ひとり ぼっ ちの 羊 飼い 歌詞。 ペギー葉山 ひとりぼっちの羊飼い 歌詞

夏目漱石 こころ

ひとり ぼっ ちの 羊 飼い 歌詞

私 ( わたくし )はその人を常に先生と呼んでいた。 だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。 これは世間を 憚 ( はば )かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。 私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。 筆を 執 ( と )っても心持は同じ事である。 よそよそしい 頭文字 ( かしらもじ )などはとても使う気にならない。 私が先生と知り合いになったのは 鎌倉 ( かまくら )である。 その時私はまだ若々しい書生であった。 暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという 端書 ( はがき )を受け取ったので、私は多少の金を 工面 ( くめん )して、出掛ける事にした。 私は金の工面に 二 ( に )、 三日 ( さんち )を費やした。 ところが私が鎌倉に着いて三日と 経 ( た )たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。 電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。 友達はかねてから国元にいる親たちに 勧 ( すす )まない結婚を 強 ( し )いられていた。 彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。 それに 肝心 ( かんじん )の当人が気に入らなかった。 それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。 彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。 私にはどうしていいか分らなかった。 けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は 固 ( もと )より帰るべきはずであった。 それで彼はとうとう帰る事になった。 せっかく来た私は一人取り残された。 学校の授業が始まるにはまだ 大分 ( だいぶ ) 日数 ( ひかず )があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に 留 ( と )まる覚悟をした。 友達は中国のある資産家の 息子 ( むすこ )で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。 したがって 一人 ( ひとり )ぼっちになった私は別に 恰好 ( かっこう )な宿を探す面倒ももたなかったのである。 宿は鎌倉でも 辺鄙 ( へんぴ )な方角にあった。 玉突 ( たまつ )きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い 畷 ( なわて )を一つ越さなければ手が届かなかった。 車で行っても二十銭は取られた。 けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。 それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。 私は毎日海へはいりに出掛けた。 古い 燻 ( くす )ぶり返った 藁葺 ( わらぶき )の 間 ( あいだ )を通り抜けて 磯 ( いそ )へ下りると、この 辺 ( へん )にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。 ある時は海の中が 銭湯 ( せんとう )のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。 その中に知った人を一人ももたない私も、こういう 賑 ( にぎ )やかな景色の中に 裹 ( つつ )まれて、砂の上に 寝 ( ね )そべってみたり、 膝頭 ( ひざがしら )を波に打たしてそこいらを 跳 ( は )ね 廻 ( まわ )るのは愉快であった。 私は実に先生をこの 雑沓 ( ざっとう )の 間 ( あいだ )に見付け出したのである。 その時海岸には 掛茶屋 ( かけぢゃや )が二軒あった。 私はふとした 機会 ( はずみ )からその一軒の方に行き 慣 ( な )れていた。 長谷辺 ( はせへん )に大きな別荘を構えている人と違って、 各自 ( めいめい )に専有の 着換場 ( きがえば )を 拵 ( こしら )えていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった 風 ( ふう )なものが必要なのであった。 彼らはここで茶を飲み、ここで休息する 外 ( ほか )に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで 鹹 ( しお )はゆい 身体 ( からだ )を清めたり、ここへ帽子や 傘 ( かさ )を預けたりするのである。 海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ 一切 ( いっさい )を 脱 ( ぬ )ぎ 棄 ( す )てる事にしていた。 私 ( わたくし )がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海へ入ろうとするところであった。 私はその時反対に 濡 ( ぬ )れた 身体 ( からだ )を風に吹かして水から上がって来た。 二人の 間 ( あいだ )には目を 遮 ( さえぎ )る幾多の黒い頭が動いていた。 特別の事情のない限り、私はついに先生を見逃したかも知れなかった。 それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が 放漫 ( ほうまん )であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人を 伴 ( つ )れていたからである。 その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや 否 ( いな )や、すぐ私の注意を 惹 ( ひ )いた。 純粋の日本の 浴衣 ( ゆかた )を着ていた彼は、それを 床几 ( しょうぎ )の上にすぽりと 放 ( ほう )り出したまま、腕組みをして海の方を向いて立っていた。 彼は我々の 穿 ( は )く 猿股 ( さるまた )一つの 外 ( ほか )何物も肌に着けていなかった。 私にはそれが第一不思議だった。 私はその二日前に 由井 ( ゆい )が 浜 ( はま )まで行って、砂の上にしゃがみながら、長い間西洋人の海へ入る様子を 眺 ( なが )めていた。 私の 尻 ( しり )をおろした所は少し小高い丘の上で、そのすぐ 傍 ( わき )がホテルの裏口になっていたので、私の 凝 ( じっ )としている 間 ( あいだ )に、 大分 ( だいぶ )多くの男が塩を浴びに出て来たが、いずれも胴と腕と 股 ( もも )は出していなかった。 女は 殊更 ( ことさら )肉を隠しがちであった。 大抵は頭に 護謨製 ( ゴムせい )の 頭巾 ( ずきん )を 被 ( かぶ )って、 海老茶 ( えびちゃ )や 紺 ( こん )や 藍 ( あい )の色を波間に浮かしていた。 そういう有様を目撃したばかりの私の 眼 ( め )には、猿股一つで済まして 皆 ( みん )なの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。 彼はやがて自分の 傍 ( わき )を顧みて、そこにこごんでいる日本人に、 一言 ( ひとこと ) 二言 ( ふたこと ) 何 ( なに )かいった。 その日本人は砂の上に落ちた 手拭 ( てぬぐい )を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。 その人がすなわち先生であった。 私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の 後姿 ( うしろすがた )を見守っていた。 すると彼らは 真直 ( まっすぐ )に波の中に足を踏み込んだ。 そうして 遠浅 ( とおあさ )の 磯近 ( いそちか )くにわいわい騒いでいる 多人数 ( たにんず )の 間 ( あいだ )を通り抜けて、比較的広々した所へ来ると、二人とも泳ぎ出した。 彼らの頭が小さく見えるまで沖の方へ向いて行った。 それから引き返してまた一直線に浜辺まで戻って来た。 掛茶屋へ帰ると、井戸の水も浴びずに、すぐ 身体 ( からだ )を 拭 ( ふ )いて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。 彼らの出て行った 後 ( あと )、私はやはり元の 床几 ( しょうぎ )に腰をおろして 烟草 ( タバコ )を吹かしていた。 その時私はぽかんとしながら先生の事を考えた。 どうもどこかで見た事のある顔のように思われてならなかった。 しかしどうしてもいつどこで会った人か 想 ( おも )い出せずにしまった。 その時の私は 屈托 ( くったく )がないというよりむしろ 無聊 ( ぶりょう )に苦しんでいた。 それで 翌日 ( あくるひ )もまた先生に会った時刻を見計らって、わざわざ 掛茶屋 ( かけぢゃや )まで出かけてみた。 すると西洋人は来ないで先生一人 麦藁帽 ( むぎわらぼう )を 被 ( かぶ )ってやって来た。 先生は 眼鏡 ( めがね )をとって台の上に置いて、すぐ 手拭 ( てぬぐい )で頭を包んで、すたすた浜を下りて行った。 先生が 昨日 ( きのう )のように騒がしい 浴客 ( よくかく )の中を通り抜けて、一人で泳ぎ出した時、私は急にその 後 ( あと )が追い掛けたくなった。 私は浅い水を頭の上まで 跳 ( はね )かして相当の深さの所まで来て、そこから先生を 目標 ( めじるし )に 抜手 ( ぬきで )を切った。 すると先生は昨日と違って、一種の 弧線 ( こせん )を 描 ( えが )いて、妙な方向から岸の方へ帰り始めた。 それで私の目的はついに達せられなかった。 私が 陸 ( おか )へ上がって 雫 ( しずく )の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。 私 ( わたくし )は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。 その次の日にもまた同じ事を繰り返した。 けれども物をいい掛ける機会も、 挨拶 ( あいさつ )をする場合も、二人の間には起らなかった。 その上先生の態度はむしろ非社交的であった。 一定の時刻に超然として来て、また超然と帰って行った。 周囲がいくら 賑 ( にぎ )やかでも、それにはほとんど注意を払う様子が見えなかった。 最初いっしょに来た西洋人はその 後 ( ご )まるで姿を見せなかった。 先生はいつでも一人であった。 或 ( あ )る時先生が例の通りさっさと海から上がって来て、いつもの場所に 脱 ( ぬ )ぎ 棄 ( す )てた 浴衣 ( ゆかた )を着ようとすると、どうした訳か、その浴衣に砂がいっぱい着いていた。 先生はそれを落すために、後ろ向きになって、浴衣を二、三度 振 ( ふる )った。 すると着物の下に置いてあった眼鏡が板の 隙間 ( すきま )から下へ落ちた。 先生は 白絣 ( しろがすり )の上へ 兵児帯 ( へこおび )を締めてから、眼鏡の 失 ( な )くなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。 私はすぐ 腰掛 ( こしかけ )の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。 先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。 次の日私は先生の 後 ( あと )につづいて海へ飛び込んだ。 そうして先生といっしょの方角に泳いで行った。 二 丁 ( ちょう )ほど沖へ出ると、先生は後ろを振り返って私に話し掛けた。 広い 蒼 ( あお )い海の表面に浮いているものは、その近所に私ら二人より 外 ( ほか )になかった。 そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山とを照らしていた。 私は自由と歓喜に 充 ( み )ちた筋肉を動かして海の中で 躍 ( おど )り狂った。 先生はまたぱたりと手足の運動を 已 ( や )めて仰向けになったまま 浪 ( なみ )の上に寝た。 私もその 真似 ( まね )をした。 青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。 「愉快ですね」と私は大きな声を出した。 しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。 比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。 しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。 そうして二人でまた元の 路 ( みち )を浜辺へ引き返した。 私はこれから先生と懇意になった。 しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。 それから 中 ( なか )二日おいてちょうど三日目の午後だったと思う。 先生と 掛茶屋 ( かけぢゃや )で出会った時、先生は突然私に向かって、「君はまだ 大分 ( だいぶ )長くここにいるつもりですか」と聞いた。 考えのない私はこういう問いに答えるだけの用意を頭の中に蓄えていなかった。 それで「どうだか分りません」と答えた。 しかしにやにや笑っている先生の顔を見た時、私は急に 極 ( きま )りが悪くなった。 「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。 これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。 私はその晩先生の宿を尋ねた。 宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の 境内 ( けいだい )にある別荘のような建物であった。 そこに住んでいる人の先生の家族でない事も 解 ( わか )った。 私が先生先生と呼び掛けるので、先生は苦笑いをした。 私はそれが年長者に対する私の 口癖 ( くちくせ )だといって弁解した。 私はこの間の西洋人の事を聞いてみた。 先生は彼の風変りのところや、もう 鎌倉 ( かまくら )にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり 交際 ( つきあい )をもたないのに、そういう外国人と 近付 ( ちかづ )きになったのは不思議だといったりした。 私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。 若い私はその時 暗 ( あん )に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。 そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。 ところが先生はしばらく 沈吟 ( ちんぎん )したあとで、「どうも君の顔には 見覚 ( みおぼ )えがありませんね。 人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。 私 ( わたくし )は月の末に東京へ帰った。 先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった。 私は先生と別れる時に、「これから折々お 宅 ( たく )へ伺っても 宜 ( よ )ござんすか」と聞いた。 先生は 単簡 ( たんかん )にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。 その時分の私は先生とよほど懇意になったつもりでいたので、先生からもう少し 濃 ( こまや )かな言葉を予期して 掛 ( かか )ったのである。 それでこの物足りない返事が少し私の自信を 傷 ( いた )めた。 私はこういう事でよく先生から失望させられた。 先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。 私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。 むしろそれとは反対で、不安に 揺 ( うご )かされるたびに、もっと前へ進みたくなった。 もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。 私は若かった。 けれどもすべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。 私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか 解 ( わか )らなかった。 それが先生の亡くなった 今日 ( こんにち )になって、始めて解って来た。 先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。 先生が私に示した時々の 素気 ( そっけ )ない 挨拶 ( あいさつ )や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。 傷 ( いた )ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから 止 ( よ )せという警告を与えたのである。 他 ( ひと )の懐かしみに応じない先生は、 他 ( ひと )を 軽蔑 ( けいべつ )する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。 私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。 帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の 日数 ( ひかず )があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。 しかし帰って二日三日と 経 ( た )つうちに、 鎌倉 ( かまくら )にいた時の気分が段々薄くなって来た。 そうしてその上に 彩 ( いろど )られる大都会の空気が、記憶の復活に伴う強い 刺戟 ( しげき )と共に、濃く私の心を染め付けた。 私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。 私はしばらく先生の事を忘れた。 授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の 弛 ( たる )みができてきた。 私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。 物欲しそうに自分の 室 ( へや )の中を 見廻 ( みまわ )した。 私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。 私はまた先生に会いたくなった。 始めて先生の 宅 ( うち )を訪ねた時、先生は留守であった。 二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。 晴れた空が身に 沁 ( し )み込むように感ぜられる 好 ( い )い 日和 ( ひより )であった。 その日も先生は留守であった。 鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも 大抵 ( たいてい )宅にいるという事を聞いた。 むしろ外出嫌いだという事も聞いた。 二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思い出して、 理由 ( わけ )もない不満をどこかに感じた。 私はすぐ玄関先を去らなかった。 下女 ( げじょ )の顔を見て少し 躊躇 ( ちゅうちょ )してそこに立っていた。 この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまた 内 ( うち )へはいった。 すると奥さんらしい人が代って出て来た。 美しい奥さんであった。 私はその人から 鄭寧 ( ていねい )に先生の出先を教えられた。 先生は例月その日になると 雑司ヶ谷 ( ぞうしがや )の墓地にある 或 ( あ )る仏へ花を 手向 ( たむ )けに行く習慣なのだそうである。 「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。 私は 会釈 ( えしゃく )して外へ出た。 賑 ( にぎや )かな町の方へ一 丁 ( ちょう )ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。 先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。 それですぐ 踵 ( きびす )を 回 ( めぐ )らした。 私 ( わたくし )は墓地の手前にある 苗畠 ( なえばたけ )の左側からはいって、両方に 楓 ( かえで )を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。 するとその 端 ( はず )れに見える 茶店 ( ちゃみせ )の中から先生らしい人がふいと出て来た。 私はその人の 眼鏡 ( めがね )の 縁 ( ふち )が日に光るまで近く寄って行った。 そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。 先生は突然立ち留まって私の顔を見た。 「どうして……、どうして……」 先生は同じ言葉を二 遍 ( へん )繰り返した。 その言葉は 森閑 ( しんかん )とした昼の 中 ( うち )に異様な調子をもって繰り返された。 私は急に何とも 応 ( こた )えられなくなった。 「私の 後 ( あと )を 跟 ( つ )けて来たのですか。 どうして……」 先生の態度はむしろ落ち付いていた。 声はむしろ沈んでいた。 けれどもその表情の 中 ( うち )には 判然 ( はっきり )いえないような一種の曇りがあった。 私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。 「 誰 ( だれ )の墓へ参りに行ったか、 妻 ( さい )がその人の名をいいましたか」 「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」 「そうですか。 いう必要がないんだから」 先生はようやく 得心 ( とくしん )したらしい様子であった。 しかし私にはその意味がまるで 解 ( わか )らなかった。 先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。 依撒伯拉何々 ( イサベラなになに )の墓だの、 神僕 ( しんぼく )ロギンの墓だのという 傍 ( かたわら )に、 一切衆生悉有仏生 ( いっさいしゅじょうしつうぶっしょう )と書いた 塔婆 ( とうば )などが建ててあった。 全権公使何々というのもあった。 私は安得烈と 彫 ( ほ )り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。 「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。 先生はこれらの墓標が現わす 人種々 ( ひとさまざま )の様式に対して、私ほどに 滑稽 ( こっけい )もアイロニーも認めてないらしかった。 私が丸い 墓石 ( はかいし )だの細長い 御影 ( みかげ )の 碑 ( ひ )だのを指して、しきりにかれこれいいたがるのを、始めのうちは黙って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ 真面目 ( まじめ )に考えた事がありませんね」といった。 私は黙った。 先生もそれぎり何ともいわなくなった。 墓地の区切り目に、大きな 銀杏 ( いちょう )が一本空を隠すように立っていた。 その下へ来た時、先生は高い 梢 ( こずえ )を見上げて、「もう少しすると、 綺麗 ( きれい )ですよ。 この木がすっかり 黄葉 ( こうよう )して、ここいらの地面は 金色 ( きんいろ )の落葉で 埋 ( うず )まるようになります」といった。 先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。 向うの方で 凸凹 ( でこぼこ )の地面をならして新墓地を作っている男が、 鍬 ( くわ )の手を休めて私たちを見ていた。 私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。 これからどこへ行くという 目的 ( あて )のない私は、ただ先生の歩く方へ歩いて行った。 先生はいつもより口数を 利 ( き )かなかった。 それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。 「すぐお 宅 ( たく )へお帰りですか」 「ええ別に寄る所もありませんから」 二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。 「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。 「いいえ」 「どなたのお墓があるんですか。 私もその話はそれぎりにして切り上げた。 すると一 町 ( ちょう )ほど歩いた 後 ( あと )で、先生が不意にそこへ戻って来た。 「あすこには私の友達の墓があるんです」 「お友達のお墓へ 毎月 ( まいげつ )お参りをなさるんですか」 「そうです」 先生はその日これ以外を語らなかった。 私はそれから時々先生を訪問するようになった。 行くたびに先生は在宅であった。 先生に会う 度数 ( どすう )が重なるにつれて、私はますます 繁 ( しげ )く先生の玄関へ足を運んだ。 けれども先生の私に対する態度は初めて 挨拶 ( あいさつ )をした時も、懇意になったその 後 ( のち )も、あまり変りはなかった。 先生は 何時 ( いつ )も静かであった。 ある時は静か過ぎて 淋 ( さび )しいくらいであった。 私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。 それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。 こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。 しかしその私だけにはこの直感が 後 ( のち )になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、 馬鹿 ( ばか )げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた 嬉 ( うれ )しく思っている。 今いった通り先生は始終静かであった。 落ち付いていた。 けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。 窓に黒い鳥影が 射 ( さ )すように。 射すかと思うと、すぐ消えるには消えたが。 私が始めてその曇りを先生の 眉間 ( みけん )に認めたのは、 雑司ヶ谷 ( ぞうしがや )の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。 私はその異様の瞬間に、今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。 しかしそれは単に一時の 結滞 ( けったい )に過ぎなかった。 私の心は五分と 経 ( た )たないうちに平素の弾力を回復した。 私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。 ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、 小春 ( こはる )の尽きるに 間 ( ま )のない 或 ( あ )る晩の事であった。 先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた 銀杏 ( いちょう )の 大樹 ( たいじゅ )を 眼 ( め )の前に 想 ( おも )い浮かべた。 勘定してみると、先生が 毎月例 ( まいげつれい )として墓参に行く日が、それからちょうど三日目に当っていた。 その三日目は私の課業が 午 ( ひる )で 終 ( お )える楽な日であった。 私は先生に向かってこういった。 「先生 雑司ヶ谷 ( ぞうしがや )の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」 「まだ 空坊主 ( からぼうず )にはならないでしょう」 先生はそう答えながら私の顔を見守った。 そうしてそこからしばし眼を離さなかった。 私はすぐいった。 「今度お 墓参 ( はかまい )りにいらっしゃる時にお 伴 ( とも )をしても 宜 ( よ )ござんすか。 私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」 「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」 「しかしついでに散歩をなすったらちょうど 好 ( い )いじゃありませんか」 先生は何とも答えなかった。 しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも 墓参 ( ぼさん )と散歩を切り離そうとする 風 ( ふう )に見えた。 私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。 私はなおと先へ出る気になった。 「じゃお墓参りでも 好 ( い )いからいっしょに 伴 ( つ )れて行って下さい。 私もお墓参りをしますから」 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。 すると先生の 眉 ( まゆ )がちょっと曇った。 眼のうちにも異様の光が出た。 それは迷惑とも 嫌悪 ( けんお )とも 畏怖 ( いふ )とも片付けられない 微 ( かす )かな不安らしいものであった。 私は 忽 ( たちま )ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。 二つの表情は全く同じだったのである。 「私は」と先生がいった。 「私はあなたに話す事のできないある理由があって、 他 ( ひと )といっしょにあすこへ墓参りには行きたくないのです。 自分の 妻 ( さい )さえまだ伴れて行った事がないのです」 私 ( わたくし )は不思議に思った。 しかし私は先生を研究する気でその 宅 ( うち )へ 出入 ( でい )りをするのではなかった。 私はただそのままにして打ち過ぎた。 今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ 尊 ( たっと )むべきものの一つであった。 私は全くそのために先生と人間らしい温かい 交際 ( つきあい )ができたのだと思う。 もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を 繋 ( つな )ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。 若い私は全く自分の態度を自覚していなかった。 それだから 尊 ( たっと )いのかも知れないが、もし間違えて裏へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲に落ちて来たろう。 私は想像してもぞっとする。 先生はそれでなくても、冷たい 眼 ( まなこ )で研究されるのを絶えず恐れていたのである。 私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の 宅 ( うち )へ行くようになった。 私の足が段々 繁 ( しげ )くなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。 「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」 「何でといって、そんな特別な意味はありません。 私は先生の交際の範囲の 極 ( きわ )めて狭い事を知っていた。 先生の元の同級生などで、その 頃 ( ころ )東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた。 先生と同郷の学生などには時たま座敷で同座する場合もあったが、彼らのいずれもは 皆 ( みん )な私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。 「私は 淋 ( さび )しい人間です」と先生がいった。 「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。 だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」 「そりゃまたなぜです」 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。 ただ私の顔を見て「あなたは 幾歳 ( いくつ )ですか」といった。 この問答は私にとってすこぶる 不得要領 ( ふとくようりょう )のものであったが、私はその時 底 ( そこ )まで押さずに帰ってしまった。 しかもそれから四日と 経 ( た )たないうちにまた先生を訪問した。 先生は座敷へ出るや 否 ( いな )や笑い出した。 「また来ましたね」といった。 「ええ来ました」といって自分も笑った。 私は 外 ( ほか )の人からこういわれたらきっと 癪 ( しゃく )に 触 ( さわ )ったろうと思う。 しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。 癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。 「私は 淋 ( さび )しい人間です」と先生はその晩またこの間の言葉を繰り返した。 「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。 私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうは行かないのでしょう。 動けるだけ動きたいのでしょう。 動いて何かに 打 ( ぶ )つかりたいのでしょう……」 「私はちっとも 淋 ( さむ )しくはありません」 「若いうちほど 淋 ( さむ )しいものはありません。 そんならなぜあなたはそうたびたび私の 宅 ( うち )へ来るのですか」 ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。 「あなたは私に会ってもおそらくまだ 淋 ( さび )しい気がどこかでしているでしょう。 私にはあなたのためにその淋しさを 根元 ( ねもと )から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。 あなたは 外 ( ほか )の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。 今に私の宅の方へは足が向かなくなります」 先生はこういって淋しい笑い方をした。 幸 ( さいわ )いにして先生の予言は実現されずに済んだ。 経験のない当時の 私 ( わたくし )は、この予言の 中 ( うち )に含まれている明白な意義さえ了解し得なかった。 私は依然として先生に会いに行った。 その 内 ( うち )いつの間にか先生の食卓で 飯 ( めし )を食うようになった。 自然の結果奥さんとも口を 利 ( き )かなければならないようになった。 普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。 けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。 それが 源因 ( げんいん )かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。 先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。 それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。 しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。 これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。 しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。 奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。 だから中間に立つ先生を取り 除 ( の )ければ、つまり二人はばらばらになっていた。 それで始めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという 外 ( ほか )に何の感じも残っていない。 ある時私は先生の 宅 ( うち )で酒を飲まされた。 その時奥さんが出て来て 傍 ( そば )で 酌 ( しゃく )をしてくれた。 先生はいつもより愉快そうに見えた。 奥さんに「お前も一つお上がり」といって、自分の 呑 ( の )み干した 盃 ( さかずき )を差した。 奥さんは「私は……」と辞退しかけた 後 ( あと )、迷惑そうにそれを受け取った。 奥さんは 綺麗 ( きれい )な 眉 ( まゆ )を寄せて、私の半分ばかり 注 ( つ )いで上げた盃を、唇の先へ持って行った。 奥さんと先生の間に 下 ( しも )のような会話が始まった。 「珍らしい事。 私に呑めとおっしゃった事は 滅多 ( めった )にないのにね」 「お前は 嫌 ( きら )いだからさ。 しかし 稀 ( たま )には飲むといいよ。 好 ( い )い心持になるよ」 「ちっともならないわ。 苦しいぎりで。 でもあなたは大変ご 愉快 ( ゆかい )そうね、少しご 酒 ( しゅ )を召し上がると」 「時によると大変愉快になる。 しかしいつでもというわけにはいかない」 「今夜はいかがです」 「今夜は 好 ( い )い心持だね」 「これから毎晩少しずつ召し上がると 宜 ( よ )ござんすよ」 「そうはいかない」 「召し上がって下さいよ。 その方が 淋 ( さむ )しくなくって好いから」 先生の 宅 ( うち )は夫婦と 下女 ( げじょ )だけであった。 行くたびに 大抵 ( たいてい )はひそりとしていた。 高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。 或 ( あ )る 時 ( とき )は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。 「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。 私は「そうですな」と答えた。 しかし私の心には何の同情も起らなかった。 子供を持った事のないその時の私は、子供をただ 蒼蠅 ( うるさ )いもののように考えていた。 「一人 貰 ( もら )ってやろうか」と先生がいった。 「 貰 ( もらい )ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。 「子供はいつまで 経 ( た )ったってできっこないよ」と先生がいった。 奥さんは黙っていた。 「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。 私 ( わたくし )の知る限り先生と奥さんとは、仲の 好 ( い )い夫婦の 一対 ( いっつい )であった。 家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論 解 ( わか )らなかったけれども、座敷で私と 対坐 ( たいざ )している時、先生は何かのついでに、 下女 ( げじょ )を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。 (奥さんの名は 静 ( しず )といった)。 先生は「おい静」といつでも 襖 ( ふすま )の方を振り向いた。 その呼びかたが私には 優 ( やさ )しく聞こえた。 返事をして出て来る奥さんの様子も 甚 ( はなは )だ素直であった。 ときたまご 馳走 ( ちそう )になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の 間 ( あいだ )に 描 ( えが )き出されるようであった。 先生は時々奥さんを 伴 ( つ )れて、音楽会だの芝居だのに行った。 それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二、三度以上あった。 私は 箱根 ( はこね )から貰った 絵端書 ( えはがき )をまだ持っている。 日光 ( にっこう )へ行った時は 紅葉 ( もみじ )の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。 当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。 そのうちにたった一つの例外があった。 ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。 よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも 言逆 ( いさか )いらしかった。 先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、 格子 ( こうし )の前に立っていた私の耳にその 言逆 ( いさか )いの調子だけはほぼ分った。 そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。 相手は先生よりも低い 音 ( おん )なので、誰だか 判然 ( はっきり )しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。 泣いているようでもあった。 私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。 妙に不安な心持が私を襲って来た。 私は書物を読んでも 呑 ( の )み込む能力を失ってしまった。 約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。 私は驚いて窓を開けた。 先生は散歩しようといって、下から私を誘った。 先刻 ( さっき )帯の間へ 包 ( くる )んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。 私は帰ったなりまだ 袴 ( はかま )を着けていた。 私はそれなりすぐ表へ出た。 その晩私は先生といっしょに 麦酒 ( ビール )を飲んだ。 先生は元来酒量に乏しい人であった。 ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。 「今日は 駄目 ( だめ )です」といって先生は苦笑した。 「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。 私の腹の中には始終 先刻 ( さっき )の事が 引 ( ひ )っ 懸 ( かか )っていた。 肴 ( さかな )の骨が 咽喉 ( のど )に刺さった時のように、私は苦しんだ。 打ち明けてみようかと考えたり、 止 ( よ )した方が 好 ( よ )かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。 「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。 「実は私も少し変なのですよ。 君に分りますか」 私は何の答えもし得なかった。 「実は 先刻 ( さっき ) 妻 ( さい )と少し 喧嘩 ( けんか )をしてね。 それで 下 ( くだ )らない神経を 昂奮 ( こうふん )させてしまったんです」と先生がまたいった。 「どうして……」 私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。 「妻が私を誤解するのです。 それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。 つい腹を立てたのです」 「どんなに先生を誤解なさるんですか」 先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。 「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」 先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。 二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一 丁 ( ちょう )も二丁もつづいた。 その 後 ( あと )で突然先生が口を 利 ( き )き出した。 「悪い事をした。 怒って出たから 妻 ( さい )はさぞ心配をしているだろう。 考えると女は 可哀 ( かわい )そうなものですね。 私 ( わたくし )の妻などは私より 外 ( ほか )にまるで頼りにするものがないんだから」 先生の言葉はちょっとそこで 途切 ( とぎ )れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。 「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し 滑稽 ( こっけい )だが。 君、私は君の眼にどう映りますかね。 強い人に見えますか、弱い人に見えますか」 「 中位 ( ちゅうぐらい )に見えます」と私は答えた。 この答えは先生にとって少し案外らしかった。 先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。 先生の 宅 ( うち )へ帰るには私の下宿のつい 傍 ( そば )を通るのが順路であった。 私はそこまで来て、曲り角で分れるのが先生に済まないような気がした。 「ついでにお 宅 ( たく )の前までお 伴 ( とも )しましょうか」といった。 先生は 忽 ( たちま )ち手で私を 遮 ( さえぎ )った。 「もう遅いから早く帰りたまえ。 私も早く帰ってやるんだから、 妻君 ( さいくん )のために」 先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。 私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。 私はその 後 ( ご )も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。 先生と奥さんの間に起った 波瀾 ( はらん )が、大したものでない事はこれでも 解 ( わか )った。 それがまた 滅多 ( めった )に起る現象でなかった事も、その後絶えず 出入 ( でい )りをして来た私にはほぼ推察ができた。 それどころか先生はある時こんな感想すら私に 洩 ( も )らした。 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。 妻 ( さい )以外の女はほとんど女として私に訴えないのです。 妻の方でも、私を天下にただ一人しかない男と思ってくれています。 そういう意味からいって、私たちは最も幸福に生れた人間の 一対 ( いっつい )であるべきはずです」 私は今前後の 行 ( ゆ )き 掛 ( がか )りを忘れてしまったから、先生が何のためにこんな自白を私にして聞かせたのか、 判然 ( はっきり )いう事ができない。 けれども先生の態度の 真面目 ( まじめ )であったのと、調子の沈んでいたのとは、いまだに記憶に残っている。 その時ただ私の耳に異様に響いたのは、「最も幸福に生れた人間の一対であるべきはずです」という最後の一句であった。 先生はなぜ幸福な人間といい切らないで、あるべきはずであると断わったのか。 私にはそれだけが不審であった。 ことにそこへ一種の力を入れた先生の語気が不審であった。 先生は事実はたして幸福なのだろうか、また幸福であるべきはずでありながら、それほど幸福でないのだろうか。 私は心の 中 ( うち )で 疑 ( うたぐ )らざるを得なかった。 けれどもその疑いは一時限りどこかへ 葬 ( ほうむ )られてしまった。 私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人 差向 ( さしむか )いで話をする機会に出合った。 先生はその日 横浜 ( よこはま )を 出帆 ( しゅっぱん )する汽船に乗って外国へ行くべき友人を 新橋 ( しんばし )へ送りに行って留守であった。 横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその 頃 ( ころ )の習慣であった。 私はある書物について先生に話してもらう必要があったので、あらかじめ先生の承諾を得た通り、約束の九時に訪問した。 先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する 礼義 ( れいぎ )としてその日突然起った出来事であった。 先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。 それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。 その時の 私 ( わたくし )はすでに大学生であった。 始めて先生の 宅 ( うち )へ来た 頃 ( ころ )から見るとずっと成人した気でいた。 奥さんとも 大分 ( だいぶ )懇意になった 後 ( のち )であった。 私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。 差向 ( さしむか )いで色々の話をした。 しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。 そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。 しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。 先生は大学出身であった。 これは始めから私に知れていた。 しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し 経 ( た )ってから始めて分った。 私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。 先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。 だから先生の学問や思想については、先生と 密切 ( みっせつ )の関係をもっている私より 外 ( ほか )に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。 それを私は常に 惜 ( お )しい事だといった。 先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を 利 ( き )いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。 私にはその答えが 謙遜 ( けんそん )過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。 実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている 誰彼 ( だれかれ )を 捉 ( とら )えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。 それで私は露骨にその矛盾を挙げて 云々 ( うんぬん )してみた。 私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。 その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。 先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。 私にはそれが失望だか、不平だか、悲哀だか、 解 ( わか )らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。 私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。 「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」 「あの人は 駄目 ( だめ )ですよ。 やっぱり何かやりたいのでしょう。 それでいてできないんです。 だから気の毒ですわ」 「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」 「丈夫ですとも。 何にも持病はありません」 「それでなぜ活動ができないんでしょう」 「それが 解 ( わか )らないのよ、あなた。 それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。 わからないから気の毒でたまらないんです」 奥さんの語気には非常に同情があった。 それでも口元だけには微笑が見えた。 外側からいえば、私の方がむしろ 真面目 ( まじめ )だった。 私はむずかしい顔をして黙っていた。 すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。 「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。 若い時はまるで違っていました。 それが全く変ってしまったんです」 「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。 「書生時代よ」 「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」 奥さんは急に薄赤い顔をした。 奥さんは東京の人であった。 それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。 奥さんは「本当いうと 合 ( あい )の 子 ( こ )なんですよ」といった。 奥さんの父親はたしか 鳥取 ( とっとり )かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった 時分 ( じぶん )の 市ヶ谷 ( いちがや )で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。 ところが先生は全く方角違いの 新潟 ( にいがた )県人であった。 だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。 しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。 先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。 私は時によると、それを善意に解釈してもみた。 年輩の先生の事だから、 艶 ( なま )めかしい回想などを若いものに聞かせるのはわざと 慎 ( つつし )んでいるのだろうと思った。 時によると、またそれを悪くも取った。 先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう 艶 ( つや )っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。 もっともどちらも推測に過ぎなかった。 そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。 私の仮定ははたして誤らなかった。 けれども私はただ恋の半面だけを想像に 描 ( えが )き得たに過ぎなかった。 先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。 そうしてその悲劇のどんなに先生にとって 見惨 ( みじめ )なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。 奥さんは今でもそれを知らずにいる。 先生はそれを奥さんに隠して死んだ。 先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。 私は今この悲劇について何事も語らない。 その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、 先刻 ( さっき )いった通りであった。 二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。 奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。 ただ一つ私の記憶に残っている事がある。 或 ( あ )る時 花時分 ( はなじぶん )に私は先生といっしょに 上野 ( うえの )へ行った。 そうしてそこで美しい 一対 ( いっつい )の 男女 ( なんにょ )を見た。 彼らは 睦 ( むつ )まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。 場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を 峙 ( そば )だてている人が沢山あった。 「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。 「仲が 好 ( よ )さそうですね」と私が答えた。 先生は苦笑さえしなかった。 二人の男女を視線の 外 ( ほか )に置くような方角へ足を向けた。 それから私にこう聞いた。 「君は恋をした事がありますか」 私はないと答えた。 「恋をしたくはありませんか」 私は答えなかった。 「したくない事はないでしょう」 「ええ」 「君は今あの男と女を見て、 冷評 ( ひやか )しましたね。 あの 冷評 ( ひやかし )のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が 交 ( まじ )っていましょう」 「そんな 風 ( ふう )に聞こえましたか」 「聞こえました。 恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。 しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。 解 ( わか )っていますか」 私は急に驚かされた。 何とも返事をしなかった。 我々は群集の中にいた。 群集はいずれも 嬉 ( うれ )しそうな顔をしていた。 そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。 「恋は罪悪ですか」と 私 ( わたくし )がその時突然聞いた。 「罪悪です。 たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。 「なぜですか」 「なぜだか今に解ります。 今にじゃない、もう解っているはずです。 あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」 私は一応自分の胸の中を調べて見た。 けれどもそこは案外に空虚であった。 思いあたるようなものは何にもなかった。 「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。 私は先生に何も隠してはいないつもりです」 「目的物がないから動くのです。 あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」 「今それほど動いちゃいません」 「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」 「それはそうかも知れません。 しかしそれは恋とは違います」 「恋に 上 ( のぼ )る 楷段 ( かいだん )なんです。 異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」 「私には二つのものが全く性質を 異 ( こと )にしているように思われます」 「いや同じです。 私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。 それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。 私は実際お気の毒に思っています。 あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。 私はむしろそれを希望しているのです。 しかし……」 私は変に悲しくなった。 「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」 先生は私の言葉に耳を貸さなかった。 「しかし気を付けないといけない。 恋は罪悪なんだから。 しかし事実としては知らなかった。 いずれにしても先生のいう罪悪という意味は 朦朧 ( もうろう )としてよく 解 ( わか )らなかった。 その上私は少し不愉快になった。 「先生、罪悪という意味をもっと 判然 ( はっきり )いって聞かして下さい。 それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。 私自身に罪悪という意味が判然解るまで」 「悪い事をした。 私はあなたに 真実 ( まこと )を話している気でいた。 ところが実際は、あなたを 焦慮 ( じら )していたのだ。 私は悪い事をした」 先生と私とは博物館の裏から 鶯渓 ( うぐいすだに )の方角に静かな歩調で歩いて行った。 垣の 隙間 ( すきま )から広い庭の一部に茂る 熊笹 ( くまざさ )が 幽邃 ( ゆうすい )に見えた。 「君は私がなぜ 毎月 ( まいげつ ) 雑司ヶ谷 ( ぞうしがや )の墓地に 埋 ( うま )っている友人の墓へ参るのか知っていますか」 先生のこの問いは全く突然であった。 しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。 私はしばらく返事をしなかった。 すると先生は始めて気が付いたようにこういった。 「また悪い事をいった。 焦慮 ( じら )せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。 どうも仕方がない。 この問題はこれで 止 ( や )めましょう。 とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。 そうして神聖なものですよ」 私には先生の話がますます 解 ( わか )らなくなった。 しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。 年の若い 私 ( わたくし )はややともすると 一図 ( いちず )になりやすかった。 少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。 私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。 教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。 とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よりもただ 独 ( ひと )りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。 「あんまり 逆上 ( のぼせ )ちゃいけません」と先生がいった。 「 覚 ( さ )めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。 その自信を先生は 肯 ( うけ )がってくれなかった。 「あなたは熱に浮かされているのです。 熱がさめると 厭 ( いや )になります。 私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。 しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」 「私はそれほど軽薄に思われているんですか。 それほど不信用なんですか」 「私はお気の毒に思うのです」 「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。 その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた 椿 ( つばき )の花はもう一つも見えなかった。 先生は座敷からこの椿の花をよく 眺 ( なが )める癖があった。 「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。 人間全体を信用しないんです」 その時 生垣 ( いけがき )の向うで金魚売りらしい声がした。 その 外 ( ほか )には何の聞こえるものもなかった。 大通りから二 丁 ( ちょう )も深く折れ込んだ 小路 ( こうじ )は 存外 ( ぞんがい )静かであった。 家 ( うち )の中はいつもの通りひっそりしていた。 私は次の 間 ( ま )に奥さんのいる事を知っていた。 黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。 しかし私は全くそれを忘れてしまった。 「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。 先生は少し不安な顔をした。 そうして直接の答えを避けた。 「私は私自身さえ信用していないのです。 つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。 自分を 呪 ( のろ )うより 外 ( ほか )に仕方がないのです」 「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」 「いや考えたんじゃない。 やったんです。 やった後で驚いたんです。 そうして非常に 怖 ( こわ )くなったんです」 私はもう少し先まで同じ道を 辿 ( たど )って行きたかった。 すると 襖 ( ふすま )の陰で「あなた、あなた」という奥さんの声が二度聞こえた。 先生は二度目に「何だい」といった。 奥さんは「ちょっと」と先生を次の 間 ( ま )へ呼んだ。 二人の間にどんな用事が起ったのか、私には 解 ( わか )らなかった。 それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。 「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。 今に後悔するから。 そうして自分が 欺 ( あざむ )かれた返報に、残酷な 復讐 ( ふくしゅう )をするようになるものだから」 「そりゃどういう意味ですか」 「かつてはその人の 膝 ( ひざ )の前に 跪 ( ひざまず )いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を 載 ( の )せさせようとするのです。 私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を 斥 ( しりぞ )けたいと思うのです。 私は今より一層 淋 ( さび )しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。 自由と独立と 己 ( おの )れとに 充 ( み )ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」 私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。 その 後 ( ご ) 私 ( わたくし )は奥さんの顔を見るたびに気になった。 先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。 もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。 奥さんの様子は満足とも不満足とも 極 ( き )めようがなかった。 私はそれほど近く奥さんに接触する機会がなかったから。 それから奥さんは私に会うたびに尋常であったから。 最後に先生のいる席でなければ私と奥さんとは 滅多 ( めった )に顔を合せなかったから。 私の疑惑はまだその上にもあった。 先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。 ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。 先生は 坐 ( すわ )って考える 質 ( たち )の人であった。 先生の頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。 私にはそうばかりとは思えなかった。 先生の覚悟は生きた覚悟らしかった。 火に焼けて冷却し切った 石造 ( せきぞう )家屋の 輪廓 ( りんかく )とは違っていた。 私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。 けれどもその思想家の 纏 ( まと )め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。 自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。 これは私の胸で推測するがものはない。 先生自身すでにそうだと告白していた。 ただその告白が雲の 峯 ( みね )のようであった。 私の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを 蔽 ( おお )い 被 ( かぶ )せた。 そうしてなぜそれが恐ろしいか私にも 解 ( わか )らなかった。 告白はぼうとしていた。 それでいて明らかに私の神経を 震 ( ふる )わせた。 私は先生のこの人生観の基点に、 或 ( あ )る強烈な恋愛事件を仮定してみた。 (無論先生と奥さんとの間に起った)。 先生がかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが 手掛 ( てがか )りにもなった。 しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。 すると二人の恋からこんな 厭世 ( えんせい )に近い覚悟が出ようはずがなかった。 「かつてはその人の前に 跪 ( ひざまず )いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を 載 ( の )せさせようとする」といった先生の言葉は、現代一般の 誰彼 ( たれかれ )について用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。 私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。 先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、先生の頭の中にある 生命 ( いのち )の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。 けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。 二人の間にある 生命 ( いのち )の扉を開ける 鍵 ( かぎ )にはならなかった。 むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。 そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。 その 頃 ( ころ )は日の 詰 ( つま )って行くせわしない秋に、誰も注意を 惹 ( ひ )かれる 肌寒 ( はださむ )の季節であった。 先生の 附近 ( ふきん )で盗難に 罹 ( かか )ったものが三、四日続いて出た。 盗難はいずれも宵の口であった。 大したものを持って行かれた 家 ( うち )はほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。 奥さんは気味をわるくした。 そこへ先生がある晩家を 空 ( あ )けなければならない事情ができてきた。 先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生は 外 ( ほか )の二、三名と共に、ある所でその友人に 飯 ( めし )を食わせなければならなくなった。 先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。 私はすぐ引き受けた。 私 ( わたくし )の行ったのはまだ 灯 ( ひ )の 点 ( つ )くか点かない暮れ方であったが、 几帳面 ( きちょうめん )な先生はもう 宅 ( うち )にいなかった。 「時間に 後 ( おく )れると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。 書斎には 洋机 ( テーブル )と 椅子 ( いす )の 外 ( ほか )に、沢山の書物が美しい 背皮 ( せがわ )を並べて、 硝子越 ( ガラスごし )に 電燈 ( でんとう )の光で照らされていた。 奥さんは火鉢の前に敷いた 座蒲団 ( ざぶとん )の上へ私を 坐 ( すわ )らせて、「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」と断って出て行った。 私はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。 私は 畏 ( かしこ )まったまま 烟草 ( タバコ )を飲んでいた。 奥さんが茶の間で何か 下女 ( げじょ )に話している声が聞こえた。 書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った 角 ( かど )にあるので、 棟 ( むね )の位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを 領 ( りょう )していた。 ひとしきりで奥さんの話し声が 已 ( や )むと、 後 ( あと )はしんとした。 私は泥棒を待ち受けるような心持で、 凝 ( じっ )としながら気をどこかに配った。 三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。 「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。 そうして客に来た人のように 鹿爪 ( しかつめ )らしく控えている私をおかしそうに見た。 「それじゃ窮屈でしょう」 「いえ、窮屈じゃありません」 「でも退屈でしょう」 「いいえ。 泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」 奥さんは手に 紅茶茶碗 ( こうちゃぢゃわん )を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。 「ここは隅っこだから番をするには 好 ( よ )くありませんね」と私がいった。 「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て 頂戴 ( ちょうだい )。 ご 退屈 ( たいくつ )だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で 宜 ( よろ )しければあちらで上げますから」 私は奥さんの 後 ( あと )に 尾 ( つ )いて書斎を出た。 茶の間には 綺麗 ( きれい )な 長火鉢 ( ながひばち )に 鉄瓶 ( てつびん )が鳴っていた。 私はそこで茶と菓子のご 馳走 ( ちそう )になった。 奥さんは 寝 ( ね )られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。 「先生はやっぱり時々こんな会へお 出掛 ( でか )けになるんですか」 「いいえ 滅多 ( めった )に出た事はありません。 近頃 ( ちかごろ )は段々人の顔を見るのが 嫌 ( きら )いになるようです」 こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという 風 ( ふう )も見えなかったので、私はつい大胆になった。 「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」 「いいえ私も嫌われている一人なんです」 「そりゃ 嘘 ( うそ )です」と私がいった。 「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」 「なぜ」 「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」 「あなたは学問をする 方 ( かた )だけあって、なかなかお 上手 ( じょうず )ね。 空 ( から )っぽな理屈を使いこなす事が。 世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。 それと 同 ( おん )なじ理屈で」 「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」 「議論はいやよ。 よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。 空 ( から )の 盃 ( さかずき )でよくああ飽きずに 献酬 ( けんしゅう )ができると思いますわ」 奥さんの言葉は少し 手痛 ( てひど )かった。 しかしその言葉の 耳障 ( みみざわり )からいうと、決して猛烈なものではなかった。 自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを 見出 ( みいだ )すほどに奥さんは現代的でなかった。 奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。 私 ( わたくし )はまだその 後 ( あと )にいうべき事をもっていた。 けれども奥さんから 徒 ( いたず )らに議論を仕掛ける男のように取られては困ると思って遠慮した。 奥さんは飲み干した 紅茶茶碗 ( こうちゃぢゃわん )の底を 覗 ( のぞ )いて黙っている私を 外 ( そ )らさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。 私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。 「いくつ? 一つ? 二ッつ?」 妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の 数 ( かず )を聞いた。 奥さんの態度は私に 媚 ( こ )びるというほどではなかったけれども、 先刻 ( さっき )の強い言葉を 力 ( つと )めて打ち消そうとする 愛嬌 ( あいきょう )に 充 ( み )ちていた。 私は黙って茶を飲んだ。 飲んでしまっても黙っていた。 「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。 「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、 叱 ( しか )り付けられそうですから」と私は答えた。 「まさか」と奥さんが再びいった。 二人はそれを 緒口 ( いとくち )にまた話を始めた。 そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。 「奥さん、 先刻 ( さっき )の続きをもう少しいわせて下さいませんか。 奥さんには 空 ( から )な理屈と聞こえるかも知れませんが、私はそんな 上 ( うわ )の 空 ( そら )でいってる事じゃないんだから」 「じゃおっしゃい」 「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」 「そりゃ分らないわ、あなた。 そんな事、先生に聞いて見るより 外 ( ほか )に仕方がないじゃありませんか。 私の所へ持って来る問題じゃないわ」 「奥さん、私は 真面目 ( まじめ )ですよ。 だから逃げちゃいけません。 正直に答えなくっちゃ」 「正直よ。 正直にいって私には分らないのよ」 「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。 これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」 「何もそんな事を開き直って聞かなくっても 好 ( い )いじゃありませんか」 「真面目くさって聞くがものはない。 分り切ってるとおっしゃるんですか」 「まあそうよ」 「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。 世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。 先生から見てじゃない。 あなたから見てですよ。 あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」 「そりゃ私から見れば分っています。 (先生はそう思っていないかも知れませんが)。 先生は私を離れれば不幸になるだけです。 あるいは生きていられないかも知れませんよ。 そういうと、 己惚 ( おのぼれ )になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。 どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。 それだからこうして落ち付いていられるんです」 「その信念が先生の心に 好 ( よ )く映るはずだと私は思いますが」 「それは別問題ですわ」 「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」 「私は嫌われてるとは思いません。 嫌われる訳がないんですもの。 しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。 世間というより 近頃 ( ちかごろ )では人間が嫌いになっているんでしょう。 だからその人間の 一人 ( いちにん )として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に 呑 ( の )み込めた。 私 ( わたくし )は奥さんの理解力に感心した。 奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の 刺戟 ( しげき )を与えた。 それで奥さんはその 頃 ( ころ ) 流行 ( はや )り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。 私は女というものに深い 交際 ( つきあい )をした経験のない 迂闊 ( うかつ )な青年であった。 男としての私は、異性に対する本能から、 憧憬 ( どうけい )の目的物として常に女を夢みていた。 けれどもそれは懐かしい春の雲を 眺 ( なが )めるような心持で、ただ 漠然 ( ばくぜん )と夢みていたに過ぎなかった。 だから実際の女の前へ出ると、私の感情が突然変る事が時々あった。 私は自分の前に現われた女のために引き付けられる代りに、その場に臨んでかえって変な 反撥力 ( はんぱつりょく )を感じた。 奥さんに対した私にはそんな気がまるで出なかった。 普通 男女 ( なんにょ )の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。 私は奥さんの女であるという事を忘れた。 私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。 「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。 元はああじゃなかったんだって」 「ええいいました。 実際あんなじゃなかったんですもの」 「どんなだったんですか」 「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」 「それがどうして急に変化なすったんですか」 「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」 「奥さんはその 間 ( あいだ )始終先生といっしょにいらしったんでしょう」 「無論いましたわ。 夫婦ですもの」 「じゃ先生がそう変って行かれる 源因 ( げんいん )がちゃんと 解 ( わか )るべきはずですがね」 「それだから困るのよ。 あなたからそういわれると実に 辛 ( つら )いんですが、私にはどう考えても、考えようがないんですもの。 私は今まで 何遍 ( なんべん )あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」 「先生は何とおっしゃるんですか」 「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」 私は黙っていた。 奥さんも言葉を 途切 ( とぎ )らした。 下女部屋 ( げじょべや )にいる下女はことりとも音をさせなかった。 私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。 「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。 「いいえ」と私が答えた。 「どうぞ隠さずにいって下さい。 そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。 「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」 「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。 ご安心なさい、私が保証します」 奥さんは火鉢の灰を 掻 ( か )き 馴 ( な )らした。 それから 水注 ( みずさし )の水を 鉄瓶 ( てつびん )に 注 ( さ )した。 鉄瓶は 忽 ( たちま )ち鳴りを沈めた。 「私はとうとう 辛防 ( しんぼう )し切れなくなって、先生に聞きました。 私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。 そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」 奥さんは眼の 中 ( うち )に涙をいっぱい 溜 ( た )めた。 始め 私 ( わたくし )は理解のある 女性 ( にょしょう )として奥さんに対していた。 私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。 奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の 心臓 ( ハート )を動かし始めた。 自分と夫の間には何の 蟠 ( わだか )まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。 それだのに眼を 開 ( あ )けて 見極 ( みきわ )めようとすると、やはり 何 ( なん )にもない。 奥さんの苦にする要点はここにあった。 奥さんは最初世の中を見る先生の眼が 厭世的 ( えんせいてき )だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。 そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。 底を割ると、かえってその逆を考えていた。 先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで 厭 ( いや )になったのだろうと推測していた。 けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。 先生の態度はどこまでも 良人 ( おっと )らしかった。 親切で優しかった。 疑いの 塊 ( かたま )りをその日その日の 情合 ( じょうあい )で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。 「あなたどう思って?」と聞いた。 「私からああなったのか、それともあなたのいう 人世観 ( じんせいかん )とか何とかいうものから、ああなったのか。 隠さずいって 頂戴 ( ちょうだい )」 私は何も隠す気はなかった。 けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。 そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。 「私には 解 ( わか )りません」 奥さんは予期の 外 ( はず )れた時に見る 憐 ( あわ )れな表情をその 咄嗟 ( とっさ )に現わした。 私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。 「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。 私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。 先生は 嘘 ( うそ )を 吐 ( つ )かない 方 ( かた )でしょう」 奥さんは何とも答えなかった。 しばらくしてからこういった。 「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」 「先生がああいう 風 ( ふう )になった 源因 ( げんいん )についてですか」 「ええ。 もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」 「どんな事ですか」 奥さんはいい渋って 膝 ( ひざ )の上に置いた自分の手を眺めていた。 「あなた判断して下すって。 いうから」 「私にできる判断ならやります」 「みんなはいえないのよ。 みんないうと 叱 ( しか )られるから。 叱られないところだけよ」 私は緊張して 唾液 ( つばき )を 呑 ( の )み込んだ。 「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の 好 ( い )いお友達が一人あったのよ。 その 方 ( かた )がちょうど卒業する少し前に死んだんです。 急に死んだんです」 奥さんは私の耳に 私語 ( ささや )くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。 それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。 「それっ切りしかいえないのよ。 けれどもその事があってから 後 ( のち )なんです。 先生の性質が段々変って来たのは。 なぜその方が死んだのか、私には解らないの。 先生にもおそらく解っていないでしょう。 けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」 「その人の墓ですか、 雑司ヶ谷 ( ぞうしがや )にあるのは」 「それもいわない事になってるからいいません。 しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。 私はそれが知りたくって 堪 ( たま )らないんです。 だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」 私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。 私 ( わたくし )は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。 奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。 それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。 けれども私はもともと事の 大根 ( おおね )を 攫 ( つか )んでいなかった。 奥さんの不安も実はそこに 漂 ( ただよ )う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。 事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。 知れているところでも 悉皆 ( すっかり )は私に話す事ができなかった。 したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。 ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、 覚束 ( おぼつか )ない私の判断に 縋 ( すが )り付こうとした。 十時 頃 ( ごろ )になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に 坐 ( すわ )っている私をそっちのけにして立ち上がった。 そうして 格子 ( こうし )を開ける先生をほとんど 出合 ( であ )い 頭 ( がしら )に迎えた。 私は取り残されながら、 後 ( あと )から奥さんに 尾 ( つ )いて行った。 下女 ( げじょ )だけは 仮寝 ( うたたね )でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。 先生はむしろ機嫌がよかった。 しかし奥さんの調子はさらによかった。 今しがた奥さんの美しい眼のうちに 溜 ( たま )った涙の光と、それから黒い 眉毛 ( まゆげ )の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く 眺 ( なが )めた。 もしそれが 詐 ( いつわ )りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは 感傷 ( センチメント )を 玩 ( もてあそ )ぶためにとくに私を相手に 拵 ( こしら )えた、 徒 ( いたず )らな女性の遊戯と取れない事もなかった。 もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。 私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。 これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。 先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。 それから「来ないんで 張合 ( はりあい )が抜けやしませんか」といった。 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。 その調子は忙しいところを暇を 潰 ( つぶ )させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。 奥さんはそういいながら、 先刻 ( さっき )出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。 私はそれを 袂 ( たもと )へ入れて、人通りの少ない 夜寒 ( よさむ )の 小路 ( こうじ )を曲折して 賑 ( にぎ )やかな町の方へ急いだ。 私はその晩の事を記憶のうちから 抽 ( ひ )き抜いてここへ 詳 ( くわ )しく書いた。 これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を 貰 ( もら )って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。 私はその 翌日 ( よくじつ ) 午飯 ( ひるめし )を食いに学校から帰ってきて、 昨夜 ( ゆうべ )机の上に 載 ( の )せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った 鳶色 ( とびいろ )のカステラを出して 頬張 ( ほおば )った。 そうしてそれを食う時に、 必竟 ( ひっきょう )この菓子を私にくれた二人の 男女 ( なんにょ )は、幸福な 一対 ( いっつい )として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。 秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。 私は先生の 宅 ( うち )へ 出 ( で )はいりをするついでに、衣服の 洗 ( あら )い 張 ( は )りや 仕立 ( した )て 方 ( かた )などを奥さんに頼んだ。 それまで 繻絆 ( じゅばん )というものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。 子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって 退屈凌 ( たいくつしの )ぎになって、 結句 ( けっく ) 身体 ( からだ )の薬だぐらいの事をいっていた。 「こりゃ 手織 ( てお )りね。 こんな 地 ( じ )の 好 ( い )い着物は今まで縫った事がないわ。 その代り縫い 悪 ( にく )いのよそりゃあ。 まるで針が立たないんですもの。 お 蔭 ( かげ )で針を二本折りましたわ」 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に 面倒 ( めんどう )くさいという顔をしなかった。 冬が来た時、 私 ( わたくし )は偶然国へ帰らなければならない事になった。 私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。 父はかねてから 腎臓 ( じんぞう )を病んでいた。 中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの 病 ( やまい )は慢性であった。 その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。 現に父は養生のお 蔭 ( かげ )一つで、 今日 ( こんにち )までどうかこうか 凌 ( しの )いで来たように客が来ると 吹聴 ( ふいちょう )していた。 その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている 機 ( はずみ )に突然 眩暈 ( めまい )がして引ッ繰り返った。 家内 ( かない )のものは軽症の 脳溢血 ( のういっけつ )と思い違えて、すぐその手当をした。 後 ( あと )で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。 冬休みが来るにはまだ少し 間 ( ま )があった。 私は学期の終りまで待っていても 差支 ( さしつか )えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。 するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。 そのたびに一種の心苦しさを 嘗 ( な )めた私は、とうとう帰る決心をした。 国から旅費を送らせる 手数 ( てかず )と時間を省くため、私は 暇乞 ( いとまご )いかたがた先生の所へ行って、 要 ( い )るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。 先生は少し 風邪 ( かぜ )の気味で、座敷へ出るのが 臆劫 ( おっくう )だといって、私をその書斎に通した。 書斎の 硝子戸 ( ガラスど )から冬に 入 ( い )って 稀 ( まれ )に見るような懐かしい 和 ( やわ )らかな日光が 机掛 ( つくえか )けの上に 射 ( さ )していた。 先生はこの日あたりの 好 ( い )い 室 ( へや )の中へ大きな火鉢を置いて、 五徳 ( ごとく )の上に懸けた 金盥 ( かなだらい )から立ち 上 ( あが )る 湯気 ( ゆげ )で、 呼吸 ( いき )の苦しくなるのを防いでいた。 「大病は 好 ( い )いが、ちょっとした 風邪 ( かぜ )などはかえって 厭 ( いや )なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。 先生は病気という病気をした事のない人であった。 先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。 「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は 真平 ( まっぴら )です。 先生だって同じ事でしょう。 試みにやってご覧になるとよく 解 ( わか )ります」 「そうかね。 私は病気になるくらいなら、死病に 罹 ( かか )りたいと思ってる」 私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。 すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。 「そりゃ困るでしょう。 そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」 先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。 それを奥の 茶箪笥 ( ちゃだんす )か何かの 抽出 ( ひきだし )から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ 鄭寧 ( ていねい )に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。 「 何遍 ( なんべん )も卒倒したんですか」と先生が聞いた。 「手紙には何とも書いてありませんが。 「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。 「そうさね。 私が代られれば代ってあげても 好 ( い )いが。 私はその晩の汽車で東京を立った。 父の病気は思ったほど悪くはなかった。 それでも着いた時は、 床 ( とこ )の上に 胡坐 ( あぐら )をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう 凝 ( じっ )としている。 なにもう起きても 好 ( い )いのさ」といった。 しかしその 翌日 ( よくじつ )からは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。 母は 不承無性 ( ふしょうぶしょう )に 太織 ( ふとお )りの 蒲団 ( ふとん )を畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。 私 ( わたくし )には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。 私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。 これは万一の事がある場合でなければ、容易に 父母 ( ちちはは )の顔を見る自由の 利 ( き )かない男であった。 妹は他国へ 嫁 ( とつ )いだ。 これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。 兄妹 ( きょうだい )三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。 その私が母のいい付け通り学校の課業を 放 ( ほう )り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。 「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。 お母さんがあまり 仰山 ( ぎょうさん )な手紙を書くものだからいけない」 父は口ではこういった。 こういったばかりでなく、今まで敷いていた 床 ( とこ )を上げさせて、いつものような元気を示した。 「あんまり軽はずみをしてまた 逆回 ( ぶりかえ )すといけませんよ」 私のこの注意を父は愉快そうにしかし 極 ( きわ )めて軽く受けた。 「なに大丈夫、これでいつものように 要心 ( ようじん )さえしていれば」 実際父は大丈夫らしかった。 家の中を自由に往来して、息も切れなければ、 眩暈 ( めまい )も感じなかった。 ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。 私は先生に手紙を書いて 恩借 ( おんしゃく )の礼を述べた。 正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。 そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も 嘔気 ( はきけ )も皆無な事などを書き連ねた。 最後に先生の 風邪 ( ふうじゃ )についても 一言 ( いちごん )の見舞を 附 ( つ )け加えた。 私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。 私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。 出した後で父や母と先生の 噂 ( うわさ )などをしながら、 遥 ( はる )かに先生の書斎を想像した。 「こんど東京へ行くときには 椎茸 ( しいたけ )でも持って行ってお上げ」 「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」 「 旨 ( うま )くはないが、別に 嫌 ( きら )いな人もないだろう」 私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。 先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。 ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。 先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。 そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。 もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。 第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。 私は先生の生前にたった二通の手紙しか 貰 ( もら )っていない。 その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私 宛 ( あて )で書いた大変長いものである。 父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど 戸外 ( そと )へは出なかった。 一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を 気遣 ( きづか )って、私が引き添うように 傍 ( そば )に付いていた。 私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。 私 ( わたくし )は退屈な父の相手としてよく 将碁盤 ( しょうぎばん )に向かった。 二人とも無精な 性質 ( たち )なので、 炬燵 ( こたつ )にあたったまま、盤を 櫓 ( やぐら )の上へ 載 ( の )せて、 駒 ( こま )を動かすたびに、わざわざ手を 掛蒲団 ( かけぶとん )の下から出すような事をした。 時々 持駒 ( もちごま )を 失 ( な )くして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。 それを母が灰の中から 見付 ( みつ )け出して、 火箸 ( ひばし )で 挟 ( はさ )み上げるという 滑稽 ( こっけい )もあった。 「 碁 ( ご )だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は 好 ( い )いね、こうして楽に差せるから。 無精者には持って来いだ。 もう一番やろう」 父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。 そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。 要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。 始めのうちは珍しいので、この 隠居 ( いんきょ )じみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が 経 ( た )つに 伴 ( つ )れて、若い私の気力はそのくらいな 刺戟 ( しげき )で満足できなくなった。 私は 金 ( きん )や 香車 ( きょうしゃ )を握った 拳 ( こぶし )を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。 私は東京の事を考えた。 そうして 漲 ( みなぎ )る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける 鼓動 ( こどう )を聞いた。 不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。 両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど 大人 ( おとな )しい男であった。 他 ( ひと )に認められるという点からいえばどっちも 零 ( れい )であった。 それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。 かつて遊興のために 往来 ( ゆきき )をした 覚 ( おぼ )えのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。 ただ頭というのはあまりに 冷 ( ひや )やか過ぎるから、私は胸といい直したい。 肉のなかに先生の力が 喰 ( く )い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。 私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。 私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々 陳腐 ( ちんぷ )になって来た。 これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや 歓待 ( もてな )されるのに、その峠を 定規通 ( ていきどお )り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。 私も滞在中にその峠を通り越した。 その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも 解 ( わか )らない変なところを東京から持って帰った。 昔でいうと、 儒者 ( じゅしゃ )の家へ 切支丹 ( キリシタン )の 臭 ( にお )いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。 無論私はそれを隠していた。 けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に 留 ( と )まった。 私はつい面白くなくなった。 早く東京へ帰りたくなった。 父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。 念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。 私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。 立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。 「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。 「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。 私は自分の 極 ( き )めた 出立 ( しゅったつ )の日を動かさなかった。 東京へ帰ってみると、 松飾 ( まつかざり )はいつか取り払われていた。 町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。 私 ( わたくし )は 早速 ( さっそく )先生のうちへ金を返しに行った。 例の 椎茸 ( しいたけ )もついでに持って行った。 ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。 椎茸は新しい菓子折に入れてあった。 鄭寧 ( ていねい )に礼を述べた奥さんは、次の 間 ( ま )へ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の 御菓子 ( おかし )」と聞いた。 奥さんは懇意になると、こんなところに 極 ( きわ )めて 淡泊 ( たんぱく )な 小供 ( こども )らしい心を見せた。 二人とも父の病気について、色々 掛念 ( けねん )の問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。 「なるほど 容体 ( ようだい )を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」 先生は 腎臓 ( じんぞう )の 病 ( やまい )について私の知らない事を多く知っていた。 「自分で病気に 罹 ( かか )っていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。 私の知ったある 士官 ( しかん )は、とうとうそれでやられたが、全く 嘘 ( うそ )のような死に方をしたんですよ。 何しろ 傍 ( そば )に寝ていた 細君 ( さいくん )が看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。 夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、 翌 ( あく )る朝はもう死んでいたんです。 しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」 今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。 「私の 父 ( おやじ )もそんなになるでしょうか。 ならんともいえないですね」 「医者は何というのです」 「医者は 到底 ( とても )治らないというんです。 けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」 「それじゃ 好 ( い )いでしょう。 医者がそういうなら。 私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」 私はやや安心した。 私の変化を 凝 ( じっ )と見ていた先生は、それからこう付け足した。 「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても 脆 ( もろ )いものですね。 いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」 「先生もそんな事を考えてお 出 ( いで )ですか」 「いくら丈夫の私でも、 満更 ( まんざら )考えない事もありません」 先生の口元には微笑の影が見えた。 「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。 自然に。 それからあっと思う 間 ( ま )に死ぬ人もあるでしょう。 不自然な暴力で」 「不自然な暴力って何ですか」 「何だかそれは私にも 解 ( わか )らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお 蔭 ( かげ )ですね」 「殺される方はちっとも考えていなかった。 なるほどそういえばそうだ」 その日はそれで帰った。 帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。 先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、 後 ( あと )は何らのこだわりを私の頭に残さなかった。 私は今まで 幾度 ( いくたび )か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。 その年の六月に卒業するはずの 私 ( わたくし )は、ぜひともこの論文を 成規通 ( せいきどお )り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。 二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を 疑 ( うたぐ )った。 他 ( ほか )のものはよほど前から材料を 蒐 ( あつ )めたり、ノートを 溜 ( た )めたりして、 余所目 ( よそめ )にも 忙 ( いそが )しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。 私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。 私はその決心でやり出した。 そうして 忽 ( たちま )ち動けなくなった。 今まで大きな問題を 空 ( くう )に 描 ( えが )いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を 抑 ( おさ )えて悩み始めた。 私はそれから論文の問題を小さくした。 そうして練り上げた思想を系統的に 纏 ( まと )める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。 私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。 私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は 好 ( い )いでしょうといった。 狼狽 ( ろうばい )した気味の私は、 早速 ( さっそく )先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。 先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。 しかし先生はこの点について 毫 ( ごう )も私を指導する任に当ろうとしなかった。 「 近頃 ( ちかごろ )はあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。 学校の先生に聞いた方が好いでしょう」 先生は一時非常の読書家であったが、その 後 ( ご )どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。 私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。 「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」 「なぜという訳もありませんが。 ……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。 それから……」 「それから、まだあるんですか」 「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。 まあ早くいえば老い込んだのです」 先生の言葉はむしろ平静であった。 世間に背中を向けた人の 苦味 ( くみ )を帯びていなかっただけに、私にはそれほどの 手応 ( てごた )えもなかった。 私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。 それからの私はほとんど論文に 祟 ( たた )られた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。 私は一年 前 ( ぜん )に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。 そのうちの 一人 ( いちにん )は 締切 ( しめきり )の日に車で事務所へ 馳 ( か )けつけて 漸 ( ようや )く間に合わせたといった。 他の一人は五時を十五分ほど 後 ( おく )らして持って行ったため、 危 ( あやう )く 跳 ( は )ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。 私は不安を感ずると共に度胸を 据 ( す )えた。 毎日机の前で精根のつづく限り働いた。 でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを 見廻 ( みまわ )した。 私の眼は 好事家 ( こうずか )が 骨董 ( こっとう )でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。 梅が咲くにつけて寒い風は段々 向 ( むき )を南へ 更 ( か )えて行った。 それが 一仕切 ( ひとしきり ) 経 ( た )つと、桜の 噂 ( うわさ )がちらほら私の耳に聞こえ出した。 それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に 鞭 ( むち )うたれた。

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夏目漱石 こころ

ひとり ぼっ ちの 羊 飼い 歌詞

作詞:中村中 作曲:中村中 ひとりぼっちのぼくに声かけてくれたあの日から、ずっと、ずっとね、 きみがすきだよ。 一番後ろのぼくを振り返ってくれた、 ぼくの眼を見て微笑む、きみがすきだよ。 ぼくは透明人間で、誰にも見えないはずなのに、 どうしてぼくを 見つけだしたの? きみがすきだよ。 みんなといると冷たい時もあるけど、ふたりでいると優しい、 きみがすきだよ。 のろまなぼくの腕を強く引いてくれた。 鈍い痛みが残って、きみがすきだよ。 ぼくが半分つれない顔だと、楽しくないと叱ってくれたよね。 ぼくのためだと。 きみがすきだよ。 嫌なことがあった日は、ぼくに隠さずに全部ぶつけて来てくれる。 受け止めなくちゃ。 きみがすきだよ。 新しい仲間が出来たら、 ぼくに構わず走り出す背中。 その真っ直ぐさが、ぼくはすきだよ。 ぼくは透明人間で、誰にも見えないはずなのに、 どうしてぼくを見つけだしたの? きみがすきだよ。 hitori botu chino boku ni koe kake te kure ta ano hi kara zutto zutto ne ひとり ぼっ ちの ぼく に 声 かけ て くれ た あの 日 から 、 ずっと 、 ずっと ね 、 kimi ga suki da yo ichiban ushiro no boku wo furikaetu te kure ta きみ が すき だ よ。 一番 後ろ の ぼく を 振り返っ て くれ た 、 boku no manako wo mi te hohoemu kimi ga suki da yo ぼく の 眼 を 見 て 微笑む 、 きみ が すき だ よ。 boku ha toumei ningen de tare ni mo mamie nai hazu na noni ぼく は 透明 人間 で 、 誰 に も 見え ない はず な のに 、 doushite boku wo mitsukedashi ta no kimi ga suki da yo どうして ぼく を 見つけだし た の ? きみ が すき だ よ。 minna to iru to tsumetai toki mo aru kedo futari de iru to yasashii みんな と いる と 冷たい 時 も ある けど 、 ふたり で いる と 優しい 、 kimi ga suki da yo noroma na boku no kaina wo tsuyoku hii te kure ta きみ が すき だ よ。 のろま な ぼく の 腕 を 強く 引い て くれ た。 noroi itami ga nokotu te kimi ga suki da yo 鈍い 痛み が 残っ て 、 きみ が すき だ よ。 boku ga hambun tsurenai kao da to tanoshiku nai to shikatu te kure ta yo ne ぼく が 半分 つれない 顔 だ と 、 楽しく ない と 叱っ て くれ た よ ね。 boku no tame da to kimi ga suki da yo ぼく の ため だ と。 きみ が すき だ よ。 iya na koto ga atu ta hi ha boku ni kakusa zu ni zembu butsuke te ki te kureru 嫌 な こと が あっ た 日 は 、 ぼく に 隠さ ず に 全部 ぶつけ て 来 て くれる。 uketome naku cha kimi ga suki da yo atarashii nakama ga deki tara 受け止め なく ちゃ。 きみ が すき だ よ。 新しい 仲間 が 出来 たら 、 boku ni kamawa zu hashiridasu senaka sono massugu sa ga boku ha suki da yo ぼく に 構わ ず 走り出す 背中。 その 真っ直ぐ さ が 、 ぼく は すき だ よ。 boku ha toumei ningen de tare ni mo mamie nai hazu na noni ぼく は 透明 人間 で 、 誰 に も 見え ない はず な のに 、 doushite boku wo mitsukedashi ta no kimi ga suki da yo どうして ぼく を 見つけだし た の ? きみ が すき だ よ。

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夏目漱石 吾輩は猫である

ひとり ぼっ ちの 羊 飼い 歌詞

吾輩 ( わがはい )は猫である。 名前はまだ無い。 どこで生れたかとんと 見当 ( けんとう )がつかぬ。 何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。 吾輩はここで始めて人間というものを見た。 しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番 獰悪 ( どうあく )な種族であったそうだ。 この書生というのは時々我々を 捕 ( つかま )えて 煮 ( に )て食うという話である。 しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。 ただ彼の 掌 ( てのひら )に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。 掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの 見始 ( みはじめ )であろう。 この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。 第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで 薬缶 ( やかん )だ。 その 後 ( ご )猫にもだいぶ 逢 ( あ )ったがこんな 片輪 ( かたわ )には一度も 出会 ( でく )わした事がない。 のみならず顔の真中があまりに突起している。 そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと 煙 ( けむり )を吹く。 どうも 咽 ( む )せぽくて実に弱った。 これが人間の飲む 煙草 ( たばこ )というものである事はようやくこの頃知った。 この書生の掌の 裏 ( うち )でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。 書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが 無暗 ( むやみ )に眼が廻る。 胸が悪くなる。 到底 ( とうてい )助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。 それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。 ふと気が付いて見ると書生はいない。 たくさんおった兄弟が一 疋 ( ぴき )も見えぬ。 肝心 ( かんじん )の母親さえ姿を隠してしまった。 その上 今 ( いま )までの所とは違って 無暗 ( むやみ )に明るい。 眼を明いていられぬくらいだ。 はてな何でも 容子 ( ようす )がおかしいと、のそのそ 這 ( は )い出して見ると非常に痛い。 吾輩は 藁 ( わら )の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。 ようやくの思いで笹原を這い出すと向うに大きな池がある。 吾輩は池の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。 別にこれという 分別 ( ふんべつ )も出ない。 しばらくして泣いたら書生がまた迎に来てくれるかと考え付いた。 ニャー、ニャーと試みにやって見たが誰も来ない。 そのうち池の上をさらさらと風が渡って日が暮れかかる。 腹が非常に減って来た。 泣きたくても声が出ない。 仕方がない、何でもよいから 食物 ( くいもの )のある所まであるこうと決心をしてそろりそろりと池を 左 ( ひだ )りに廻り始めた。 どうも非常に苦しい。 そこを我慢して無理やりに 這 ( は )って行くとようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。 ここへ 這入 ( はい )ったら、どうにかなると思って竹垣の 崩 ( くず )れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。 縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに 路傍 ( ろぼう )に 餓死 ( がし )したかも知れんのである。 一樹の蔭とはよく 云 ( い )ったものだ。 この垣根の穴は 今日 ( こんにち )に至るまで吾輩が 隣家 ( となり )の三毛を訪問する時の通路になっている。 さて 邸 ( やしき )へは忍び込んだもののこれから先どうして 善 ( い )いか分らない。 そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末でもう一刻の 猶予 ( ゆうよ )が出来なくなった。 仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。 今から考えるとその時はすでに家の内に這入っておったのだ。 ここで吾輩は 彼 ( か )の書生以外の人間を再び見るべき機会に 遭遇 ( そうぐう )したのである。 第一に逢ったのがおさんである。 これは前の書生より一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり 頸筋 ( くびすじ )をつかんで表へ 抛 ( ほう )り出した。 いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。 しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。 吾輩は再びおさんの 隙 ( すき )を見て台所へ 這 ( は )い 上 ( あが )った。 すると間もなくまた投げ出された。 吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。 その時におさんと云う者はつくづくいやになった。 この間おさんの 三馬 ( さんま )を 偸 ( ぬす )んでこの返報をしてやってから、やっと胸の 痞 ( つかえ )が下りた。 吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この 家 ( うち )の主人が騒々しい何だといいながら出て来た。 下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの 宿 ( やど )なしの小猫がいくら出しても出しても 御台所 ( おだいどころ )へ 上 ( あが )って来て困りますという。 主人は鼻の下の黒い毛を 撚 ( ひね )りながら吾輩の顔をしばらく 眺 ( なが )めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ 這入 ( はい )ってしまった。 主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。 下女は 口惜 ( くや )しそうに吾輩を台所へ 抛 ( ほう )り出した。 かくして吾輩はついにこの 家 ( うち )を自分の 住家 ( すみか )と 極 ( き )める事にしたのである。 吾輩の主人は 滅多 ( めった )に吾輩と顔を合せる事がない。 職業は教師だそうだ。 学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。 家のものは大変な勉強家だと思っている。 当人も勉強家であるかのごとく見せている。 しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。 吾輩は時々忍び足に彼の書斎を 覗 ( のぞ )いて見るが、彼はよく 昼寝 ( ひるね )をしている事がある。 時々読みかけてある本の上に 涎 ( よだれ )をたらしている。 彼は胃弱で皮膚の色が 淡黄色 ( たんこうしょく )を帯びて弾力のない 不活溌 ( ふかっぱつ )な徴候をあらわしている。 その癖に大飯を食う。 大飯を食った 後 ( あと )でタカジヤスターゼを飲む。 飲んだ後で書物をひろげる。 二三ページ読むと眠くなる。 涎を本の上へ垂らす。 これが彼の毎夜繰り返す日課である。 吾輩は猫ながら時々考える事がある。 教師というものは実に 楽 ( らく )なものだ。 人間と生れたら教師となるに限る。 こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。 それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る 度 ( たび )に何とかかんとか不平を鳴らしている。 吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であった。 どこへ行っても 跳 ( は )ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。 いかに珍重されなかったかは、 今日 ( こんにち )に至るまで名前さえつけてくれないのでも分る。 吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の 傍 ( そば )にいる事をつとめた。 朝主人が新聞を読むときは必ず彼の 膝 ( ひざ )の上に乗る。 彼が昼寝をするときは必ずその 背中 ( せなか )に乗る。 これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである。 その後いろいろ経験の上、朝は 飯櫃 ( めしびつ )の上、夜は 炬燵 ( こたつ )の上、天気のよい昼は 椽側 ( えんがわ )へ寝る事とした。 しかし一番心持の好いのは 夜 ( よ )に 入 ( い )ってここのうちの小供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。 この小供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ 入 ( はい )って 一間 ( ひとま )へ寝る。 吾輩はいつでも彼等の中間に 己 ( おの )れを 容 ( い )るべき余地を 見出 ( みいだ )してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を 醒 ( さ )ますが最後大変な事になる。 すると例の神経胃弱性の主人は 必 ( かなら )ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。 現にせんだってなどは 物指 ( ものさし )で尻ぺたをひどく 叩 ( たた )かれた。 吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は 我儘 ( わがまま )なものだと断言せざるを得ないようになった。 ことに吾輩が時々 同衾 ( どうきん )する小供のごときに至っては 言語同断 ( ごんごどうだん )である。 自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、 抛 ( ほう )り出したり、 へっついの中へ押し込んだりする。 しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら 家内 ( かない )総がかりで追い廻して迫害を加える。 この間もちょっと畳で爪を 磨 ( と )いだら細君が非常に 怒 ( おこ )ってそれから容易に座敷へ 入 ( い )れない。 台所の板の間で 他 ( ひと )が 顫 ( ふる )えていても 一向 ( いっこう )平気なものである。 吾輩の尊敬する 筋向 ( すじむこう )の白君などは 逢 ( あ )う 度毎 ( たびごと )に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。 白君は先日玉のような子猫を四疋 産 ( う )まれたのである。 ところがそこの 家 ( うち )の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ。 白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等 猫族 ( ねこぞく )が親子の愛を 完 ( まった )くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを 剿滅 ( そうめつ )せねばならぬといわれた。 一々もっともの議論と思う。 また隣りの 三毛 ( みけ )君などは人間が所有権という事を解していないといって 大 ( おおい )に憤慨している。 元来我々同族間では 目刺 ( めざし )の頭でも 鰡 ( ぼら )の 臍 ( へそ )でも一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。 もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて 善 ( よ )いくらいのものだ。 しかるに彼等人間は 毫 ( ごう )もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために 掠奪 ( りゃくだつ )せらるるのである。 彼等はその強力を頼んで正当に吾人が食い得べきものを 奪 ( うば )ってすましている。 白君は軍人の家におり三毛君は代言の主人を持っている。 吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。 ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。 いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。 まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。 我儘 ( わがまま )で思い出したからちょっと吾輩の家の主人がこの我儘で失敗した話をしよう。 元来この主人は何といって人に 勝 ( すぐ )れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。 俳句をやって ほととぎすへ投書をしたり、新体詩を 明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に 凝 ( こ )ったり、 謡 ( うたい )を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。 その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。 後架 ( こうか )の中で謡をうたって、近所で 後架先生 ( こうかせんせい )と 渾名 ( あだな )をつけられているにも関せず 一向 ( いっこう )平気なもので、やはりこれは 平 ( たいら )の 宗盛 ( むねもり )にて 候 ( そうろう )を繰返している。 みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。 この主人がどういう考になったものか吾輩の住み込んでから一月ばかり 後 ( のち )のある月の月給日に、大きな包みを 提 ( さ )げてあわただしく帰って来た。 何を買って来たのかと思うと水彩絵具と毛筆とワットマンという紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。 果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。 しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。 当人もあまり 甘 ( うま )くないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に 下 ( しも )のような話をしているのを聞いた。 「どうも 甘 ( うま )くかけないものだね。 人のを見ると何でもないようだが 自 ( みずか )ら筆をとって見ると 今更 ( いまさら )のようにむずかしく感ずる」これは主人の 述懐 ( じゅっかい )である。 なるほど 詐 ( いつわ )りのない処だ。 彼の友は金縁の 眼鏡越 ( めがねごし )に主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで 画 ( え )がかける訳のものではない。 昔 ( むか )し 以太利 ( イタリー )の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。 画をかくなら何でも自然その物を写せ。 天に 星辰 ( せいしん )あり。 地に 露華 ( ろか )あり。 飛ぶに 禽 ( とり )あり。 走るに 獣 ( けもの )あり。 池に金魚あり。 枯木 ( こぼく )に 寒鴉 ( かんあ )あり。 自然はこれ一幅の 大活画 ( だいかつが )なりと。 どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」 「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。 ちっとも知らなかった。 なるほどこりゃもっともだ。 実にその通りだ」と主人は 無暗 ( むやみ )に感心している。 金縁の裏には 嘲 ( あざ )けるような 笑 ( わらい )が見えた。 その翌日吾輩は例のごとく 椽側 ( えんがわ )に出て心持善く 昼寝 ( ひるね )をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の 後 ( うし )ろで何かしきりにやっている。 ふと眼が 覚 ( さ )めて何をしているかと 一分 ( いちぶ )ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを 極 ( き )め込んでいる。 吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。 彼は彼の友に 揶揄 ( やゆ )せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。 吾輩はすでに 十分 ( じゅうぶん )寝た。 欠伸 ( あくび )がしたくてたまらない。 しかしせっかく主人が熱心に筆を 執 ( と )っているのを動いては気の毒だと思って、じっと 辛棒 ( しんぼう )しておった。 彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを 色彩 ( いろど )っている。 吾輩は自白する。 吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。 背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に 勝 ( まさ )るとは決して思っておらん。 しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に 描 ( えが )き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。 第一色が違う。 吾輩は 波斯産 ( ペルシャさん )の猫のごとく黄を含める淡灰色に 漆 ( うるし )のごとき 斑入 ( ふい )りの皮膚を有している。 これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。 しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ 褐色 ( とびいろ )でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。 ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。 その上不思議な事は眼がない。 もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから 盲猫 ( めくら )だか寝ている猫だか判然しないのである。 吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。 しかしその熱心には感服せざるを得ない。 なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。 身内 ( みうち )の筋肉はむずむずする。 最早 ( もはや )一分も 猶予 ( ゆうよ )が出来ぬ 仕儀 ( しぎ )となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと 大 ( だい )なる欠伸をした。 さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。 どうせ主人の予定は 打 ( ぶ )ち 壊 ( こ )わしたのだから、ついでに裏へ行って用を 足 ( た )そうと思ってのそのそ這い出した。 すると主人は失望と怒りを 掻 ( か )き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と 怒鳴 ( どな )った。 この主人は人を 罵 ( ののし )るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。 ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、 無暗 ( むやみ )に馬鹿野郎 呼 ( よば )わりは失敬だと思う。 それも平生吾輩が彼の 背中 ( せなか )へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの 漫罵 ( まんば )も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは 酷 ( ひど )い。 元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。 少し人間より強いものが出て来て 窘 ( いじ )めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。 我儘 ( わがまま )もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。 吾輩の家の裏に十坪ばかりの 茶園 ( ちゃえん )がある。 広くはないが 瀟洒 ( さっぱり )とした心持ち好く日の 当 ( あた )る所だ。 うちの小供があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て 浩然 ( こうぜん )の気を養うのが例である。 ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は 昼飯後 ( ちゅうはんご )快よく一睡した 後 ( のち )、運動かたがたこの茶園へと 歩 ( ほ )を運ばした。 茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。 彼は吾輩の近づくのも 一向 ( いっこう )心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな 鼾 ( いびき )をして長々と体を 横 ( よこた )えて眠っている。 他 ( ひと )の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に 睡 ( ねむ )られるものかと、吾輩は 窃 ( ひそ )かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。 彼は純粋の黒猫である。 わずかに 午 ( ご )を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に 抛 ( な )げかけて、きらきらする 柔毛 ( にこげ )の間より眼に見えぬ炎でも 燃 ( も )え 出 ( い )ずるように思われた。 彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。 吾輩の倍はたしかにある。 吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に 佇立 ( ちょりつ )して余念もなく 眺 ( なが )めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる 梧桐 ( ごとう )の枝を 軽 ( かろ )く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。 大王はかっとその 真丸 ( まんまる )の眼を開いた。 今でも記憶している。 その眼は人間の珍重する 琥珀 ( こはく )というものよりも 遥 ( はる )かに美しく輝いていた。 彼は身動きもしない。 双眸 ( そうぼう )の奥から射るごとき光を吾輩の 矮小 ( わいしょう )なる 額 ( ひたい )の上にあつめて、 御めえは一体何だと云った。 大王にしては少々言葉が 卑 ( いや )しいと思ったが何しろその声の底に犬をも 挫 ( ひ )しぐべき力が 籠 ( こも )っているので吾輩は少なからず恐れを 抱 ( いだ )いた。 しかし 挨拶 ( あいさつ )をしないと 険呑 ( けんのん )だと思ったから「吾輩は猫である。 名前はまだない」となるべく平気を 装 ( よそお )って冷然と答えた。 しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。 彼は 大 ( おおい )に 軽蔑 ( けいべつ )せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。 全 ( ぜん )てえどこに住んでるんだ」随分 傍若無人 ( ぼうじゃくぶじん )である。 「吾輩はここの教師の 家 ( うち )にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。 いやに 瘠 ( や )せてるじゃねえか」と大王だけに 気焔 ( きえん )を吹きかける。 言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。 しかしその 膏切 ( あぶらぎ )って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。 吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。 「 己 ( お )れあ車屋の 黒 ( くろ )よ」 昂然 ( こうぜん )たるものだ。 車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。 しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。 同盟敬遠主義の 的 ( まと )になっている奴だ。 吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々 軽侮 ( けいぶ )の念も生じたのである。 吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを 試 ( ため )してみようと思って 左 ( さ )の問答をして見た。 「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」 「車屋の方が強いに 極 ( きま )っていらあな。 御めえの うちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」 「君も車屋の猫だけに 大分 ( だいぶ )強そうだ。 車屋にいると 御馳走 ( ごちそう )が食えると見えるね」 「 何 ( なあ )に おれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。 御めえなんかも 茶畠 ( ちゃばたけ )ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと 己 ( おれ )の 後 ( あと )へくっ付いて来て見ねえ。 一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」 「追ってそう願う事にしよう。 しかし 家 ( うち )は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」 「 箆棒 ( べらぼう )め、うちなんかいくら大きくたって腹の 足 ( た )しになるもんか」 彼は 大 ( おおい )に 肝癪 ( かんしゃく )に 障 ( さわ )った様子で、 寒竹 ( かんちく )をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。 吾輩が車屋の黒と 知己 ( ちき )になったのはこれからである。 その 後 ( ご )吾輩は 度々 ( たびたび )黒と 邂逅 ( かいこう )する。 邂逅する 毎 ( ごと )に彼は車屋相当の 気焔 ( きえん )を吐く。 先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。 或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい 茶畠 ( ちゃばたけ )の中で 寝転 ( ねころ )びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの 自慢話 ( じまんばな )しをさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って 下 ( しも )のごとく質問した。 「 御めえは今までに鼠を何匹とった事がある」智識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては 到底 ( とうてい )黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに 極 ( きま )りが 善 ( よ )くはなかった。 けれども事実は事実で 詐 ( いつわ )る訳には行かないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ 捕 ( と )らない」と答えた。 黒は彼の鼻の先からぴんと 突張 ( つっぱ )っている長い 髭 ( ひげ )をびりびりと 震 ( ふる )わせて非常に笑った。 元来黒は自慢をする 丈 ( だけ )にどこか足りないところがあって、彼の 気焔 ( きえん )を感心したように 咽喉 ( のど )をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ 御 ( ぎょ )しやすい猫である。 吾輩は彼と近付になってから 直 ( すぐ )にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい 己 ( おの )れを弁護してますます形勢をわるくするのも 愚 ( ぐ )である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに 若 ( し )くはないと思案を 定 ( さだ )めた。 そこでおとなしく「君などは年が年であるから 大分 ( だいぶん )とったろう」とそそのかして見た。 果然彼は 墻壁 ( しょうへき )の 欠所 ( けっしょ )に 吶喊 ( とっかん )して来た。 「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。 彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるが いたちってえ奴は手に合わねえ。 一度 いたちに向って 酷 ( ひど )い目に 逢 ( あ )った」「へえなるほど」と 相槌 ( あいづち )を打つ。 黒は大きな眼をぱちつかせて云う。 「去年の大掃除の時だ。 うちの亭主が 石灰 ( いしばい )の袋を持って 椽 ( えん )の下へ 這 ( は )い込んだら 御めえ大きな いたちの野郎が 面喰 ( めんくら )って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。 「 いたちってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。 こん 畜生 ( ちきしょう )って気で追っかけてとうとう 泥溝 ( どぶ )の中へ追い込んだと思いねえ」「うまくやったね」と 喝采 ( かっさい )してやる。 「ところが 御めえいざってえ段になると奴め 最後 ( さいご )っ 屁 ( ぺ )をこきゃがった。 臭 ( くせ )えの臭くねえのってそれからってえものは いたちを見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を 今 ( いま )なお感ずるごとく前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。 吾輩も少々気の毒な感じがする。 ちっと景気を付けてやろうと思って「しかし鼠なら君に 睨 ( にら )まれては百年目だろう。 君はあまり鼠を 捕 ( と )るのが名人で鼠ばかり食うものだからそんなに肥って色つやが善いのだろう」黒の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を 呈出 ( ていしゅつ )した。 彼は 喟然 ( きぜん )として 大息 ( たいそく )していう。 「 考 ( かん )げえるとつまらねえ。 人のとった鼠をみんな取り上げやがって交番へ持って行きゃあがる。 交番じゃ誰が 捕 ( と )ったか分らねえからその たんびに五銭ずつくれるじゃねえか。 うちの亭主なんか 己 ( おれ )の御蔭でもう壱円五十銭くらい 儲 ( もう )けていやがる癖に、 碌 ( ろく )なものを食わせた事もありゃしねえ。 おい人間てものあ 体 ( てい )の 善 ( い )い泥棒だぜ」さすが無学の黒もこのくらいの 理窟 ( りくつ )はわかると見えてすこぶる 怒 ( おこ )った 容子 ( ようす )で背中の毛を 逆立 ( さかだ )てている。 吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を 胡魔化 ( ごまか )して 家 ( うち )へ帰った。 この時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。 しかし黒の子分になって鼠以外の御馳走を 猟 ( あさ )ってあるく事もしなかった。 御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。 教師の 家 ( うち )にいると猫も教師のような性質になると見える。 要心しないと今に胃弱になるかも知れない。 教師といえば吾輩の主人も近頃に至っては 到底 ( とうてい )水彩画において 望 ( のぞみ )のない事を悟ったものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。 あの人は 大分 ( だいぶ ) 放蕩 ( ほうとう )をした人だと云うがなるほど 通人 ( つうじん )らしい 風采 ( ふうさい )をしている。 あの人の妻君は芸者だそうだ、 羨 ( うらや )ましい事である。 元来放蕩家を悪くいう人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。 また放蕩家をもって自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。 これらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。 あたかも吾輩の水彩画に於けるがごときもので到底卒業する気づかいはない。 しかるにも関せず、自分だけは通人だと思って 済 ( すま )している。 料理屋の酒を飲んだり待合へ 這入 ( はい )るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も 一廉 ( ひとかど )の水彩画家になり得る 理窟 ( りくつ )だ。 吾輩の水彩画のごときはかかない方がましであると同じように、 愚昧 ( ぐまい )なる通人よりも山出しの 大野暮 ( おおやぼ )の方が 遥 ( はる )かに上等だ。 通人論 ( つうじんろん )はちょっと 首肯 ( しゅこう )しかねる。 また芸者の妻君を羨しいなどというところは教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、自己の水彩画における批評眼だけはたしかなものだ。 主人はかくのごとく 自知 ( じち )の 明 ( めい )あるにも関せずその 自惚心 ( うぬぼれしん )はなかなか抜けない。 中二日 ( なかふつか )置いて十二月四日の日記にこんな事を書いている。 昨夜 ( ゆうべ )は僕が水彩画をかいて到底物にならんと思って、そこらに 抛 ( ほう )って置いたのを誰かが立派な額にして 欄間 ( らんま )に 懸 ( か )けてくれた夢を見た。 さて額になったところを見ると我ながら急に上手になった。 非常に嬉しい。 これなら立派なものだと 独 ( ひと )りで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が 覚 ( さ )めてやはり元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になってしまった。 主人は夢の 裡 ( うち )まで水彩画の未練を 背負 ( しょ )ってあるいていると見える。 これでは水彩画家は無論 夫子 ( ふうし )の 所謂 ( いわゆる )通人にもなれない 質 ( たち )だ。 主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁 眼鏡 ( めがね )の美学者が久し振りで主人を訪問した。 彼は座につくと 劈頭 ( へきとう )第一に「 画 ( え )はどうかね」と口を切った。 主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を 力 ( つと )めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ。 西洋では 昔 ( むか )しから写生を主張した結果 今日 ( こんにち )のように発達したものと思われる。 さすがアンドレア・デル・サルトだ」と日記の事は おくびにも出さないで、またアンドレア・デル・サルトに感心する。 美学者は笑いながら「実は君、あれは 出鱈目 ( でたらめ )だよ」と頭を 掻 ( か )く。 「何が」と主人はまだ ( いつ )わられた事に気がつかない。 「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。 あれは僕のちょっと 捏造 ( ねつぞう )した話だ。 君がそんなに 真面目 ( まじめ )に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の 体 ( てい )である。 吾輩は椽側でこの対話を聞いて彼の今日の日記にはいかなる事が 記 ( しる )さるるであろうかと 予 ( あらかじ )め想像せざるを得なかった。 この美学者はこんな 好 ( いい )加減な事を吹き散らして人を 担 ( かつ )ぐのを唯一の 楽 ( たのしみ )にしている男である。 彼はアンドレア・デル・サルト事件が主人の 情線 ( じょうせん )にいかなる響を伝えたかを 毫 ( ごう )も顧慮せざるもののごとく得意になって 下 ( しも )のような事を 饒舌 ( しゃべ )った。 「いや時々 冗談 ( じょうだん )を言うと人が 真 ( ま )に受けるので 大 ( おおい )に 滑稽的 ( こっけいてき )美感を 挑撥 ( ちょうはつ )するのは面白い。 せんだってある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。 ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておった。 それからまだ面白い話がある。 せんだって或る文学者のいる席でハリソンの歴史小説セオファーノの 話 ( はな )しが出たから僕はあれは歴史小説の 中 ( うち )で 白眉 ( はくび )である。 ことに女主人公が死ぬところは 鬼気 ( きき )人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんと云った事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。 それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」神経胃弱性の主人は眼を丸くして問いかけた。 「そんな 出鱈目 ( でたらめ )をいってもし相手が読んでいたらどうするつもりだ」あたかも人を 欺 ( あざむ )くのは 差支 ( さしつかえ )ない、ただ 化 ( ばけ )の 皮 ( かわ )があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。 美学者は少しも動じない。 「なにその 時 ( とき )ゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ」と云ってけらけら笑っている。 この美学者は金縁の眼鏡は掛けているがその性質が車屋の黒に似たところがある。 主人は黙って日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇気はないと云わんばかりの顔をしている。 美学者はそれだから 画 ( え )をかいても駄目だという目付で「しかし 冗談 ( じょうだん )は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁の しみを写せと教えた事があるそうだ。 なるほど 雪隠 ( せついん )などに 這入 ( はい )って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。 君注意して写生して見給えきっと面白いものが出来るから」「また 欺 ( だま )すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。 実際奇警な語じゃないか、ダ・ヴィンチでもいいそうな事だあね」「なるほど奇警には相違ないな」と主人は半分降参をした。 しかし彼はまだ雪隠で写生はせぬようだ。 車屋の黒はその 後 ( ご ) 跛 ( びっこ )になった。 彼の光沢ある毛は 漸々 ( だんだん )色が 褪 ( さ )めて抜けて来る。 吾輩が 琥珀 ( こはく )よりも美しいと評した彼の眼には 眼脂 ( めやに )が一杯たまっている。 ことに著るしく吾輩の注意を 惹 ( ひ )いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くなった事である。 吾輩が例の 茶園 ( ちゃえん )で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「 いたちの 最後屁 ( さいごっぺ )と 肴屋 ( さかなや )の 天秤棒 ( てんびんぼう )には 懲々 ( こりごり )だ」といった。 赤松の間に二三段の 紅 ( こう )を綴った 紅葉 ( こうよう )は 昔 ( むか )しの夢のごとく散って つくばいに近く代る代る 花弁 ( はなびら )をこぼした 紅白 ( こうはく )の 山茶花 ( さざんか )も残りなく落ち尽した。 三間半の南向の椽側に冬の日脚が早く傾いて 木枯 ( こがらし )の吹かない日はほとんど 稀 ( まれ )になってから吾輩の昼寝の時間も 狭 ( せば )められたような気がする。 主人は毎日学校へ行く。 帰ると書斎へ立て 籠 ( こも )る。 人が来ると、教師が 厭 ( いや )だ厭だという。 水彩画も滅多にかかない。 タカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。 小供は感心に休まないで幼稚園へかよう。 帰ると唱歌を歌って、 毬 ( まり )をついて、時々吾輩を 尻尾 ( しっぽ )でぶら下げる。 吾輩は 御馳走 ( ごちそう )も食わないから別段 肥 ( ふと )りもしないが、まずまず健康で 跛 ( びっこ )にもならずにその日その日を暮している。 鼠は決して取らない。 おさんは 未 ( いま )だに 嫌 ( きら )いである。 名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから 生涯 ( しょうがい )この教師の 家 ( うち )で無名の猫で終るつもりだ。 吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。 元朝早々主人の 許 ( もと )へ一枚の 絵端書 ( えはがき )が来た。 これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部を 深緑 ( ふかみど )りで塗って、その真中に一の動物が 蹲踞 ( うずくま )っているところをパステルで書いてある。 主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、 竪 ( たて )から眺めたりして、うまい色だなという。 すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。 からだを 拗 ( ね )じ向けたり、手を延ばして年寄が 三世相 ( さんぜそう )を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。 早くやめてくれないと 膝 ( ひざ )が揺れて 険呑 ( けんのん )でたまらない。 ようやくの事で動揺があまり 劇 ( はげ )しくなくなったと思ったら、小さな声で一体何をかいたのだろうと 云 ( い )う。 主人は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見える。 そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に 半 ( なか )ば開いて、落ちつき払って見ると 紛 ( まぎ )れもない、自分の肖像だ。 主人のようにアンドレア・デル・サルトを 極 ( き )め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。 誰が見たって猫に相違ない。 少し眼識のあるものなら、猫の 中 ( うち )でも 他 ( ほか )の猫じゃない吾輩である事が判然とわかるように立派に 描 ( か )いてある。 このくらい明瞭な事を分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。 出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてやりたい。 吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。 しかし人間というものは 到底 ( とうてい )吾輩 猫属 ( ねこぞく )の言語を解し得るくらいに天の 恵 ( めぐみ )に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。 ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくない。 人間の 糟 ( かす )から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無智に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありがちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃない。 いくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。 よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に 這入 ( はい )って見るとなかなか複雑なもので十人 十色 ( といろ )という人間界の 語 ( ことば )はそのままここにも応用が出来るのである。 目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。 髯 ( ひげ )の張り具合から耳の立ち 按排 ( あんばい )、 尻尾 ( しっぽ )の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。 器量、不器量、好き嫌い、 粋無粋 ( すいぶすい )の 数 ( かず )を 悉 ( つ )くして千差万別と云っても差支えないくらいである。 そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論 相貌 ( そうぼう )の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。 同類相求むとは 昔 ( むか )しからある 語 ( ことば )だそうだがその通り、 餅屋 ( もちや )は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。 いくら人間が発達したってこればかりは駄目である。 いわんや実際をいうと彼等が 自 ( みずか )ら信じているごとくえらくも何ともないのだからなおさらむずかしい。 またいわんや同情に乏しい吾輩の主人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義であるということすら分らない男なのだから仕方がない。 彼は性の悪い 牡蠣 ( かき )のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を 開 ( ひら )いた事がない。 それで自分だけはすこぶる達観したような 面構 ( つらがまえ )をしているのはちょっとおかしい。 達観しない証拠には現に吾輩の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様子もなく今年は征露の第二年目だから大方熊の 画 ( え )だろうなどと気の知れぬことをいってすましているのでもわかる。 吾輩が主人の 膝 ( ひざ )の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の 絵端書 ( えはがき )を持って来た。 見ると活版で舶来の猫が四五 疋 ( ひき )ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。 その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを 躍 ( おど )っている。 その上に日本の墨で「吾輩は猫である」と黒々とかいて、右の 側 ( わき )に書を読むや 躍 ( おど )るや猫の 春一日 ( はるひとひ )という俳句さえ 認 ( したた )められてある。 これは主人の旧門下生より来たので誰が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、 迂濶 ( うかつ )な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を 捻 ( ひね )って、はてな今年は猫の年かなと 独言 ( ひとりごと )を言った。 吾輩がこれほど有名になったのを 未 ( ま )だ気が着かずにいると見える。 ところへ下女がまた第三の端書を持ってくる。 今度は絵端書ではない。 恭賀新年とかいて、 傍 ( かたわ )らに 乍恐縮 ( きょうしゅくながら )かの猫へも 宜 ( よろ )しく 御伝声 ( ごでんせい ) 奉願上候 ( ねがいあげたてまつりそろ )とある。 いかに 迂遠 ( うえん )な主人でもこう明らさまに書いてあれば分るものと見えてようやく気が付いたようにフンと言いながら吾輩の顔を見た。 その眼付が今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた。 今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の 新面目 ( しんめんぼく )を施こしたのも、全く吾輩の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える。 おりから門の 格子 ( こうし )がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。 大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。 吾輩は 肴屋 ( さかなや )の梅公がくる時のほかは出ない事に 極 ( き )めているのだから、平気で、もとのごとく主人の膝に坐っておった。 すると主人は高利貸にでも飛び込まれたように不安な顔付をして玄関の方を見る。 何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが厭らしい。 人間もこのくらい 偏屈 ( へんくつ )になれば申し分はない。 そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無い。 いよいよ牡蠣の 根性 ( こんじょう )をあらわしている。 しばらくすると下女が来て 寒月 ( かんげつ )さんがおいでになりましたという。 この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという 話 ( はな )しである。 この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る。 来ると自分を 恋 ( おも )っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、 凄 ( すご )いような 艶 ( つや )っぽいような文句ばかり並べては帰る。 主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして 合点 ( がてん )が行かぬが、あの 牡蠣的 ( かきてき )主人がそんな談話を聞いて時々 相槌 ( あいづち )を打つのはなお面白い。 「しばらく御無沙汰をしました。 実は去年の暮から 大 ( おおい )に活動しているものですから、 出 ( で )よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の 紐 ( ひも )をひねくりながら 謎 ( なぞ )見たような事をいう。 「どっちの方角へ足が向くかね」と主人は真面目な顔をして、 黒木綿 ( くろもめん )の紋付羽織の 袖口 ( そでぐち )を引張る。 この羽織は木綿で ゆきが短かい、下からべんべら者が左右へ五分くらいずつはみ出している。 「エヘヘヘ少し違った方角で」と寒月君が笑う。 見ると今日は前歯が一枚欠けている。 「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。 「ええ実はある所で 椎茸 ( しいたけ )を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。 椎茸の 傘 ( かさ )を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか 爺々臭 ( じじいくさ )いね。 俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を 軽 ( かろ )く叩く。 「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は 大 ( おおい )に吾輩を 賞 ( ほ )める。 「近頃 大分 ( だいぶ )大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。 賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。 「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月君はまた話しをもとへ戻す。 「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。 ヴァイオリンが三 挺 ( ちょう )とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。 ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。 二人は女で 私 ( わたし )がその中へまじりましたが、自分でも善く 弾 ( ひ )けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人は 羨 ( うらや )ましそうに問いかける。 元来主人は平常 枯木寒巌 ( こぼくかんがん )のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと 惚 ( ほ )れる。 勘定をして見ると往来を通る婦人の 七割弱には 恋着 ( れんちゃく )するという事が 諷刺的 ( ふうしてき )に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。 そんな浮気な男が 何故 ( なぜ )牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには 到底 ( とうてい )分らない。 或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な 性質 ( たち )だからだとも云う。 どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。 しかし寒月君の 女連 ( おんなづ )れを羨まし 気 ( げ )に尋ねた事だけは事実である。 寒月君は面白そうに 口取 ( くちとり )の 蒲鉾 ( かまぼこ )を箸で挟んで半分前歯で食い切った。 吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。 「なに二人とも 去 ( さ )る所の令嬢ですよ、御存じの 方 ( かた )じゃありません」と 余所余所 ( よそよそ )しい返事をする。 「ナール」と主人は引張ったが「ほど」を略して考えている。 寒月君はもう 善 ( い )い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、 御閑 ( おひま )ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と 促 ( うな )がして見る。 主人は旅順の陥落より 女連 ( おんなづれ )の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。 やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の 紀念 ( かたみ )とかいう二十年来 着古 ( きふ )るした 結城紬 ( ゆうきつむぎ )の綿入を着たままである。 いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。 所々が薄くなって日に透かして見ると裏から つぎを当てた針の目が見える。 主人の服装には 師走 ( しわす )も正月もない。 ふだん着も 余所 ( よそ )ゆきもない。 出るときは 懐手 ( ふところで )をしてぶらりと出る。 ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、吾輩には分らぬ。 ただしこれだけは失恋のためとも思われない。 両人 ( ふたり )が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った 蒲鉾 ( かまぼこ )の残りを 頂戴 ( ちょうだい )した。 吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。 まず 桃川如燕 ( ももかわじょえん )以後の猫か、グレーの金魚を 偸 ( ぬす )んだ猫くらいの資格は充分あると思う。 車屋の黒などは 固 ( もと )より眼中にない。 蒲鉾の 一切 ( ひときれ )くらい頂戴したって人からかれこれ云われる事もなかろう。 それにこの人目を忍んで 間食 ( かんしょく )をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。 うちの 御三 ( おさん )などはよく細君の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。 御三ばかりじゃない現に上品な 仕付 ( しつけ )を受けつつあると細君から 吹聴 ( ふいちょう )せられている 小児 ( こども )ですらこの傾向がある。 四五日前のことであったが、二人の小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ主人夫婦の寝ている間に 対 ( むか )い合うて食卓に着いた。 彼等は毎朝主人の食う 麺麭 ( パン )の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど 砂糖壺 ( さとうつぼ )が 卓 ( たく )の上に置かれて 匙 ( さじ )さえ添えてあった。 いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から 一匙 ( ひとさじ )の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。 すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。 少 ( しば )らく 両人 ( りょうにん )は 睨 ( にら )み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。 小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。 すると姉がまた一杯すくった。 妹も負けずに一杯を附加した。 姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。 見ている 間 ( ま )に一杯一杯一杯と重なって、ついには 両人 ( ふたり )の皿には山盛の砂糖が 堆 ( うずたか )くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ 眼 ( まなこ )を 擦 ( こす )りながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。 こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より 優 ( まさ )っているかも知れぬが、 智慧 ( ちえ )はかえって猫より劣っているようだ。 そんなに山盛にしないうちに早く 甞 ( な )めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら 御櫃 ( おはち )の上から黙って見物していた。 寒月君と出掛けた主人はどこをどう 歩行 ( ある )いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に 就 ( つ )いたのは九時頃であった。 例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって 雑煮 ( ぞうに )を食っている。 代えては食い、代えては食う。 餅の切れは小さいが、何でも 六切 ( むきれ )か 七切 ( ななきれ )食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと 箸 ( はし )を置いた。 他人がそんな 我儘 ( わがまま )をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に 焦 ( こ )げ 爛 ( ただ )れた餅の死骸を見て平気ですましている。 妻君が 袋戸 ( ふくろど )の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは 利 ( き )かないから飲まん」という。 「でもあなた 澱粉質 ( でんぷんしつ )のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。 「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と 頑固 ( がんこ )に出る。 「あなたはほんとに 厭 ( あ )きっぽい」と細君が 独言 ( ひとりごと )のようにいう。 「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と 対句 ( ついく )のような返事をする。 「そんなに飲んだり 止 ( や )めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く 気遣 ( きづか )いはありません、もう少し 辛防 ( しんぼう )がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた 御三 ( おさん )を顧みる。 「それは本当のところでございます。 もう少し召し上ってご覧にならないと、とても 善 ( よ )い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。 「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非 詰腹 ( つめばら )を切らせようとする。 主人は何にも云わず立って書斎へ 這入 ( はい )る。 細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。 こんなときに 後 ( あと )からくっ付いて行って 膝 ( ひざ )の上へ乗ると、大変な目に 逢 ( あ )わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ 上 ( あが )って障子の 隙 ( すき )から 覗 ( のぞ )いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を 披 ( ひら )いて見ておった。 もしそれが 平常 ( いつも )の通りわかるならちょっとえらいところがある。 五六分するとその本を 叩 ( たた )き付けるように机の上へ 抛 ( ほう )り出す。 大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して 下 ( しも )のような事を書きつけた。 宝丹 ( ほうたん )の 角 ( かど )を曲るとまた一人芸者が来た。 これは 背 ( せい )のすらりとした 撫肩 ( なでがた )の 恰好 ( かっこう )よく出来上った女で、着ている薄紫の 衣服 ( きもの )も素直に着こなされて上品に見えた。 ただしその声は 旅鴉 ( たびがらす )のごとく 皺枯 ( しゃが )れておったので、せっかくの 風采 ( ふうさい )も 大 ( おおい )に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、 懐手 ( ふところで )のまま 御成道 ( おなりみち )へ出た。 寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。 人間の心理ほど 解 ( げ )し難いものはない。 この主人の今の心は 怒 ( おこ )っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に 一道 ( いちどう )の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。 世の中を冷笑しているのか、世の中へ 交 ( まじ )りたいのだか、くだらぬ事に 肝癪 ( かんしゃく )を起しているのか、 物外 ( ぶつがい )に 超然 ( ちょうぜん )としているのだかさっぱり 見当 ( けんとう )が付かぬ。 猫などはそこへ行くと単純なものだ。 食いたければ食い、寝たければ寝る、 怒 ( おこ )るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。 第一日記などという無用のものは決してつけない。 つける必要がないからである。 主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等 猫属 ( ねこぞく )に至ると 行住坐臥 ( ぎょうじゅうざが )、 行屎送尿 ( こうしそうにょう )ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な 手数 ( てかず )をして、 己 ( おの )れの 真面目 ( しんめんもく )を保存するには及ばぬと思う。 日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。 彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。 漬物さえ断てば胃病の源を 涸 ( か )らす訳だから本復は疑なしという論法であった。 それから一週間ばかり香の物に 箸 ( はし )を触れなかったが別段の 験 ( げん )も見えなかったから近頃はまた食い出した。 ただし普通のではゆかぬ。 皆川流 ( みながわりゅう )という古流な 揉 ( も )み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。 安井息軒 ( やすいそっけん )も大変この 按摩術 ( あんまじゅつ )を愛していた。 坂本竜馬 ( さかもとりょうま )のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速 上根岸 ( かみねぎし )まで出掛けて 揉 ( も )まして見た。 ところが骨を 揉 ( も )まなければ 癒 ( なお )らぬとか、臓腑の位置を一度 顛倒 ( てんとう )しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な 揉 ( も )み方をやる。 後で身体が綿のようになって 昏睡病 ( こんすいびょう )にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。 A君は是非固形体を食うなという。 それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。 B氏は 横膈膜 ( おうかくまく )で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。 これも多少やったが何となく 腹中 ( ふくちゅう )が不安で困る。 それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。 忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。 美学者の 迷亭 ( めいてい )がこの 体 ( てい )を見て、 産気 ( さんけ )のついた男じゃあるまいし 止 ( よ )すがいいと冷かしたからこの頃は 廃 ( よ )してしまった。 C先生は 蕎麦 ( そば )を食ったらよかろうと云うから、早速 かけと もりをかわるがわる食ったが、これは腹が 下 ( くだ )るばかりで何等の功能もなかった。 余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。 ただ 昨夜 ( ゆうべ )寒月と傾けた三杯の正宗はたしかに 利目 ( ききめ )がある。 これからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。 これも決して長く続く事はあるまい。 主人の心は吾輩の 眼球 ( めだま )のように間断なく変化している。 何をやっても 永持 ( ながもち )のしない男である。 その上日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は 大 ( おおい )に痩我慢をするからおかしい。 せんだってその友人で 某 ( なにがし )という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと云う議論をした。 大分 ( だいぶ )研究したものと見えて、条理が 明晰 ( めいせき )で秩序が整然として立派な説であった。 気の毒ながらうちの主人などは到底これを 反駁 ( はんばく )するほどの頭脳も学問もないのである。 しかし自分が胃病で苦しんでいる 際 ( さい )だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。 すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と 極 ( き )め付けたので主人は 黙然 ( もくねん )としていた。 かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。 考えて見ると今朝 雑煮 ( ぞうに )をあんなにたくさん食ったのも 昨夜 ( ゆうべ )寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。 吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。 吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。 車屋の黒のように横丁の 肴屋 ( さかなや )まで遠征をする気力はないし、 新道 ( しんみち )の 二絃琴 ( にげんきん )の師匠の 所 ( とこ )の 三毛 ( みけ )のように 贅沢 ( ぜいたく )は無論云える身分でない。 従って存外 嫌 ( きらい )は少ない方だ。 小供の食いこぼした 麺麭 ( パン )も食うし、餅菓子の ( あん )もなめる。 香 ( こう )の 物 ( もの )はすこぶるまずいが経験のため 沢庵 ( たくあん )を二切ばかりやった事がある。 食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。 あれは 嫌 ( いや )だ、これは嫌だと云うのは 贅沢 ( ぜいたく )な我儘で到底教師の 家 ( うち )にいる猫などの口にすべきところでない。 主人の話しによると 仏蘭西 ( フランス )にバルザックという小説家があったそうだ。 バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。 ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。 友人は 固 ( もと )より 何 ( なんに )も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは 兼 ( か )ねて自分の苦心している名を 目付 ( めつけ )ようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て 歩行 ( ある )いている。 ところがやはり気に入った名がない。 友人を連れて 無暗 ( むやみ )にあるく。 友人は訳がわからずにくっ付いて行く。 彼等はついに朝から晩まで 巴理 ( パリ )を探険した。 その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。 見るとその看板にマーカスという名がかいてある。 バルザックは手を 拍 ( う )って「これだこれだこれに限る。 マーカスは好い名じゃないか。 マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し 分 ( ぶん )のない名が出来る。 Zでなくてはいかん。 Marcus は実にうまい。 どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく 故意 ( わざ )とらしいところがあって面白くない。 ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに 一日 ( いちんち ) 巴理 ( パリ )を探険しなくてはならぬようでは随分 手数 ( てすう )のかかる話だ。 贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように 牡蠣的 ( かきてき )主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。 何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。 だから今 雑煮 ( ぞうに )が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、主人の食い 剰 ( あま )した雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。 ……台所へ廻って見る。 今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に 膠着 ( こうちゃく )している。 白状するが餅というものは今まで一 辺 ( ぺん )も口に入れた事がない。 見るとうまそうにもあるし、また少しは 気味 ( きび )がわるくもある。 前足で上にかかっている菜っ葉を 掻 ( か )き寄せる。 爪を見ると餅の 上皮 ( うわかわ )が引き掛ってねばねばする。 嗅 ( か )いで見ると釜の底の飯を 御櫃 ( おはち )へ移す時のような 香 ( におい )がする。 食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。 幸か不幸か誰もいない。 御三 ( おさん )は暮も春も同じような顔をして羽根をついている。 小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。 食うとすれば今だ。 もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。 吾輩はこの 刹那 ( せつな )に猫ながら一の真理を感得した。 「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は実を云うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。 否 椀底 ( わんてい )の様子を熟視すればするほど 気味 ( きび )が悪くなって、食うのが厭になったのである。 この時もし御三でも勝手口を開けたなら、奥の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は 惜気 ( おしげ )もなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。 ところが誰も来ない、いくら 躇 ( ちゅうちょ )していても誰も来ない。 早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。 吾輩は椀の中を 覗 ( のぞ )き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。 やはり誰も来てくれない。 吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。 最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を 一寸 ( いっすん )ばかり食い込んだ。 このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら 噛 ( か )み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。 もう一 辺 ( ぺん )噛み直そうとすると動きがとれない。 餅は魔物だなと 疳 ( かん )づいた時はすでに遅かった。 沼へでも落ちた人が足を抜こうと 焦慮 ( あせ )るたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。 歯答えはあるが、歯答えがあるだけでどうしても始末をつける事が出来ない。 美学者迷亭先生がかつて吾輩の主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、なるほどうまい事をいったものだ。 この餅も主人と同じようにどうしても割り切れない。 噛んでも噛んでも、三で十を割るごとく 尽未来際方 ( じんみらいざいかた )のつく 期 ( ご )はあるまいと思われた。 この 煩悶 ( はんもん )の際吾輩は覚えず第二の真理に 逢着 ( ほうちゃく )した。 「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので 毫 ( ごう )も愉快を感じない。 歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。 早く食い切って逃げないと 御三 ( おさん )が来る。 小供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ 馳 ( か )け出して来るに相違ない。 煩悶の 極 ( きょく ) 尻尾 ( しっぽ )をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。 考えて見ると耳と 尻尾 ( しっぽ )は餅と何等の関係もない。 要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。 ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。 まず右の方をあげて口の周囲を 撫 ( な )で廻す。 撫 ( な )でたくらいで割り切れる訳のものではない。 今度は 左 ( ひだ )りの方を 伸 ( のば )して口を中心として急劇に円を 劃 ( かく )して見る。 そんな 呪 ( まじな )いで魔は落ちない。 辛防 ( しんぼう )が 肝心 ( かんじん )だと思って左右 交 ( かわ )る 交 ( がわ )るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。 ええ面倒だと両足を一度に使う。 すると不思議な事にこの時だけは 後足 ( あとあし )二本で立つ事が出来た。 何だか猫でないような感じがする。 猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ 掻 ( か )き廻す。 前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。 倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。 我ながらよくこんなに器用に 起 ( た )っていられたものだと思う。 第三の真理が 驀地 ( ばくち )に 現前 ( げんぜん )する。 「危きに 臨 ( のぞ )めば平常なし 能 ( あた )わざるところのものを 為 ( な )し能う。 之 ( これ )を 天祐 ( てんゆう )という」 幸 ( さいわい )に天祐を 享 ( う )けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような 気合 ( けわい )である。 ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ 躍起 ( やっき )となって台所をかけ廻る。 足音はだんだん近付いてくる。 ああ残念だが天祐が少し足りない。 とうとう小供に見付けられた。 「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。 この声を第一に聞きつけたのが御三である。 羽根も羽子板も打ち 遣 ( や )って勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。 細君は 縮緬 ( ちりめん )の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。 主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。 面白い面白いと云うのは小供ばかりである。 そうしてみんな申し合せたようにげらげら笑っている。 腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。 ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので 狂瀾 ( きょうらん )を 既倒 ( きとう )に何とかするという勢でまた大変笑われた。 人間の同情に乏しい実行も 大分 ( だいぶ ) 見聞 ( けんもん )したが、この時ほど 恨 ( うら )めしく感じた事はなかった。 ついに天祐もどっかへ消え 失 ( う )せて、在来の通り 四 ( よ )つ 這 ( ばい )になって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。 さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と主人が御三に命ずる。 御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で細君を見る。 細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。 「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を 顧 ( かえり )みる。 御三 ( おさん )は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。 寒月 ( かんげつ )君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。 どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を 情 ( なさ )け容赦もなく引張るのだからたまらない。 吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」と云う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人はすでに奥座敷へ 這入 ( はい )ってしまっておった。 こんな失敗をした時には内にいて御三なんぞに顔を見られるのも何となくばつが悪い。 いっその事気を 易 ( か )えて新道の 二絃琴 ( にげんきん )の御師匠さんの 所 ( とこ )の 三毛子 ( みけこ )でも訪問しようと台所から裏へ出た。 三毛子はこの近辺で有名な 美貌家 ( びぼうか )である。 吾輩は猫には相違ないが物の 情 ( なさ )けは一通り心得ている。 うちで主人の 苦 ( にが )い顔を見たり、御三の 険突 ( けんつく )を食って気分が 勝 ( すぐ )れん時は必ずこの異性の 朋友 ( ほうゆう )の 許 ( もと )を訪問していろいろな話をする。 すると、いつの 間 ( ま )にか心が 晴々 ( せいせい )して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。 女性の影響というものは実に 莫大 ( ばくだい )なものだ。 杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく 椽側 ( えんがわ )に坐っている。 その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。 曲線の美を尽している。 尻尾 ( しっぽ )の曲がり加減、足の折り具合、 物憂 ( ものう )げに耳をちょいちょい振る 景色 ( けしき )なども 到底 ( とうてい )形容が出来ん。 ことによく日の当る所に暖かそうに、 品 ( ひん )よく 控 ( ひか )えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、 天鵞毛 ( びろうど )を 欺 ( あざむ )くほどの 滑 ( なめ )らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。 吾輩はしばらく 恍惚 ( こうこつ )として 眺 ( なが )めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。 三毛子は「あら先生」と椽を下りる。 赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。 おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいい 音 ( ね )だと感心している 間 ( ま )に、吾輩の 傍 ( そば )に来て「あら先生、おめでとう」と尾を 左 ( ひだ )りへ振る。 吾等 猫属 ( ねこぞく )間で御互に挨拶をするときには尾を棒のごとく立てて、それを左りへぐるりと廻すのである。 町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの三毛子ばかりである。 吾輩は前回断わった通りまだ名はないのであるが、教師の 家 ( うち )にいるものだから三毛子だけは尊敬して先生先生といってくれる。 吾輩も先生と云われて 満更 ( まんざら )悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。 「やあおめでとう、大層立派に御化粧が出来ましたね」「ええ去年の暮 御師匠 ( おししょう )さんに買って頂いたの、 宜 ( い )いでしょう」とちゃらちゃら鳴らして見せる。 「なるほど善い 音 ( ね )ですな、吾輩などは生れてから、そんな立派なものは見た事がないですよ」「あらいやだ、みんなぶら下げるのよ」とまたちゃらちゃら鳴らす。 「いい 音 ( ね )でしょう、あたし嬉しいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃら続け様に鳴らす。 「あなたのうちの御師匠さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね」と吾身に引きくらべて 暗 ( あん )に 欣羨 ( きんせん )の意を 洩 ( も )らす。 三毛子は無邪気なものである「ほんとよ、まるで自分の小供のようよ」とあどけなく笑う。 猫だって笑わないとは限らない。 人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。 吾輩が笑うのは鼻の 孔 ( あな )を三角にして 咽喉仏 ( のどぼとけ )を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。 「一体あなたの 所 ( とこ )の御主人は何ですか」「あら御主人だって、妙なのね。 御師匠 ( おししょう )さんだわ。 二絃琴 ( にげんきん )の御師匠さんよ」「それは吾輩も知っていますがね。 その御身分は何なんです。 いずれ 昔 ( むか )しは立派な方なんでしょうな」「ええ」 君を待つ 間 ( ま )の姫小松…………… 障子の内で御師匠さんが二絃琴を 弾 ( ひ )き出す。 「 宜 ( い )い声でしょう」と三毛子は自慢する。 「 宜 ( い )いようだが、吾輩にはよくわからん。 全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。 御師匠さんはあれが大好きなの。 ……御師匠さんはあれで六十二よ。 随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と云わねばなるまい。 吾輩は「はあ」と返事をした。 少し 間 ( ま )が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。 「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。 いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも 天璋院 ( てんしょういん )様の 御祐筆 ( ごゆうひつ )の妹の御嫁に行った 先 ( さ )きの 御 ( お )っかさんの 甥 ( おい )の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。 少し待って下さい。 天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。 妹の御嫁に 入 ( い )った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。 分ったでしょう」「いいえ。 何だか混雑して要領を得ないですよ。 詰 ( つま )るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。 だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、 先 ( さ )っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。 吾々は時とすると理詰の 虚言 ( うそ )を 吐 ( つ )かねばならぬ事がある。 障子の 中 ( うち )で二絃琴の 音 ( ね )がぱったりやむと、御師匠さんの声で「三毛や三毛や御飯だよ」と呼ぶ。 三毛子は嬉しそうに「あら御師匠さんが呼んでいらっしゃるから、 私 ( あた )し帰るわ、よくって?」わるいと云ったって仕方がない。 「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急に戻って来て「あなた大変色が悪くってよ。 どうかしやしなくって」と心配そうに問いかける。 まさか 雑煮 ( ぞうに )を食って踊りを踊ったとも云われないから「何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。 あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ」「そう。 御大事になさいまし。 さようなら」少しは 名残 ( なご )り惜し気に見えた。 これで雑煮の元気もさっぱりと回復した。 いい心持になった。 帰りに例の 茶園 ( ちゃえん )を通り抜けようと思って 霜柱 ( しもばしら )の 融 ( と )けかかったのを踏みつけながら 建仁寺 ( けんにんじ )の 崩 ( くず )れから顔を出すとまた車屋の黒が枯菊の上に 背 ( せ )を山にして 欠伸 ( あくび )をしている。 近頃は黒を見て恐怖するような吾輩ではないが、話しをされると面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。 黒の性質として 他 ( ひと )が 己 ( おの )れを 軽侮 ( けいぶ )したと認むるや否や決して黙っていない。 「おい、名なしの 権兵衛 ( ごんべえ )、近頃じゃ 乙 ( おつ )う高く留ってるじゃあねえか。 いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきな 面 ( つ )らあするねえ。 人 ( ひと )つけ面白くもねえ」黒は吾輩の有名になったのを、まだ知らんと見える。 説明してやりたいが 到底 ( とうてい )分る奴ではないから、まず一応の挨拶をして出来得る限り早く 御免蒙 ( ごめんこうむ )るに 若 ( し )くはないと決心した。 「いや黒君おめでとう。 不相変 ( あいかわらず )元気がいいね」と 尻尾 ( しっぽ )を立てて左へくるりと廻わす。 黒は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。 「何おめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、御めえなんざあ年が年中おめでてえ方だろう。 気をつけろい、この 吹 ( ふ )い 子 ( ご )の 向 ( むこ )う 面 ( づら )め」吹い子の向うづらという句は 罵詈 ( ばり )の言語であるようだが、吾輩には了解が出来なかった。 「ちょっと 伺 ( うか )がうが吹い子の向うづらと云うのはどう云う意味かね」「へん、手めえが 悪体 ( あくたい )をつかれてる癖に、その 訳 ( わけ )を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。 参考のためちょっと聞いておきたいが、聞いたって明瞭な答弁は得られぬに 極 ( き )まっているから、 面 ( めん )と 対 ( むか )ったまま無言で立っておった。 いささか手持無沙汰の 体 ( てい )である。 すると突然黒のうちの 神 ( かみ )さんが大きな声を張り揚げて「おや棚へ上げて置いた 鮭 ( しゃけ )がない。 大変だ。 またあの黒の 畜生 ( ちきしょう )が取ったんだよ。 ほんとに憎らしい猫だっちゃありゃあしない。 今に帰って来たら、どうするか見ていやがれ」と 怒鳴 ( どな )る。 初春 ( はつはる )の 長閑 ( のどか )な空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君が 御代 ( みよ )を 大 ( おおい )に 俗了 ( ぞくりょう )してしまう。 黒は怒鳴るなら、怒鳴りたいだけ怒鳴っていろと云わぬばかりに横着な顔をして、四角な 顋 ( あご )を前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。 今までは黒との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになって転がっている。 「君 不相変 ( あいかわらず )やってるな」と今までの行き掛りは忘れて、つい感投詞を奉呈した。 黒はそのくらいな事ではなかなか機嫌を直さない。 「何がやってるでえ、この野郎。 しゃけの一切や二切で相変らずたあ何だ。 人を 見縊 ( みく )びった事をいうねえ。 憚 ( はばか )りながら車屋の黒だあ」と腕まくりの代りに右の前足を 逆 ( さ )かに肩の 辺 ( へん )まで 掻 ( か )き上げた。 「君が黒君だと云う事は、始めから知ってるさ」「知ってるのに、相変らずやってるたあ何だ。 何だてえ事よ」と熱いのを 頻 ( しき )りに吹き懸ける。 人間なら 胸倉 ( むなぐら )をとられて小突き廻されるところである。 少々 辟易 ( へきえき )して内心困った事になったなと思っていると、再び例の神さんの大声が聞える。 「ちょいと西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。 牛肉を一 斤 ( きん )すぐ持って来るんだよ。 いいかい、分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」と牛肉注文の声が 四隣 ( しりん )の 寂寞 ( せきばく )を破る。 「へん年に一遍牛肉を 誂 ( あつら )えると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。 牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ 阿魔 ( あま )だ」と黒は 嘲 ( あざけ )りながら四つ足を 踏張 ( ふんば )る。 吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。 「一斤くらいじゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分のために 誂 ( あつら )えたもののごとくいう。 「今度は本当の御馳走だ。 結構結構」と吾輩はなるべく彼を帰そうとする。 「御めっちの知った事じゃねえ。 黙っていろ。 うるせえや」と云いながら突然 後足 ( あとあし )で 霜柱 ( しもばしら )の 崩 ( くず )れた奴を吾輩の頭へばさりと 浴 ( あ )びせ掛ける。 吾輩が驚ろいて、からだの泥を払っている 間 ( ま )に黒は垣根を 潜 ( くぐ )って、どこかへ姿を隠した。 大方西川の 牛 ( ぎゅう )を 覘 ( ねらい )に行ったものであろう。 家 ( うち )へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞える。 はてなと明け放した椽側から 上 ( あが )って主人の 傍 ( そば )へ寄って見ると見馴れぬ客が来ている。 頭を奇麗に分けて、 木綿 ( もめん )の紋付の羽織に 小倉 ( こくら )の 袴 ( はかま )を着けて 至極 ( しごく )真面目そうな 書生体 ( しょせいてい )の男である。 主人の手あぶりの角を見ると 春慶塗 ( しゅんけいぬ )りの 巻煙草 ( まきたばこ )入れと並んで 越智東風君 ( おちとうふうくん )を紹介致 候 ( そろ )水島寒月という名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるという事も知れた。 主客 ( しゅかく )の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君の事に関しているらしい。 「それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので」と客は落ちついて云う。 「何ですか、その西洋料理へ行って 午飯 ( ひるめし )を食うのについて趣向があるというのですか」と主人は茶を 続 ( つ )ぎ足して客の前へ押しやる。 「さあ、その趣向というのが、その時は私にも分らなかったんですが、いずれあの 方 ( かた )の事ですから、何か面白い種があるのだろうと思いまして……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」主人はそれ見たかと云わぬばかりに、 膝 ( ひざ )の上に乗った吾輩の頭をぽかと 叩 ( たた )く。 少し痛い。 「また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。 あの男はあれが癖でね」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。 「へへー。 大方これから行くつもりのところを、過去に見立てた 洒落 ( しゃれ )なんでしょう」と主人は自分ながらうまい事を言ったつもりで誘い出し笑をする。 客はさまで感服した様子もない。 「そうですか、私はまたいつの 間 ( ま )に洋行なさったかと思って、つい真面目に拝聴していました。 それに見て来たように なめくじのソップの御話や 蛙 ( かえる )のシチュの形容をなさるものですから」「そりゃ誰かに聞いたんでしょう、うそをつく事はなかなか名人ですからね」「どうもそうのようで」と 花瓶 ( かびん )の水仙を眺める。 少しく残念の 気色 ( けしき )にも取られる。 「じゃ趣向というのは、それなんですね」と主人が念を押す。 「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」「ふーん」と主人は好奇的な感投詞を 挟 ( はさ )む。 「それから、とても なめくじや蛙は食おうっても食えやしないから、まあ トチメンボーくらいなところで負けとく事にしようじゃないか君と御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「へー、とちめんぼうは妙ですな」「ええ全く妙なのですが、先生があまり真面目だものですから、つい気がつきませんでした」とあたかも主人に向って 麁忽 ( そこつ )を 詫 ( わ )びているように見える。 「それからどうしました」と主人は無頓着に聞く。 客の謝罪には一向同情を表しておらん。 「それからボイにおい トチメンボーを 二人前 ( ににんまえ )持って来いというと、ボイが メンチボーですかと聞き直しましたが、先生はますます 真面目 ( まじめ )な 貌 ( かお )で メンチボーじゃない トチメンボーだと訂正されました」「なある。 その トチメンボーという料理は一体あるんですか」「さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えて トチメンボーだ トチメンボーだとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考えると実に 滑稽 ( こっけい )なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが今日は トチメンボーは 御生憎様 ( おあいにくさま )で メンチボーなら 御二人前 ( おふたりまえ )すぐに出来ますと云うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来た 甲斐 ( かい )がない。 どうか トチメンボーを 都合 ( つごう )して食わせてもらう 訳 ( わけ )には行くまいかと、ボイに二十銭銀貨をやられると、ボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」「大変 トチメンボーが食いたかったと見えますね」「しばらくしてボイが出て来て 真 ( まこと )に御生憎で、 御誂 ( おあつらえ )ならこしらえますが少々時間がかかります、と云うと迷亭先生は落ちついたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食って行こうじゃないかと云いながらポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始められたので、 私 ( わたく )しも仕方がないから、 懐 ( ふところ )から日本新聞を出して読み出しました、するとボイはまた奥へ相談に行きましたよ」「いやに 手数 ( てすう )が掛りますな」と主人は戦争の通信を読むくらいの意気込で席を 前 ( すす )める。 「するとボイがまた出て来て、近頃は トチメンボーの材料が払底で亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと気の毒そうに云うと、先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも 遺憾 ( いかん )ですな、遺憾 極 ( きわま )るですなと調子を合せたのです」「ごもっともで」と主人が賛成する。 何がごもっともだか吾輩にはわからん。 「するとボイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。 先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはへへへへと笑って返事をしないんです。 材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんので、まことにお気の毒様と云いましたよ」「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い」と主人はいつになく大きな声で笑う。 膝 ( ひざ )が揺れて吾輩は落ちかかる。 主人はそれにも 頓着 ( とんじゃく )なく笑う。 アンドレア・デル・サルトに 罹 ( かか )ったのは自分一人でないと云う事を知ったので急に愉快になったものと見える。 「それから二人で表へ出ると、どうだ君うまく行ったろう、 橡面坊 ( とちめんぼう )を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。 敬服の至りですと云って御別れしたようなものの実は 午飯 ( ひるめし )の時刻が延びたので大変空腹になって弱りましたよ」「それは御迷惑でしたろう」と主人は始めて同情を表する。 これには吾輩も異存はない。 しばらく話しが途切れて吾輩の 咽喉 ( のど )を鳴らす音が 主客 ( しゅかく )の耳に入る。 東風君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「実は今日参りましたのは、少々先生に御願があって参ったので」と改まる。 「はあ、何か御用で」と主人も負けずに 済 ( す )ます。 「御承知の通り、文学美術が好きなものですから……」「結構で」と油を 注 ( さ )す。 「同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして、毎月一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一回は去年の暮に開いたくらいであります」「ちょっと伺っておきますが、朗読会と云うと何か 節奏 ( ふし )でも附けて、 詩歌 ( しいか )文章の 類 ( るい )を読むように聞えますが、一体どんな風にやるんです」「まあ初めは古人の作からはじめて、 追々 ( おいおい )は同人の創作なんかもやるつもりです」「古人の作というと 白楽天 ( はくらくてん )の 琵琶行 ( びわこう )のようなものででもあるんですか」「いいえ」「 蕪村 ( ぶそん )の 春風馬堤曲 ( しゅんぷうばていきょく )の種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだっては近松の 心中物 ( しんじゅうもの )をやりました」「近松? あの 浄瑠璃 ( じょうるり )の近松ですか」近松に二人はない。 近松といえば戯曲家の近松に 極 ( きま )っている。 それを聞き直す主人はよほど 愚 ( ぐ )だと思っていると、主人は何にも分らずに吾輩の頭を 叮嚀 ( ていねい )に 撫 ( な )でている。 藪睨 ( やぶにら )みから 惚 ( ほ )れられたと自認している人間もある世の中だからこのくらいの 誤謬 ( ごびゅう )は決して驚くに足らんと撫でらるるがままにすましていた。 「ええ」と答えて 東風子 ( とうふうし )は主人の顔色を 窺 ( うかが )う。 「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を 極 ( き )めてやるんですか」「役を極めて 懸合 ( かけあい )でやって見ました。 その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。 白 ( せりふ )はなるべくその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも 丁稚 ( でっち )でも、その人物が出てきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ 衣装 ( いしょう )と 書割 ( かきわり )がないくらいなものですな」「失礼ながらうまく行きますか」「まあ第一回としては成功した方だと思います」「それでこの前やったとおっしゃる心中物というと」「その、船頭が御客を乗せて 芳原 ( よしわら )へ行く 所 ( とこ )なんで」「大変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を 傾 ( かたむ )ける。 鼻から吹き出した 日の出の煙りが耳を 掠 ( かす )めて顔の横手へ廻る。 「なあに、そんなに大変な事もないんです。 登場の人物は御客と、船頭と、 花魁 ( おいらん )と 仲居 ( なかい )と 遣手 ( やりて )と 見番 ( けんばん )だけですから」と東風子は平気なものである。 主人は花魁という名をきいてちょっと 苦 ( にが )い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈出した。 「仲居というのは 娼家 ( しょうか )の 下婢 ( かひ )にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが 女部屋 ( おんなべや )の 助役 ( じょやく )見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出て来るように 仮色 ( こわいろ )を使うと云った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。 「なるほど仲居は茶屋に 隷属 ( れいぞく )するもので、遣手は娼家に 起臥 ( きが )する者ですね。 次に 見番と云うのは人間ですかまたは一定の場所を 指 ( さ )すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を 司 ( つかさ )どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。 その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には 頓珍漢 ( とんちんかん )なものが出来るだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。 主人は存外真面目である。 「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。 花魁が法学士のK君でしたが、 口髯 ( くちひげ )を生やして、女の甘ったるいせりふを 使 ( つ )かうのですからちょっと妙でした。 それにその花魁が 癪 ( しゃく )を起すところがあるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。 「ええとにかく表情が大事ですから」と東風子はどこまでも文芸家の気でいる。 「うまく癪が起りましたか」と主人は警句を吐く。 「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。 「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。 「 私 ( わたく )しは船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が 務 ( つと )まるものなら僕にも見番くらいはやれると云ったような語気を 洩 ( も )らす。 やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明ける。 東風子は別段癪に障った様子もない。 やはり沈着な口調で「その船頭でせっかくの催しも 竜頭蛇尾 ( りゅうとうだび )に終りました。 実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。 私 ( わたく )しが船頭の 仮色 ( こわいろ )を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで 耐 ( こ )らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、 極 ( きま )りが 悪 ( わ )るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても 後 ( あと )がつづけられないので、とうとうそれ 限 ( ぎ )りで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。 覚えず 咽喉仏 ( のどぼとけ )がごろごろ鳴る。 主人はいよいよ柔かに頭を 撫 ( な )でてくれる。 人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。 「それは飛んだ事で」と主人は正月早々 弔詞 ( ちょうじ )を述べている。 「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。 「いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と云いながら紫の風呂敷から大事そうに 小菊版 ( こぎくばん )の帳面を出す。 「これへどうか御署名の上 御捺印 ( ごなついん )を願いたいので」と帳面を主人の 膝 ( ひざ )の前へ開いたまま置く。 見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく 勢揃 ( せいぞろい )をしている。 「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と 牡蠣先生 ( かきせんせい )は 掛念 ( けねん )の 体 ( てい )に見える。 「義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ 御表 ( おひょう )し 被下 ( くださ )ればそれで結構です」「そんなら 這入 ( はい )ります」と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。 責任さえないと云う事が分っておれば 謀叛 ( むほん )の連判状へでも名を書き入れますと云う顔付をする。 加之 ( のみならず )こう知名の学者が名前を 列 ( つら )ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。 「ちょっと失敬」と主人は書斎へ印をとりに這入る。 吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。 東風子は菓子皿の中の カステラをつまんで一口に 頬張 ( ほおば )る。 モゴモゴしばらくは苦しそうである。 吾輩は今朝の 雑煮 ( ぞうに )事件をちょっと思い出す。 主人が書斎から 印形 ( いんぎょう )を持って出て来た時は、東風子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。 主人は菓子皿のカステラが 一切 ( ひときれ )足りなくなった事には気が着かぬらしい。 もし気がつくとすれば第一に疑われるものは吾輩であろう。 東風子が帰ってから、主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの 間 ( ま )にか迷亭先生の手紙が来ている。 「新年の 御慶 ( ぎょけい ) 目出度 ( めでたく ) 申納候 ( もうしおさめそろ )。 ……」 いつになく出が真面目だと主人が思う。 迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどないので、この間などは「 其後 ( そのご )別に 恋着 ( れんちゃく )せる婦人も 無之 ( これなく )、いず 方 ( かた )より 艶書 ( えんしょ )も参らず、 先 ( ま )ず 先 ( ま )ず無事に消光 罷 ( まか )り在り 候 ( そろ )間、 乍憚 ( はばかりながら )御休心 可被下候 ( くださるべくそろ )」と云うのが来たくらいである。 それに 較 ( くら )べるとこの年始状は例外にも世間的である。 「彼等は食後必ず入浴 致候 ( いたしそろ )。 入浴後一種の方法によりて 浴前 ( よくぜん )に 嚥下 ( えんか )せるものを 悉 ( ことごと )く 嘔吐 ( おうと )し、胃内を掃除致し 候 ( そろ )。 胃内廓清 ( いないかくせい )の功を奏したる 後 ( のち )又食卓に 就 ( つ )き、 飽 ( あ )く迄珍味を 風好 ( ふうこう )し、風好し 了 ( おわ )れば又湯に入りて 之 ( これ )を 吐出 ( としゅつ ) 致候 ( いたしそろ )。 かくの如くすれば好物は 貪 ( むさ )ぼり次第貪り 候 ( そうろう )も 毫 ( ごう )も内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とは此等の事を 可申 ( もうすべき )かと愚考 致候 ( いたしそろ )……」 なるほど一挙両得に相違ない。 主人は 羨 ( うらや )ましそうな顔をする。 「廿世紀の 今日 ( こんにち )交通の 頻繁 ( ひんぱん )、宴会の増加は申す迄もなく、軍国多事征露の第二年とも相成 候折柄 ( そろおりから )、吾人戦勝国の国民は、是非共 羅馬 ( ローマ )人に 傚 ( なら )って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し 候 ( そろ )事と自信 致候 ( いたしそろ )。 左 ( さ )もなくば 切角 ( せっかく )の大国民も近き将来に於て 悉 ( ことごと )く大兄の如く胃病患者と相成る事と 窃 ( ひそ )かに心痛 罷 ( まか )りあり 候 ( そろ )……」 また大兄のごとくか、 癪 ( しゃく )に 障 ( さわ )る男だと主人が思う。 「 依 ( よっ )て此間 中 ( じゅう )よりギボン、モンセン、スミス等諸家の著述を 渉猟 ( しょうりょう )致し 居候 ( おりそうら )えども 未 ( いま )だに発見の 端緒 ( たんしょ )をも 見出 ( みいだ )し得ざるは残念の至に 存候 ( ぞんじそろ )。 然し御存じの如く小生は一度思い立ち 候事 ( そろこと )は成功するまでは決して中絶 仕 ( つかまつ )らざる性質に候えば 嘔吐方 ( おうとほう )を再興致し 候 ( そろ )も遠からぬうちと信じ居り 候 ( そろ )次第。 右は発見次第御報道 可仕候 ( つかまつるべくそろ )につき、左様御承知 可被下候 ( くださるべくそろ )。 就 ( つい )てはさきに申上 候 ( そろ ) トチメンボー及び孔雀の舌の御馳走も 可相成 ( あいなるべく )は右発見後に致し 度 ( たく )、 左 ( さ )すれば小生の都合は 勿論 ( もちろん )、既に胃弱に悩み居らるる大兄の為にも 御便宜 ( ごべんぎ )かと 存候 ( ぞんじそろ )草々不備」 何だとうとう 担 ( かつ )がれたのか、あまり書き方が真面目だものだからつい 仕舞 ( しまい )まで本気にして読んでいた。 新年 匆々 ( そうそう )こんな 悪戯 ( いたずら )をやる迷亭はよっぽどひま人だなあと主人は笑いながら云った。 それから四五日は別段の事もなく過ぎ去った。 白磁 ( はくじ )の水仙がだんだん 凋 ( しぼ )んで、 青軸 ( あおじく )の梅が 瓶 ( びん )ながらだんだん開きかかるのを眺め暮らしてばかりいてもつまらんと思って、 一両度 ( いちりょうど )三毛子を訪問して見たが 逢 ( あ )われない。 最初は留守だと思ったが、二 返目 ( へんめ )には病気で寝ているという事が知れた。 障子の中で例の御師匠さんと下女が話しをしているのを 手水鉢 ( ちょうずばち )の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。 「三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ 何 ( なん )にも食べません、あったかにして 御火燵 ( おこた )に寝かしておきました」何だか猫らしくない。 まるで人間の取扱を受けている。 一方では自分の境遇と比べて見て 羨 ( うらや )ましくもあるが、一方では 己 ( おの )が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。 「どうも困るね、御飯をたべないと、 身体 ( からだ )が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私共でさえ一日 御 ( ごぜん )をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」 下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。 実際この 家 ( うち )では下女より猫の方が大切かも知れない。 「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。 私が三毛をだいて診察場へ行くと、 風邪 ( かぜ )でも引いたのかって私の 脈 ( みゃく )をとろうとするんでしょう。 いえ病人は私ではございません。 これですって三毛を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、 抛 ( ほう )っておいたら今に 癒 ( なお )るだろうってんですもの、あんまり 苛 ( ひど )いじゃございませんか。 腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでも大事の猫なんですって、三毛を 懐 ( ふところ )へ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」 「ほんにねえ」は 到底 ( とうてい )吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。 やはり 天璋院 ( てんしょういん )様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ 雅 ( が )であると感心した。 「何だかしくしく云うようだが……」「ええきっと風邪を引いて 咽喉 ( のど )が痛むんでございますよ。 風邪を引くと、どなたでも 御咳 ( おせき )が出ますからね……」 天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿 叮嚀 ( ていねい )な言葉を使う。 「それに近頃は肺病とか云うものが出来てのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり 殖 ( ふ )えた日にゃ油断も隙もなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代に無い者に 碌 ( ろく )な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」 下女は 大 ( おおい )に感動している。 「 風邪 ( かぜ )を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね」 下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。 「悪い友達?」「ええあの表通りの教師の 所 ( とこ )にいる薄ぎたない 雄猫 ( おねこ )でございますよ」「教師と云うのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびに 鵝鳥 ( がちょう )が 絞 ( し )め殺されるような声を出す人でござんす」 鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。 吾輩の主人は毎朝風呂場で 含嗽 ( うがい )をやる時、 楊枝 ( ようじ )で 咽喉 ( のど )をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。 機嫌の悪い時はやけにがあがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなおがあがあやる。 つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よくがあがあやる。 細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから 今日 ( きょう )まで一日もやめた事がないという。 ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには 到底 ( とうてい )想像もつかん。 それもまず善いとして「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。 「あんな声を出して何の 呪 ( まじな )いになるか知らん。 御維新前 ( ごいっしんまえ )は 中間 ( ちゅうげん )でも 草履 ( ぞうり )取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」 下女は 無暗 ( むやみ )に感服しては、無暗に ねえを使用する。 「あんな主人を持っている猫だから、どうせ 野良猫 ( のらねこ )さ、今度来たら少し 叩 ( たた )いておやり」「叩いてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと 讐 ( かたき )をとってやります」 飛んだ 冤罪 ( えんざい )を 蒙 ( こうむ )ったものだ。 こいつは 滅多 ( めった )に 近 ( ち )か 寄 ( よ )れないと三毛子にはとうとう逢わずに帰った。 帰って見ると主人は書斎の 中 ( うち )で何か 沈吟 ( ちんぎん )の 体 ( てい )で筆を 執 ( と )っている。 二絃琴 ( にげんきん )の御師匠さんの 所 ( とこ )で聞いた評判を話したら、さぞ 怒 ( おこ )るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん云いながら神聖な詩人になりすましている。 ところへ当分多忙で行かれないと云って、わざわざ年始状をよこした迷亭君が 飄然 ( ひょうぜん )とやって来る。 「何か新体詩でも作っているのかね。 面白いのが出来たら見せたまえ」と云う。 「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね」と主人は重たそうに口を開く。 「文章? 誰 ( だ )れの文章だい」「誰れのか分らんよ」「無名氏か、無名氏の作にも随分善いのがあるからなかなか馬鹿に出来ない。 全体どこにあったのか」と問う。 「第二読本」と主人は落ちつきはらって答える。 「第二読本? 第二読本がどうしたんだ」「僕の翻訳している名文と云うのは第二読本の 中 ( うち )にあると云う事さ」「 冗談 ( じょうだん )じゃない。 孔雀の舌の 讐 ( かたき )を 際 ( きわ )どいところで討とうと云う寸法なんだろう」「僕は君のような 法螺吹 ( ほらふ )きとは違うさ」と 口髯 ( くちひげ )を 捻 ( ひね )る。 泰然たるものだ。 「 昔 ( むか )しある人が山陽に、先生近頃名文はござらぬかといったら、山陽が 馬子 ( まご )の書いた借金の催促状を示して近来の名文はまずこれでしょうと云ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかも知れん。 どれ読んで見給え、僕が批評してやるから」と迷亭先生は審美眼の 本家 ( ほんけ )のような事を云う。 主人は禅坊主が 大燈国師 ( だいとうこくし )の 遺誡 ( ゆいかい )を読むような声を出して読み始める。 「 巨人 ( きょじん )、 引力 ( いんりょく )」「何だいその巨人引力と云うのは」「巨人引力と云う題さ」「妙な題だな、僕には意味がわからんね」「引力と云う名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理な つもりだが表題だからまず負けておくとしよう。 それから 早々 ( そうそう )本文を読むさ、君は声が善いからなかなか面白い」「 雑 ( ま )ぜかえしてはいかんよ」と 予 ( あらか )じめ念を押してまた読み始める。 ケートは窓から 外面 ( そと )を 眺 ( なが )める。 小児 ( しょうに )が 球 ( たま )を投げて遊んでいる。 彼等は高く球を空中に 擲 ( なげう )つ。 球は上へ上へとのぼる。 しばらくすると落ちて来る。 彼等はまた球を高く擲つ。 再び三度。 擲つたびに球は落ちてくる。 なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみのぼらぬかとケートが聞く。 「巨人が地中に住む故に」と母が答える。 「彼は巨人引力である。 彼は強い。 彼は万物を 己 ( おの )れの方へと引く。 彼は家屋を地上に引く。 引かねば飛んでしまう。 小児も飛んでしまう。 葉が落ちるのを見たろう。 あれは巨人引力が呼ぶのである。 本を落す事があろう。 巨人引力が来いというからである。 球が空にあがる。 巨人引力は呼ぶ。 呼ぶと落ちてくる」 「それぎりかい」「むむ、 甘 ( うま )いじゃないか」「いやこれは恐れ入った。 飛んだところで トチメンボーの御返礼に 預 ( あずか )った」「御返礼でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね」と金縁の眼鏡の奥を見る。 「どうも驚ろいたね。 君にしてこの 伎倆 ( ぎりょう )あらんとは、全く 此度 ( こんど )という 今度 ( こんど )は 担 ( かつ )がれたよ、降参降参」と一人で承知して一人で 喋舌 ( しゃべ )る。 主人には 一向 ( いっこう )通じない。 「何も君を降参させる考えはないさ。 ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ」「いや実に面白い。 そう来なくっちゃ本ものでない。 凄 ( すご )いものだ。 恐縮だ」「そんなに恐縮するには及ばん。 僕も近頃は水彩画をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね」「どうして 遠近 ( えんきん ) 無差別 ( むさべつ ) 黒白 ( こくびゃく ) 平等 ( びょうどう )の水彩画の比じゃない。 感服の至りだよ」「そうほめてくれると僕も乗り気になる」と主人はあくまでも 疳違 ( かんちが )いをしている。 ところへ 寒月 ( かんげつ )君が先日は失礼しましたと 這入 ( はい )って来る。 「いや失敬。 今大変な名文を拝聴して トチメンボーの亡魂を 退治 ( たいじ )られたところで」と迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。 「はあ、そうですか」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。 主人だけは 左 ( さ )のみ浮かれた 気色 ( けしき )もない。 「先日は君の紹介で 越智東風 ( おちとうふう )と云う人が来たよ」「ああ 上 ( あが )りましたか、あの 越智東風 ( おちこち )と云う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから……」「別に迷惑の事もないがね……」「こちらへ 上 ( あが )っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の 講釈 ( こうしゃく )をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。 「あの 東風 ( こち )と云うのを 音 ( おん )で読まれると大変気にするので」「はてね」と迷亭先生は 金唐皮 ( きんからかわ )の 煙草入 ( たばこいれ )から煙草をつまみ出す。 「 私 ( わたく )しの名は 越智東風 ( おちとうふう )ではありません、 越智 ( おち ) こちですと必ず断りますよ」「妙だね」と 雲井 ( くもい )を腹の底まで 呑 ( の )み込む。 「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと 遠近と云う 成語 ( せいご )になる、のみならずその姓名が 韻 ( いん )を踏んでいると云うのが得意なんです。 それだから 東風 ( こち )を 音 ( おん )で読むと僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を云うのです」「こりゃなるほど変ってる」と迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の 孔 ( あな )まで吐き返す。 途中で煙が 戸迷 ( とまど )いをして 咽喉 ( のど )の出口へ引きかかる。 先生は 煙管 ( きせる )を握ってごほんごほんと 咽 ( むせ )び返る。 「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ」と主人は笑いながら云う。 「うむそれそれ」と迷亭先生が 煙管 ( きせる )で 膝頭 ( ひざがしら )を 叩 ( たた )く。 吾輩は 険呑 ( けんのん )になったから少し 傍 ( そば )を離れる。 「その朗読会さ。 せんだって トチメンボーを御馳走した時にね。 その話しが出たよ。 何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。 それから僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しい者を 撰 ( えら )んで 金色夜叉 ( こんじきやしゃ )にしましたと云うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は 御宮 ( おみや )ですといったのさ。 東風 ( とうふう )の御宮は面白かろう。 僕は是非出席して 喝采 ( かっさい )しようと思ってるよ」「面白いでしょう」と寒月君が妙な笑い方をする。 「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。 迷亭などとは大違いだ」と主人はアンドレア・デル・サルトと 孔雀 ( くじゃく )の舌と トチメンボーの 復讐 ( かたき )を一度にとる。 迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは 行徳 ( ぎょうとく )の 俎 ( まないた )と云う格だからなあ」と笑う。 「まずそんなところだろう」と主人が云う。 実は行徳の俎と云う語を主人は 解 ( かい )さないのであるが、さすが永年教師をして 胡魔化 ( ごまか )しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。 「行徳の俎というのは何の事ですか」と寒月が 真率 ( しんそつ )に聞く。 主人は床の方を見て「あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て 挿 ( さ )したのだが、よく持つじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。 「暮といえば、去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ」と迷亭が 煙管 ( きせる )を 大神楽 ( だいかぐら )のごとく指の 尖 ( さき )で廻わす。 「どんな経験か、聞かし 玉 ( たま )え」と主人は行徳の俎を遠く 後 ( うしろ )に見捨てた気で、ほっと息をつく。 迷亭先生の不思議な経験というのを聞くと 左 ( さ )のごとくである。 「たしか暮の二十七日と記憶しているがね。 例の 東風 ( とうふう )から参堂の上是非文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うと云う 先 ( さ )き 触 ( ぶ )れがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。 昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーンの 滑稽物 ( こっけいもの )を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。 寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブを 焚 ( た )いて 室 ( へや )を 煖 ( あたた )かにしてやらないと 風邪 ( かぜ )を引くとかいろいろの注意があるのさ。 なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、 呑気 ( のんき )な僕もその時だけは 大 ( おおい )に感動した。 それにつけても、こんなにのらくらしていては 勿体 ( もったい )ない。 何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。 母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいと云う気になった。 それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。 露西亜 ( ロシア )と戦争が始まって若い人達は大変な 辛苦 ( しんく )をして 御国 ( みくに )のために働らいているのに 節季師走 ( せっきしわす )でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。 その名前を一々読んだ時には何だか世の中が 味気 ( あじき )なくなって人間もつまらないと云う気が起ったよ。 一番 仕舞 ( しまい )にね。 私 ( わた )しも取る年に候えば 初春 ( はつはる )の 御雑煮 ( おぞうに )を祝い候も今度限りかと……何だか心細い事が書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く 東風 ( とうふう )が来れば好いと思ったが、先生どうしても来ない。 そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。 母の手紙は六尺以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、いつでも十行内外で御免 蒙 ( こうむ )る事に 極 ( き )めてあるのさ。 すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。 東風が来たら待たせておけと云う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。 いつになく富士見町の方へは足が向かないで 土手 ( どて ) 三番町 ( さんばんちょう )の方へ我れ知らず出てしまった。 ちょうどその晩は少し曇って、から風が 御濠 ( おほり )の 向 ( むこ )うから吹き付ける、非常に寒い。 神楽坂 ( かぐらざか )の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。 大変 淋 ( さみ )しい感じがする。 暮、戦死、老衰、無常迅速などと云う奴が頭の中をぐるぐる 馳 ( か )け 廻 ( めぐ )る。 よく人が首を 縊 ( くく )ると云うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。 ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの 間 ( ま )にか例の松の 真下 ( ました )に来ているのさ」 「例の松た、何だい」と主人が 断句 ( だんく )を投げ入れる。 「 首懸 ( くびかけ )の松さ」と迷亭は 領 ( えり )を縮める。 「首懸の松は 鴻 ( こう )の 台 ( だい )でしょう」寒月が 波紋 ( はもん )をひろげる。 「 鴻 ( こう )の 台 ( だい )のは 鐘懸 ( かねかけ )の松で、土手三番町のは 首懸 ( くびかけ )の松さ。 なぜこう云う名が付いたかと云うと、 昔 ( むか )しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が 縊 ( くく )りたくなる。 土手の上に松は何十本となくあるが、そら 首縊 ( くびくく )りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。 年に二三 返 ( べん )はきっとぶら下がっている。 どうしても 他 ( ほか )の松では死ぬ気にならん。 見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。 ああ好い枝振りだ。 あのままにしておくのは惜しいものだ。 どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、 四辺 ( あたり )を見渡すと 生憎 ( あいにく )誰も来ない。 仕方がない、自分で下がろうか知らん。 いやいや自分が下がっては命がない、 危 ( あぶ )ないからよそう。 しかし昔の 希臘人 ( ギリシャじん )は宴会の席で 首縊 ( くびくく )りの真似をして余興を添えたと云う話しがある。 一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に 他 ( ほか )のものが台を蹴返す。 首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという 趣向 ( しゅこう )である。 果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に 撓 ( しわ )る。 撓り 按排 ( あんばい )が実に美的である。 首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。 是非やる事にしようと思ったが、もし 東風 ( とうふう )が来て待っていると気の毒だと考え出した。 それではまず 東風 ( とうふう )に 逢 ( あ )って約束通り話しをして、それから出直そうと云う気になってついにうちへ帰ったのさ」 「それで 市 ( いち )が栄えたのかい」と主人が聞く。 「面白いですな」と寒月がにやにやしながら云う。 「うちへ帰って見ると東風は来ていない。 しかし 今日 ( こんにち )は 無拠処 ( よんどころなき ) 差支 ( さしつか )えがあって出られぬ、いずれ 永日 ( えいじつ ) 御面晤 ( ごめんご )を期すという 端書 ( はがき )があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が 縊 ( くく )れる嬉しいと思った。 で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と云って主人と寒月の顔を見てすましている。 「見るとどうしたんだい」と主人は少し 焦 ( じ )れる。 「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の 紐 ( ひも )をひねくる。 「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。 たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。 考えると何でもその時は 死神 ( しにがみ )に取り着かれたんだね。 ゼームスなどに云わせると副意識下の 幽冥界 ( ゆうめいかい )と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に 感応 ( かんのう )したんだろう。 実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。 主人はまたやられたと思いながら何も云わずに 空也餅 ( くうやもち )を 頬張 ( ほおば )って口をもごもご云わしている。 寒月は火鉢の灰を丁寧に 掻 ( か )き 馴 ( な )らして、 俯向 ( うつむ )いてにやにや笑っていたが、やがて口を開く。 極めて静かな調子である。 「なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません」 「おや君も首を 縊 ( くく )りたくなったのかい」 「いえ私のは首じゃないんで。 これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですからなおさら不思議に思われます」 「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。

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