増援の要請を行っており、虚偽の発表であった。 この件に関し、北海守備隊の峯木司令官は陸軍大臣や陸軍次官から「アッツの山崎大佐は何等救援の請求をしなかったが、司令官(峯木)が執拗に兵力増援をもとめたのはけしからん」として叱られたという。 またアッツ島海軍部隊を指揮していた第五艦隊参謀の江本弘少佐も、たびたびアッツ島への緊急輸送や増援の必要性を訴えている。 同年9月29日、アッツ島守備隊将兵約2600名の合同慰霊祭が、札幌市の中島公園で行われた。 日本海軍の対応 [ ] アメリカ軍のアッツ島来攻時、日本海軍において北方方面を担任していたのは(司令長官海軍中将)であり、第五艦隊司令長官は北方部隊指揮官を兼ねていた。 当時の北方部隊の軍隊区分は、主隊(北方部隊指揮官第五艦隊司令長官直率:重巡、第二十一戦隊〈木曾、多摩〉)、支援部隊(妙高、羽黒)、水雷戦隊(第一水雷戦隊〈司令官海軍少将:阿武隈、第6駆逐隊、第9駆逐隊、第21駆逐隊〉、長波、五月雨、響)、潜水部隊、航空部隊(第二十四航空戦隊司令官、第752航空隊、飛行艇隊)であった。 日本本土東方における邀撃作戦に関しては、第四空襲部隊指揮官(第二十四航空戦隊司令官少将)が聯合空襲部隊指揮官として、とを併せて指揮した。 なお米軍のアッツ島来襲後の5月18日をもって第十二航空艦隊(司令長官中将)が新編され、軍隊区分上は「第二基地航空隊」となった。 従来、第五艦隊は重巡洋艦「」を旗艦としていたが、同艦はで損傷し内地へ帰投 、で損傷修理と装備工事をおこなっていた。 「那智」は5月11日に横須賀を出発し、北方へ向け移動中であった(5月15日、幌筵着)。 那智不在の間、第五艦隊旗艦は軽巡洋艦「」や重巡洋艦「」 が務めた。 また第五艦隊隷下の第一水雷戦隊旗艦は軽巡洋艦「」であったが、アッツ島来攻時の同艦はで修理と整備をおこなっていた。 「阿武隈」は急遽出渠し 、5月17日に舞鶴を出発、5月20日片岡湾に到着した。 第五艦隊の主力艦として開戦時より北方で活動していた軽巡洋艦「」もで修理と整備をおこなっており、同艦も5月20日に舞鶴を出発、幌筵片岡湾着は22日であった。 日本海軍は北方部隊に複数の伊号潜水艦を配備して、哨戒や索敵任務のほかに、アッツ島やキスカ島への輸送に投入していた。 5月11日 、輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」 、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向け幌筵を出撃した。 米軍のアッツ島上陸の報告を受けてアッツ行を中止、偵察を試みたが悪天候により水上機を発進できなかった。 各艦の幌筵帰投は5月15日であった。 5月12日のアッツ島上陸をうけて、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「」に将旗を掲げ 、アメリカ艦隊攻撃のためを出撃した。 だが霧で視界が効かず、アメリカ艦隊と交戦することなく引き返した(5月15日、幌筵帰投)。 並行して、北方部隊指揮官はアリューシャン方面で輸送任務についていたをアッツ島に向かわせた。 また連合艦隊は複数の潜水艦を北方部隊に編入した。 北方部隊のうち、キスカ輸送を終えた「伊31」と「伊34」は、キスカからアッツ島にむかった。 「伊35」は幌筵を出撃し、アッツ島にむかった。 5月13日、「伊31」は米戦艦「」を雷撃したが命中せず (伊31は魚雷2本命中と報告) 、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された。 「伊34」 (資料によっては伊34のほかに伊35も損傷と記述する) も爆雷攻撃で損傷し、避退した。 アメリカ軍アッツ島上陸の速報により、連合艦隊は内地回航中の戦艦「」と空母2隻および巡洋艦部隊 から4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)を抽出して北方部隊に増強し、第二十四航空戦隊と第801海軍航空隊(飛行艇6機)も北方部隊に増強した。 つづいて内地所在の機動部隊や艦艇を関東地方に移動させ、北方情勢に備えた。 連合艦隊は、アッツ島の米軍艦隊が正規空母4 - 5隻からなるものと評価した(実際には護衛空母一隻)。 内地で修理や訓練を行っていた(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳) 、重巡洋艦3隻(最上、熊野、鈴谷)、軽巡洋艦2隻(阿賀野、大淀)、駆逐艦複数隻(新月、浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)等からなる艦隊が横須賀に集結した。 北方で行動中と推定された米軍機動部隊に決戦を挑むための処置である。 5月17日、連合艦隊司令長官大将及びで死亡した大将の遺骨を乗せた大和型戦艦「」 と金剛型戦艦2隻(第三戦隊司令官中将:金剛、榛名)、空母「」()、第八戦隊(、)、駆逐艦5隻 はトラック泊地を出発、東京湾にむかった。 5月18日、大本営はアッツ島増援の中止を内定し、連合艦隊司令部は洋上でこの決定を知った。 5月22日、連合艦隊司令長官大将直率の艦隊は東京湾に到着し 、「武蔵」(連合艦隊旗艦)は木更津沖に投錨した。 駆逐艦2隻(夕雲、秋雲)は山本元帥の遺骨を東京へ送った。 また連合艦隊参謀長は中将から中将に交代した。 各艦隊司令部が集合して検討した結果、機動部隊の東京湾出撃は29日を予定とし、北方全般の情勢をみて出撃するか否かの最終判断をくだすことになった。 では20日までに北方部隊(第五艦隊所属艦および臨時編入艦) の各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた。 北方部隊は水上艦船・航空部隊・潜水部隊でアッツ島方面敵艦隊に奇襲をしかけると共に、第1駆逐隊(沼風、神風)によるアッツ島緊急輸送を計画していた。 この時点での北方部隊は、重巡洋艦4隻(那智、摩耶、妙高 、羽黒 )、軽巡洋艦3隻(木曾、多摩、阿武隈)、駆逐艦(響、五月雨、長波、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈若葉、初春〉) 、水上機母艦「君川丸」、潜水艦部隊等によって編成されていた。 5月21日、大本営海軍部は大海指第247号により、アッツ島守備隊の収容に努力するよう第五艦隊に対し指示した。 だが第五艦隊の出撃は度々延期され 、天皇は第五艦隊の出撃取止め理由を問いただすことになった。 北方部隊に編入された第二十四航空戦隊の第一部隊(第752航空隊)陸上攻撃機21機は、5月13日に進出を完了したが、連日の悪天候に悩まされた。 占守型海防艦( 、、)が陸攻隊の救難、気象観測、誘導のため配置された。 5月23日、天候が回復する。 第752航空隊の陸攻19機(指揮官大尉)はアッツ島方面に対するはじめての航空攻撃を敢行し 、駆逐艦1隻撃沈等の戦果を報告した (未帰還機1)。 翌24日、野中隊長指揮下の陸攻17機はアッツ島に到達したが、霧のため目標を視認できなかった。 邀撃してきたと交戦してP-38撃墜8(不確実2)を報じたが陸攻3機 (ほかに着陸時大破1)をうしなった。 翌日の使用可能機数は、陸攻30と零戦12と報告している。 25日以降ふたたび天候が悪化し 、その後は航空攻撃の機会を得られなかった。 キスカ島の海軍守備隊(第五十一根拠地隊、司令官海軍少将)は、アッツ島守備隊激励のため水上機を1回だけ派遣したという。 25日 、第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した。 編成は以下の通り。 軽巡洋艦「」 「」• 駆逐艦「」「」「」「」「」「」「」「」 第五艦隊は米艦隊の包囲網を突破、駆逐艦2隻(神風、沼風)は5月28日 (陸軍部への通告では27日)にアッツ島へ到着し補給を行う予定であった。 27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった。 5月28日、第五艦隊参謀江本少佐(アッツ島)は「漸次急迫シツツアリ 本日ノ輸送ハ是非実行サレ度」と電報したが、第一水雷戦隊は既に作戦中止の意向であった。 旧式駆逐艦の上に大量の物件を搭載していた第1駆逐隊(神風、沼風)は悪天候の中で航行困難となり、命令により幌筵に帰投した。 5月29日朝、連合艦隊は機動部隊の出撃を取りやめた 同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も30日0230「行動ヲ中止シ幌筵ニ帰投ス」を発令し、引き返した。 連合艦隊は第五艦隊に「潜水艦ヲ以テ熱田島残留者(報告者ノミニテモ可)収容ノ手段ヲ講ゼラレタシ」と下令した。 この命令により伊号第24潜水艦がアッツ島に向かったが収容に失敗し、同艦は6月11日に撃沈された。 江本少佐以下4名もアッツ島で死亡した(前述)。 分析 [ ] ではアッツ島の守備隊が全滅した理由として以下の理由を挙げている。 アッツ島の占領目的が陸海軍で一致していなかった。 離島防御への認識が不十分で、「守備兵がおれば確保が可能である」という程度のものだった。 航空機に関して、アリューシャン方面の分担区分が明確でなかった。 米軍の反攻に対する誤判断。 米軍がへ進攻し、飛行場を建設してアッツ、キスカ両島へ空襲を行うようになっても何の施策も行わず、無為に過ごした。 当時、聨合艦隊は4月18日ので聯合艦隊司令長官や参謀複数が戦死、聯合艦隊参謀長も重傷を負い、新司令長官海軍大将は着任したばかりで指揮系統が混乱していた。 大佐(当時、聯合艦隊先任参謀)は「聨合艦隊司令部は一致して北方における積極作戦に反対であった。 それは北方は地勢的、気象的に不利であり、当時は燃料が 逼迫 ( ひっぱく )し軍令部からも注意があった等のためである」と回想している。 聨合艦隊参謀長のは5月13日の時点で日記に以下のように書いている。 思ふに如何に優勢なる敵が来襲したりとも断じて寄せつけぬ準備出来て然る可きなり。 今更これを確保したりとするも敵はカムチャッカ方面に飛行場を急速に整備するは必定にして、反之当方は何等飛行場を有せざることとなるは明かなり。 夫れ故にガ島 のこと)よりも戦況我に不利なり。 斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり アッツ島救援作戦の中止の理由としては、空母機動部隊の航空隊がで消耗していたこと、占領した蘭印地域の油田の操業再開や輸送に手間取ったため内地の燃料備蓄に余裕が無かったことが戦史叢書には挙げられている。 また日本軍機動部隊が出動しても機動部隊同士の艦隊決戦生起の公算が少ないと判断されたこと、北方の天候と母艦搭乗員の練度不足、米軍基地航空圏下での作戦になりの性能差もあって海上決戦に不利であることも要素であった。 特に輸送に関しては本来民需の維持に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を輸送するための輸送船を十分に確保できなかった。 この問題に関しては1942年末の時点でさらなる民間船舶の増徴及び南方戦線への投入を主張する陸軍参謀本部第1部長の少将が参謀本部第1部長室にて軍務局長との乱闘事件を、翌日には首相官邸にて首相に対して罵倒事件()を起こした結果辞任する事態になっていた。 1943年(昭和18年)5月28日の大本営陸海軍部合同研究会で、山本親雄軍令部第一課長が次のように説明している。 今内地には燃料は30万屯程度しか手持がない。 然るに聨合艦隊が無為にしていても毎月四万屯宛油は減っていく。 機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動二十数万屯は要るものと思はねばならぬ。 若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない。 この事情により日本海軍の空母機動部隊(一航戦〈翔鶴、瑞鶴、瑞鳳〉、二航戦〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉)は1943年中盤までほとんど活動できなかった。 海軍の作戦指導に対して陸軍では釈然としないものがあった。 アッツ島上陸直前の5月8日、連合艦隊旗艦「武蔵」で大本営海軍部(軍令部次長、第一課長)を交えておこなわれた作戦研究で、連合艦隊は「艦隊決戦のためなら離島守備隊もあえて捨て石にする」と決定し、前線部隊も「至極当然のこと」と受け止めていた。 大本営陸軍部も同意見であったが「果たして連合艦隊は出撃するのか、出撃しても成算はあるのか」と疑っていたという。 アッツ島戦後、陸軍参謀総長及び参謀次長は「アッツ問題に関連して海軍が協力してくれなかったと言う風ことは一切言うな」と発言している。 影響 [ ] アリューシャン戦線のこのアッツ島の戦いにおいて、した大型上陸用舟艇のを使用するアメリカ軍 アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近い守備隊は取り残された形となったが、日本軍は前述のように5月20日附でを決定していた。 海軍では第一水雷戦隊司令官少将が急病で倒れたため、少将が第一水雷戦隊司令官となっていた。 潜水艦による第一次撤収作戦とによる第二次撤収作戦が実施され、キスカ島の将兵は脱出・撤退に成功した。 日本軍キスカ撤収直後、連合国軍はを発動してにキスカ島上陸作戦を敢行したが、空振りに終わった。 アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日にに伝えられた(上述)。 森山康平によれば、その際に次のようなエピソードがあったとされる。 昭和天皇は、上奏をした参謀総長へ「最後まで良くやった。 このことをアッツ島守備隊へ伝えよ」と命令した。 杉山はすかさず「守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません」と言った。 これに対して昭和天皇は「それでも良いから電波を出してやれ」と返答した、という。 こうして、無念にも散って逝った守備隊へ向けた昭和天皇の御言葉が、決して届かないであろう事を承知した上でアッツ島へ向けて打電された。 しかし、5月30日の陸軍少将(当時第一部長、のち)の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。 眞田第一部長はこの上奏を起案したの直属長官であり、瀬島は杉山参謀総長とともに車で宮中に赴いている。 もし上記のような命令がされていたのであれば、かならず上司である眞田にも報告があったはずである。 よって、上記の昭和天皇とのやり取りが創作ではないかという指摘もある。 また上記のエピソードの出典は瀬島龍三の回顧録である場合が多い。 さらにアッツ島での玉砕の報を聞いた時に首相・陸軍大臣は声をつまらせてむせび泣いた。 昭和天皇の陸海軍に対する評価は以下のとおり。 「第二次世界大戦 1943年 日本の山崎陸軍大佐はこの地点の近くの戦闘によって戦死せられた。 山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した。 場所 エンジニアヒル クレヴシー峠 第17海軍方面隊指揮官の命により建立した。 1950年8月」 1953年(昭和28年)7上旬から約三週間にわたり、日本の慰霊団 (団長は元陸軍大佐、首席団員は相良辰雄元海軍大尉)が巡視船に乗船してアッツ島を訪問し、遺骨収集をおこなった。 遺骨収集には在島が協力した。 日本軍守備隊の遺体は帆布製の遺体収容袋におさめられ、数か所に分散して埋葬されていた。 海軍参謀の江本中佐の遺体も洞窟内で発見された。 日本側慰霊団は、アメリカが建てた記念碑の近くに石碑を建立した。 (昭和43年)7月29日、において「アッツ島玉砕雄魂之碑」の除幕式と慰霊祭がおこなわれた。 除幕式には、防衛庁長官や北海道知事をはじめ、桶口(元北方軍司令官)や山崎隊長長男など関係者多数が参列した。 1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が雀ヶ丘 Engineer Hill に建てられた。 アッツ島守備隊。 一 陸軍部隊 北方軍北海守備隊第二地区隊 第二地区隊長陸軍大佐 兵力:歩兵一コ大隊半、山砲一コ中隊 6門 、高射砲8門 12門とも 、計2500名、弾薬08会戦分、糧食は半定量として七月中旬まで。 二 海軍部隊 第五十一根拠地隊派遣隊 基地通信隊および電波探信儀設定班 計約100名。 第五艦隊参謀 航海 江本弘海軍少佐。 1942年(昭和17年)5月5日、大本営指示:アリューシャン作戦 「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ同方面ヨリスル敵ノ機動並ニ航空進攻作戦ヲ困難ナラシム• 1942年(昭和17年)6月23日、大海指第百六号:一 大海指第九十四号別冊第二「アリューシャン」群島作戦ニ関スル陸海軍中央協定中「アダック」ノ攻略確保ヲ取止メ「キスカ」及「アッツ」ハ確保スルコトニ改ム 聯合艦隊司令長官ハ所要ノ兵力ヲ以テ「キスカ」ヲ確保スルト共ニ陸軍ノ「アッツ」守備ニ協力スベシ/二 六月二十五日午前〇時ヲ以テ第五艦隊司令長官ノ陸軍北海支隊ニ対スル作戦ニ関スル指揮ヲ解ク• 十月十八日敵ハ「アムスチッカ」島ヲ占領セルモノノ如シ 之ニ基キ差当リ「アッツ」占領ノ為北千島要塞守備隊ノ一大隊 二中隊欠 ヲ海軍艦艇ニ依リ派遣スル如ク処置ス 敵ノ「アムスチッカ」島占領ノ報ニ対シ山本中佐個人ノ意見 「アムスチッカ」ガ奪回出来ナケレバ根本的ニ此ノ方面ノコトヲ考ヘ直ス必要アルベシ。 伊31号潜水艦の行動。 4月15日幌筵出発、18日アッツ島に到着して山崎大佐上陸、同日発、21日幌筵帰投。 昭和18年 五月一九日 水 半晴 略 午前、御召あり、御下問。 アッツ島方面の天候、我 飛行機 の飛行しあるや否や。 5Fは未だ幌筵にありや、出動せざるや。 敵主力南下せる如しとせば、5Fは霧中奇襲しては如何。 GFの増援部隊は、如何なる状態なりや。 敵巡、夜はアッツ島附近に出没す。 以下略• 昭和18年 五月二〇日 木 雨 当直• 5月21日、陸海軍中央協定 大海指第246号 「熱田島守備部隊ハ好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」「鳴神島守備部隊ハ成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ逐次撤収スルニ努ム 尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」• 昭和18年 五月三〇日 日 半晴 一〇〇〇、参謀総長拝謁。 アッツ島守備隊、前夜夜襲、玉砕奏上。 約二千 海軍約百名、江本参謀〔を含む〕。 一七〇〇、発表さる。 守備隊長、山崎陸軍大佐、沈勇壮烈、皇軍の真価発揮。 近頃、第一線の美談、多くは作戦の欠を補ひつゝある観あり。 米軍のアッツ島進攻時、北方部隊に配備されていた潜水艦一覧。 、、、(5月7日先遣部隊に復帰して北方部隊潜水部隊からのぞかれる)、(4月22日先遣部隊に復帰)、(4月22日先遣部隊に復帰)、。 5月12日、、、を北方部隊に編入。 連合艦隊電令作第563号により、第12潜水隊(伊169、伊171、伊175)とを北方部隊に編入。 昭和18年 五月一六日 日 雨、寒し 戦況。 アッツ陸上、北海湾西浦方面の敵艦隊及敵火器により、相当苦戦。 当方のS-34〔伊号第三四潜水艦〕は爆雷攻撃により損害、一時避退。 第四水雷戦隊麾下の第27駆逐隊(時雨、有明)、第二水雷戦隊・第24駆逐隊(海風)、第十戦隊・第61駆逐隊(初月、涼月)• 昭和18年 五月二二日 土 晴 略 機動部隊及「武蔵」東京湾着• 昭和18年 五月二四日 月 曇、午後雨 略 5F、出撃取止めし理由、中村武官に御下問。 天候、梅雨になりしやの御下問あり。 低気圧は梅雨の如き配置なるも、北方の高気圧発達せず、まだ梅雨にならぬ由、上聞。 昭和18年 五月二八日 金 小雨 戦況。 以下略• 昭和18年 五月二九日 土 曇 一六三〇、軍令部総長拝謁。 出典 [ ]• , pp. 334a-337米軍のアッツ上陸• 158. , p. 131a米軍アッツ島上陸• 243. 238a-239米軍のアッツ島来攻• , pp. 54-56北海に戦雲せまる• 472a付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊31 18. 14アッツ島付近• 303a-307機動部隊の出撃を取りやむ• , pp. 138-139西部アリューシャンの放棄• , pp. 136-138アッツ島増援方策の検討• 279a-289西部アリューシャンの確保を断念す• , pp. 137-138大本営増援中止内定• 290. , pp. 139-140アッツの玉砕とキスカの撤退開始• , pp. 111-112. , pp. 46-47. , pp. 77-79来襲前の米軍の状況• , p. 112a-113西部アリューシャン諸島長期確保の決定とその防衛• , p. 97本空襲の影響• , p. 112b. , p. 330. , pp. , p. 101北東方面要図• , pp. 115-117西部アリューシャンの防衛方針• , pp. , p. , pp. 30-32「 ハ 熱田島攻略作戰」、頁「 昭和17年 六月八日 月 曇」• 109b. , p. , pp. 113a-114長期確保の決定• , p. 110. , pp. 126-127米軍の反攻開始• , pp. 192a-193キスカへの集中• 193. 333. , pp. , pp. 366-367防衛方針の検討• , pp. 367a-368アッツ島の再占領と北海守備隊の編成• 367b-368. , p. 108. , p. 106. , pp. 135-137はじめて見るアッツ島• , pp. 368a-369陸海軍中央協定• 368b-369. , pp. 527a-529北東方面の防衛強化• , pp. 527b-528セミチ島攻略の延期• , pp. 133-135「ついに玉砕したアッツ守備隊」• , p. 143. 236b-237阿武隈年表• , p. , pp. 140-141. , pp. 106-107. , pp. 527c-528. , pp. 528a-529北東方面戦局の悪化• 331. , p. 144. , pp. 126-129「アリューシャンに暗雲」• , p. 120. 528b. 529. 154. , pp. 128-129. , pp. 112-113. , pp. 182a-187防衛態勢の整備と陸海軍中央協定の発令• , p. 187北海守備隊の隷属転移• , p. 184. , p. 185. 247. , pp. 114-117. , pp. 193-195あかがね丸事件• , p. 194. , pp. 195a-197集団輸送方式の採用• , p. 195b. 332. 196. , pp. 21-22. , p. 155. , pp. 186-187 那智写真解説より• 頁「 昭和18年 三月二七日 土 曇」• , pp. 129-132「アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す」• , pp. 197-201現地軍の作戦研究• , p. 130a米軍西部アリューシャン来襲• , p. 237. 244. , p. 157. 306. , p. 152. , pp. 241a-279アッツ島を増強し確保を期す• , pp. 241b-242中央、現地の動静と米軍の上陸• 13-14 昭和18年5月9日記事• , p. 241c. , p. 268. , p. 199. 200. , pp. 147-148. , p. 333. , p. , p. 153. , pp. 185-187. , pp. 187-196. 295. , p. 412. , p. 257. , p. 258. , p. 154. , p. 421. , p. 155. , p. 427 尾形侍従武官日記「現地守備隊長、北方軍司令官共ニ最後ヲ完シ玉砕スヘキ悲壮ナル訓辞ヲ下シアリ 中央統帥ノ欠陥ヲ第一線将兵ノ敢闘ヲ以テ補ヒ第一線ノ犠牲ニ於テ統帥ヲ律シアル実情トナリアリ 甚タ遺憾ナリ」. , p. 440. 441. , p. 259. 118. 20 昭和18年5月29日記事 〔 1420|熱田島守備隊機密書類焼却無線電信機ヲ破壊通信杜絶|北方|残存部隊ヲ集結シ最後ノ夜襲ヲ決行セルモノト認ム「アッツ」ニアリシ海軍人員114 内64軍属 〕• , p. 261. , p. 452. , p. 262. , p. 454. , pp. 263-265. , p. 264. , p. 335. 260. 472b付録第二 日本海軍潜水艦喪失状況一覧表/伊24 18. 11キスカ方面• , p. 159. , pp. 162-166. , pp. 248-252大本營確保の方針を固む• , p. 334b. , pp. 176-177. , p. 251. , p. 253. 254. , p. 267. , p. 266. , p. 268. , pp. 272-279反撃確保作戦は可能なりや• , p. 275. 279b-284アッツ島増援の算立たず• , p. 395. 275頁• , pp. 284-287北海守備隊収容手段の研究• , p. 286. 275-276頁• , p. 291. 239b-242キスカ撤収作戦• 294. 302. 279頁• 146-148戦死の公表と国葬• , pp. 157-159美しく砕ける• 戦争証言アーカイブス. 2017年1月15日閲覧。 , p. , p. 267. , p. 263. , pp. , pp. 132-133航空部隊の進出• , pp. 133-134第十二航空艦隊の編成• , p. 167. , p. 188 那智写真解説より• , p. 188a重巡洋艦『那智』行動年表• , p. 188b那智年表• , p. , pp. 255-258「多摩」「阿武隈」を急ぎ出港させよ• , p. 257. , p. , pp. , pp. 235-238米軍アッツ島来攻前の潜水部隊の概況• 15-16 昭和18年5月11日記事 〔 1sd司令官ハ木曽 白雲 若葉 君川丸ヲ率ヰ幌筵出撃|北方|君川丸デ熱田島ニ観測機ヲ空輸 〕• 60b木曽年表• , p. 161. , pp. 39-40. , p. , pp. 162-164. 16-18 昭和18年5月12日記事• , p. 165. , p. 109a重巡洋艦『摩耶』行動年表• , p. 109b摩耶年表• 238b. 239a. 18-20 昭和18年5月13日記事• 20-22 昭和18年5月14日記事• 22-24 昭和18年5月16日記事• 274頁• , p. 210. 245. , pp. , p. 159. , p. 203. , p. 134. 296. 277頁• , pp. 142-143. , p. 144. , p. 299. , p. 213. , p. , p. 167. , pp. 44-45重巡洋艦『妙高』行動年表• , p. 234a重巡洋艦『羽黒』行動年表• 33-34 昭和18年5月 「別紙第二」• 35-36 昭和18年5月 〔 指揮下 〕• 31-32 機密北方部隊命令作第七號ノ二別紙 〔 一、第二軍隊区分ヲ左ノ通定ム 追加 〕• 277-278頁• , p. 271. , pp. 134-137七五二空のアッツ島作戦協力• , pp. 114-115搭乗員救助と転勤命令• 1 昭和18年5月18日記事 〔 午前|幌筵天候不良flo隊発進出来ズ|北方 24Sf|濃密ナル霧視界200m 石垣 八丈ヲ幌筵熱田間幌筵寄ニ配シ気象観測、 飛行機 警戒、無線誘導ニ任ゼシム 〕• , p. 168. 135-136. 12 昭和18年5月23日記事• 14 昭和18年5月25日記事• , p. 25 昭和18年5月31日記事 〔 前衛部隊 1sd司令官指揮兵力 1Sd長波 木曽、神風、沼風 ハ二十五日幌筵出撃三十日奇襲ノ機会ヲ窺ヒタルモ機ヲ得ズ幌筵帰着 〕• , p. 216五月二十五日 幌筵海峡• , pp. 46-47. , p. 169. , p. 301. 279頁• 279頁• , p. 170. 306. , p. 126. , p. 272. , p. 338. 305. , p. 348. , pp. 552-553. , pp. 170-173聯合艦隊等の作戦研究• , p. 173. , p. 553. , pp. 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太平洋戦争の名将|木村昌福

キスカ 島 撤退 作戦

<出典:> 木村昌福 きむらまさとみ (1891年~1960年) 1891年。 木村昌福は鳥取県で誕生。 海軍兵学校に通いますが、成績は振るわず。 卒業後は、水雷艇艦長としてキャリアを積んでいきます。 1941年。 太平洋戦争が勃発すると、翌年。 少将に昇進。 1945年には中将に昇進し、戦後は部下たちと製塩業を営み平穏な生活を送りました。 コロンボ攻略作戦 木村昌福は人命を尊ぶ優しい人柄で、極力戦闘を避けました。 イギリス領セイロン島のコロンボ攻略作戦にて。 敵の輸送船団6隻を発見。 部下は直ちに砲撃態勢に入ります。 すると、 「撃っちゃあ、いかんぞ!!!!」 突如、木村の大声が響き渡ります。 砲撃手は一瞬あっけにとられます。 すぐさま木村は双眼鏡で輸送船の様子を観察。 敵がボートに乗り移り船から十分に離れたことを確認してから、砲撃命令を出しました。 キスカ島撤退作戦 日本の敗戦が続く中。 日本は北アメリカ大陸のアラスカ半島近くにあるキスカ島に攻め込みます。 ここの土地は一年中ほとんど凍っており、夏は濃霧が発生。 船舶の航行にも支障をきたす海域でした。 なので、アメリカは「手に入れても無意味である」として、作戦の対象外となっていました。 キスカ島にアメリカ軍がいないことに目をつけた日本。 アリューシャン列島に進み日の丸を立てます。 「アリューシャン列島猛攻」 「北方侵略線、ついに崩れる」 新聞の報道が敗戦続きの日本の士気を高めます。 当然アメリカは、これを黙って見過ごしません。 1万1千の兵士が進撃し、アッツ島が奪われます。 続いて、キスカ島が狙われることとなります。 日本はすぐさま キスカ島撤退作戦を実行。 5200名をキスカ島から潜水艦で救出しようとしますが、アメリカ軍の返り討ちに会います。 そこで、 木村昌福が招集され、撤退作戦の指揮を取ることになります。 木村の作戦は、「濃霧に乗じて駆逐艦をキスカ湾に高速で突入させ、守備隊全員を救出したうえで速やかに脱出すること」。 作戦が成功するかどうかは、霧の存在にかかっていました。 最初の突入予定は7月10日。 しかし、濃霧があまり発生していなかったため延期。 続いて13日に出撃。 このときはアメリカ艦隊の警戒が厳しかったため延期。 手ぶらで帰国した木村には、罵声が浴びせられます。 しかし、木村は「生きて帰れば、また救出にいける」と考え、じっくりチャンスを待ちます。 1943年7月29日。 キスカ島への突入が決行されます。 電報で連絡を聞いたキスカ島の守備兵たちは、キスカ湾へ整列。 救助を待っていると、日本海軍の艦船が姿を現します。 ここで、木村は守備兵に「携行銃器はすべて海中へ投棄して欲しい」と要請。 陸軍からは「陛下からいただいた銃を捨てられない」と反発を受けます。 しかし、木村はそれを頑なに拒みます。 湾内での滞在時間を1時間以内に抑えるため、人命のみの救出を選んだのです。 作戦は見事に成功。 アメリカ軍に気づかれることなく、5183名がキスカ島から脱出します。 それから2週間後。 アメリカは3万4千の兵を送り、キスカ島攻略作戦を実行します。 日本兵がまだ残っていると考えていたアメリカ軍は、上陸すると同士討ちを開始。 100名以上の死者を出してしまいます。 さらに、日本軍の軍医が書いた「ペスト患者収容所」の文字を見つけ、パニックに。 本国に大量のワクチンを発注してしまいます。 味方を全員救出し、敵に大きな被害を出したキスカ島撤退作戦。 のちにアメリカ軍は 「パーフェクトゲーム」と称賛しました。

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