す が 官房 長官。 【経歴】菅官房長官は農家出で工場で働いていたという異例の生い立ち!なぜ官房長官になれたの?

内閣官房副長官 杉田 和博 (すぎた かずひろ)

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総理に呼ばれなくなった 「もう、あの人も終わりだよな」 ある自民党のベテラン議員が言う。 官房長官・菅義偉のことである。 官邸の守護神と言われたのも今は昔。 定例の記者会見では、記者の質問にもまるで上の空。 「すみません、もう一回言って?」を繰り返すシーンは、毎度のこと。 回答に窮し事務方からペーパーを差し込まれることも増えた。 この4ヵ月、菅はさんざんだった。 菅原一秀や河井克行といった「側近」を無理矢理入閣させたものの、一気にスキャンダルに見舞われた。 重用してきた官僚が不倫騒動に追い込まれ、自分が肩入れしてきたIR問題でも、10年ぶりの国会議員逮捕という騒動に巻き込まれた。 すべて菅の周りで醜聞が出たことから、「菅潰し」の声が囁かれた。 総理候補など夢のまた夢、スキャンダル処理にほとほと疲れた菅は、「このままやけくそで辞任するんじゃないか?」と噂を立てられる始末だ。 安倍総理との関係も決定的に軋みだした。 昨年末から、菅が安倍に呼ばれる機会が減った。 もちろん、朝、官邸で顔は合わせるものの、安倍は視線を合わせない。 要人との同席回数や接触時間は、かねてから菅との不仲が囁かれる今井尚哉秘書官のほうが格段に多くなった。 Photo by iStock 安倍に嫌われたのか。 自分を嵌めたのは、今井ではなくて、安倍なのではないか。 疑心暗鬼が、菅の胸中を交錯している。 官邸に2つあった危機管理ラインのもと、菅と今井は、修復不能な関係に陥った。 今井は「菅さんは信用できないよ。 総理の寝首をかく男だしね」と公言し、菅も「総理にぶら下がり会見なんてやらせて、本当にあのバカ」と今井を批判。 だが、安倍は今井を選んだ。 「今井が官僚だからですよ。 政治家とちがって、主君に取って代わろうとすることはありえない。 総理にとって菅さんは不気味だが、今井は安心して使える。 その結果、安倍総理と菅さんは『官邸内別居』状態になってしまった」(安倍側近).

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菅官房長官、回顧録執筆の質問に「そうした誘惑に駆られることはない」

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内閣書記官長 [ ] 代 氏名 内閣 就任日 退任日 出身 1 1885年12月22日 1888年4月30日 2 1888年4月30日 1889年12月24日 3 1889年12月24日 1891年5月6日 4 1891年6月15日 1892年8月8日 5 1892年8月8日 1896年8月31日 6 1896年9月20日 1897年10月8日 7 平山成信 第2次松方内閣 1897年10月28日 1898年1月12日 8 1898年1月12日 1898年6月30日 9 1898年6月30日 1898年11月8日 10 1898年11月8日 1900年10月19日 11 鮫島武之助 1900年10月19日 1901年6月2日 12 1901年6月2日 1906年1月7日 13 1906年1月7日 1908年1月4日 14 第1次西園寺内閣 1908年1月4日 1908年7月14日 15 柴田家門 1908年7月14日 1911年8月30日 16 南弘 1911年8月30日 1912年12月21日 17 1912年12月21日 1913年2月20日 18 1913年2月20日 1914年4月16日 19 江木翼 1914年4月16日 1916年10月9日 20 1916年10月9日 1918年9月29日 21 1918年9月29日 1921年11月13日 22 1921年11月24日 1922年6月12日 立憲政友会 23 1922年6月12日 1923年9月2日 24 1923年9月2日 1924年1月7日 25 1924年1月7日 1924年6月11日 26 江木翼 1924年6月11日 1925年8月2日 27 1925年8月2日 1927年4月20日 28 1927年4月20日 1929年7月2日 立憲政友会 29 1929年7月2日 1931年4月14日 30 1931年4月14日 1931年12月13日 31 1931年12月13日 1932年5月26日 立憲政友会 32 1932年5月26日 1933年3月13日 33 齋藤内閣 1933年3月13日 1934年7月8日 34 1934年7月8日 1934年10月20日 35 岡田内閣 1934年10月20日 1935年5月11日 36 岡田内閣 1935年5月11日 1936年3月9日 37 1936年3月10日 1937年2月2日 38 1937年2月2日 1937年6月4日 39 1937年6月4日 1939年1月4日 40 1939年1月5日 1939年4月7日 41 平沼内閣 1939年4月7日 1939年8月30日 42 1939年8月30日 1940年1月15日 43 1940年1月15日 1940年7月22日 44 1940年7月22日 1941年7月18日 内務省 45 1941年7月18日 1941年10月18日 46 1941年10月18日 1944年7月22日 47 1944年7月22日 1944年7月29日 48 小磯内閣 1944年7月29日 1945年2月10日 49 小磯内閣 1945年2月10日 1945年2月21日 50 石渡荘太郎 小磯内閣 1945年2月21日 1945年4月7日 51 1945年4月7日 1945年8月15日 大蔵省 52 1945年8月15日 1945年10月5日 貴族院無所属 53 1945年10月9日 1946年1月13日 貴族院同成会 54 幣原内閣 1946年1月13日 1946年5月22日 貴族院同成会 55 1946年5月29日 1947年5月2日 内閣官房長官 [ ] 代 氏名 内閣 就任日 退任日 出身 備考 内閣官房長官(非) 1 林讓治 第1次吉田内閣 1947年5月3日 1947年5月24日 日本自由党 旧・待遇 - (欠員) 2 1947年6月1日 1948年3月10日 国務大臣兼内閣官房長官/叙・一級 3 1948年3月10日 1948年10月15日 国務大臣兼内閣官房長官/叙・一級 - (欠員) 4 1948年10月17日 1949年2月16日 官僚() 叙・一級 5 1949年2月16日 1949年6月24日 叙・一級 6 1949年6月24日 1950年5月6日 国務大臣 7 1950年5月6日 1951年12月26日 叙・一級 8 1951年12月26日 1952年10月30日 叙・一級 9 緒方竹虎 1952年10月30日 1953年3月24日 自由党 国務大臣/(1952年11月28日以降) 10 1953年3月24日 1953年5月21日 自由党 叙・一級 11 1953年5月21日 1954年9月24日 叙・一級 12 1954年9月24日 1954年12月10日 国務大臣 13 1954年12月10日 1955年3月19日 叙・一級 14 1955年3月19日 1955年11月22日 叙・一級 15 1955年11月22日 1956年12月23日 叙・一級 16 1956年12月23日 1957年2月25日 自由民主党 叙・一級 17 1957年2月25日 1957年7月10日 叙・一級 18 1957年7月10日 1958年6月12日 自由民主党 叙・一級 19 1958年6月12日 1959年6月18日 自由民主党 叙・一級 20 1959年6月18日 1960年7月19日 自由民主党 叙・一級 21 1960年7月19日 1960年12月8日 自由民主党 叙・一級 22 1960年12月8日 1962年7月18日 叙・一級 23 1962年7月18日 1963年6月11日 自由民主党 叙・一級 内閣官房長官(認証官) 23 黒金泰美 第2次池田内閣第2次改造内閣 1963年6月11日 1963年12月9日 自由民主党 24 1963年12月9日 1964年7月18日 25 1964年7月18日 1964年11月9日 自由民主党 26 1964年11月9日 1966年6月28日 自由民主党 内閣官房長官() 26 橋本登美三郎 第1次佐藤内閣第1次改造内閣 1966年6月28日 1966年8月1日 自由民主党 27 愛知揆一 1966年8月1日 1966年12月3日 自由民主党 28 福永健司 1966年12月3日 1967年2月17日 自由民主党 29 1967年2月17日 1967年6月22日 病気による途中退任 30 1967年6月22日 1968年11月30日 自由民主党 前任者の途中退任に伴う就任(中途入閣) 31 保利茂 1968年11月30日 1970年1月14日 自由民主党 32 1970年1月14日 1971年7月5日 33 1971年7月5日 1972年7月7日 自由民主党 34 1972年7月7日 1972年12月22日 自由民主党 35 1972年12月22日 1974年11月11日 36 竹下登 1974年11月11日 1974年12月9日 自由民主党 37 1974年12月9日 1976年12月24日 自由民主党 38 1976年12月24日 1977年11月28日 自由民主党 39 1977年11月28日 1978年12月7日 自由民主党 40 1978年12月7日 1979年11月9日 自由民主党 41 1979年11月9日 1980年7月17日 自由民主党 (1980年6月11日以降) 42 1980年7月17日 1982年11月27日 自由民主党 43 1982年11月27日 1983年12月27日 自由民主党 44 1983年12月27日 1985年12月28日 自由民主党 45 後藤田正晴 1985年12月28日 1986年7月22日 自由民主党 46 1986年7月22日 1987年11月6日 47 1987年11月6日 1989年6月3日 自由民主党 新元号「」発表 48 1989年6月3日 1989年8月10日 自由民主党 49 1989年8月10日 1989年8月25日 自由民主党 による途中辞任 50 1989年8月25日 1990年2月28日 自由民主党 前任者の途中辞任に伴う就任(閣内移動) 「女性初」 51 1990年2月28日 1991年11月5日 自由民主党 52 1991年11月5日 1992年12月12日 自由民主党 53 1992年12月12日 1993年8月9日 自由民主党 54 1993年8月9日 1994年4月28日 - 1994年4月28日 (内閣総理大臣として)内閣官房長官事務取扱 55 1994年4月28日 1994年6月30日 新生党 56 1994年6月30日 1995年8月8日 日本社会党 57 1995年8月8日 1996年1月11日 日本社会党 58 1996年1月11日 1996年11月7日 自由民主党 59 1996年11月7日 1997年9月11日 60 1997年9月11日 1998年7月30日 自由民主党 61 1998年7月30日 1999年10月5日 自由民主党 62 1999年10月5日 2000年4月5日 自由民主党 (2000年4月3日以降) 63 2000年4月5日 2000年7月4日 64 2000年7月4日 2000年10月27日 自由民主党 による途中辞任 65 2000年10月27日 2001年4月26日 自由民主党 前任者の途中辞任に伴う就任(中途入閣) 66 2001年4月26日 2003年11月19日 67 2003年11月19日 2004年5月7日 に伴う途中辞任 68 2004年5月7日 2005年9月21日 自由民主党 前任者の途中辞任に伴う就任(中途入閣) 69 2005年9月21日 2005年10月31日 70 2005年10月31日 2006年9月26日 自由民主党 71 2006年9月26日 2007年8月27日 自由民主党 72 2007年8月27日 2007年9月26日 自由民主党 73 2007年9月26日 2008年9月24日 自由民主党 74 2008年9月24日 2009年9月16日 自由民主党 75 2009年9月16日 2010年6月8日 76 2010年6月8日 2011年1月14日 民主党 77 2011年1月14日 2011年9月2日 民主党 78 2011年9月2日 2012年12月26日 民主党 79 2012年12月26日 2014年12月24日 自由民主党 80 2014年12月24日 2017年11月1日 81 2017年11月1日 在任中 新元号「」発表• 太字は、のちに内閣総理大臣となった人物。 初代・林讓治は下の内閣書記官長からの自動的な継続的在任(法令に基づく)であり、1947年5月3日に改めて内閣官房長官に任命するための辞令は発出されていない。 第2代以降の非認証官たる長官(原則として一級官吏つまり旧待遇に叙される)との権衡のため、旧憲法下最後の日である1947年5月2日付けで「特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ」との辞令を受けている。 内閣官房長官は日本国憲法施行後1949年5月31日までは行政官庁法に基づく職であり、同法には「国務大臣をもって充てることができる」旨の規定がなかったため、その期間中に就任した第2代・西尾末廣、第3代・苫米地義三、第4代・佐藤榮作及び第5代・増田甲子七のうち国務大臣でもあった前2名は、「国務大臣に 任命する」との官記に加え「内閣官房長官に 兼ねて任命する」との辞令が出され一級(官吏)に叙されている(後2名の辞令は「内閣官房長官に 任命する」)。 同法の失効に伴い内閣官房長官の根拠規定は1949年6月1日から内閣法となり、こちらには「国務大臣をもって充てることができる」と規定されたため、以後の「非認証官」時代の内閣官房長官で備考欄に「国務大臣」の記載のある者は、「国務大臣に 任命する」との官記に加えて出される辞令は「内閣官房長官を 命ずる」となっており一級に叙されていない。 「任命して兼ねて任命」の場合は並列の兼任であるため大臣でありながら同時に一級に叙され得るが、「任命して命ずる」場合の「命ずる」はいわゆる補職であって並列ではないためこの適用がない。 この表では当該制度上の差異を区別して記載した。 なお、第5代・増田甲子七の在任期間のうち1949年5月31日までと同6月1日からでは前述のとおり根拠法が異なるが、これに関して改めて辞令は発されておらずそのまま在任している。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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菅官房長官、回顧録執筆の質問に「そうした誘惑に駆られることはない」

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菅官房長官は留任 素人目には、記者会見における菅官房長官の仏頂面や素っ気なさすぎる対応が内閣支持率の低下の一因のようにも見えるのだが、玄人筋は早くから「菅官房長官の留任」を断言していた。 強面の菅氏に代わる存在はいない、というのが大方の見方だったのである。 また、さらに言えば、そもそも第二次安倍政権の生みの親が、菅官房長官だということも、関係しているのかもしれない。 不本意な形で総理を辞任した安倍首相に、再び総理を目指させたのは、菅氏の「殺し文句」だったのである。 『』(川上徹也・著)から、その場面を引用してみよう(文中敬称略)。 *** 菅氏の殺し文句 2012年8月、自民党総裁選を1カ月後に控えて、菅は、安倍に出馬するように促していました。 第一次安倍内閣で総務大臣をつとめた菅は、いつか安倍を復権させようとずっと時が来るのを待ち受けていたのです。 この時、党内では「安倍の復権は早すぎる」という声が支配的でした。 第一次政権の時の政権運営や退陣の仕方についての批判が根強かったのです。 安倍自身も迷っていました。 ここで総裁選に出馬して惨敗すれば、政治生命はほぼ断たれることになります。 しかも、国民から安倍の総理再登板を求める声はほとんどありませんでした。 派閥の後見人である森喜朗からも「今回の出馬はやめておけ。 国民から待望論が出るまで待て」と言われていたのです。 しかし菅は、「待望論は本人が出馬して、政策を訴えてはじめて沸き上がる」という考えを持っていて、まずは出馬すべきだと安倍を必死に口説きました。 「今の日本にこそ安倍さんが必要です。 総裁選に立候補すれば、安倍晋三の主張を国民が聞いてくれるんです」 それでも安倍はまだ決断できないでいました。 そこで菅の殺し文句が発動されたのです。 「もう一度、安倍晋三という政治家を世に問う最高の舞台じゃありませんか? このチャンスを逃したら、次は難しいですよ。 この最高の舞台を、みすみす見逃すんですか!」 菅の熱意に押し切られる形で安倍は総裁選への立候補を決意しました。 同年12月、安倍は5年半ぶりに総理大臣に返り咲きます。 第二次安倍内閣で、安倍は自分を総裁選に再チャレンジさせてくれた菅を、内閣の要である内閣官房長官に任命しました。 *** ネット書店で購入する• リスクを負って断言する強さ 『ザ・殺し文句』の中で、著者の川上氏は、菅氏の言葉が安倍総理の決意を促すことが出来たのは、「リスクを負って断言する」という殺し文句の法則にかなっているからだ、と分析している。 実のところ、未来のことなど誰にもわからない。 だから、この総裁選がチャンスかどうかも怪しい。 あとで「お前の見立ては全然違ったじゃないか!」と文句を言われないとも限らない。 しかし、そんなリスクを度外視して、菅氏は「最高の舞台」だと断言した。 だからこそ殺し文句として成立した、というのである。 よく似たタイプの殺し文句として、川上氏は豊臣秀吉の軍師、黒田官兵衛の言葉を紹介している。 戦国時代、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた時のこと。 備中高松城で毛利攻めをしていた羽柴(豊臣)秀吉の陣に、その知らせがもたらされた。 主君の悲報を聞いた秀吉は驚き茫然自失になったが、その時、黒田官兵衛は以下のように進言したと伝わっている。 「秀吉様、ご運が開けましたな。 天下をお取りなさいませ」 もちろん、官兵衛にしても本当に確信をもっていたわけでもない。 しかし不確かな未来を断言したからこそ力強い「殺し文句」になった。 茫然自失状態だった秀吉の腹はこれで決まったのである。 秀吉も安倍首相も、殺し文句が背中を押して天下を取った。 その相手をむげに出来ないのは人情というものだろう。 デイリー新潮編集部• あわせて読みたい関連本•

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