アラブ の 春。 「アラブの春」幻想、そしてその末路 ~シリアを事例に~: IISEの広場

アラブの春は失敗?国々のきっかけやその後を分かりやすく解説

アラブ の 春

エジプト・コプト教会の爆破など、一向に衰えることのないISのテロ行為。 アラブ諸国の混乱は落ち着くどころか、ますます混迷を深めています。 「アラブの春」と呼ばれた民主化運動とは何だったのか? その後の経過は? 日本では珍しい女性の中東研究家として活躍する岩永尚子先生がわかりやすく説明します。 今回は、チュニジアとエジプトの動きです。 この連載が始まったのは2014年3月ですが、連載5回目(2014年5月)で、「アラブの春」と呼ばれる一連の民主化運動について、その発端となったチュニジアを中心に説明しました。 参考記事: そして今、連載開始から3年が経過しましたが、その後もアラブ諸国の政治的混乱は続いています。 「何が起きているのかさっぱりわからないわ」という感想や、「アラブの春は結局どうなったの?」という疑問がよせられているため、現段階での各国の状況を簡単にまとめてみたいと思います。 「アラブの春:その後」として今回取りあげるのは、地理的に隣接しあうチュニジア、エジプト、リビアの3カ国です。 「アラブの春」と称される一連の民主化運動が起きたのは、この3カ国のほかにも、ヨルダン、シリア、バハレーン、モロッコ、イエメンなど多数ありました。 「アラブの春」の後に政権が崩壊した国もあれば、ヨルダンやモロッコなど、王政を維持した国もあります。 政権崩壊後も戦闘が続いているシリアとイエメンについては、別の機会に取り上げてみたいと考えています。 今回取りあげる3カ国は、いずれも長期政権が民主化運動によって崩壊へと導かれました。 ところが、現在では、チュニジアが唯一の民主化成功例、エジプトは逆戻り、リビアは内戦へと、まったく異なる結果となっています。 「アラブの春」をどのように評価すべきなのかについては、まだ年月が必要となるでしょうが、いったん、現時点での経緯を比較検討してみます。 まずは「前編」として、チュニジアとエジプトの経緯を紹介します。 アラブの春の発端となったチュニジアの今は? チュニジアは「アラブの春」の発端となった国です。 2010年12月のいわゆる「ジャスミン革命」は、路上で青果を販売していた失業中の青年が、警察の取り締まりを受けたことに抗議して、焼身自殺した事件に端を発しました。 この事件をきっかけに、高い失業率に抗議する、若者を中心とした市民のデモが発生しました。 デモはしだいに、23年間も続いていたベン・アリ政権の腐敗や人権侵害を批判するデモへと変容したのでした。 その結果、強固だと思われていた長期政権があっけなく崩壊したのです(2011年1月)。 政権崩壊後の2011年10月には、実に1956年以来、初めての議会選挙が行なわれました。 この選挙で第一党となったのはナフダ党で(イスラム主義:得票率41%)、ついで「共和国のための会議」(中道左派の世俗主義:得票率13%)、エタカトル(「労働と自由のための民主フォーラム」左派:得票率9%)の順でした。 この3党がそれぞれ大統領、首相、議長のポストを占めるという合意のもとに、組閣が行なわれました。 ところが、この頃からイスラム主義勢力と、世俗主義勢力の対立が明確になり、2013年には、左派の政治家が暗殺される事件が相次いで発生しました。 また、イスラム過激派によるテロ事件や、イスラム主義勢力とチュニジア国軍との対立もみられるようになっていきました。 また、政治的には、野党勢力が内閣や議会の解散を要求し、議会をボイコットしたため、チュニジアは社会的にも政治的にも混乱状態に陥ってしまいました。 この危機的状況を打開するために、イスラム主義者と世俗派の仲裁に入ったのが、チュニジア最大の労働組合であるチュニジア労働総同盟(UGTT)で、さらにチュニジア商工業・手工業経営者連合(UTICA)、チュニジア人権擁護連盟(LTDH)、弁護士の団体である「全国法律家協会」という3つの市民団体が加わりました。 この4団体が「国民対話カルテット」で、これらに対して、2015年にノーベル平和賞が送られたのは、まだ記憶に新しいかと思います。 「ジャスミン革命」3周年を前に皆が妥協し、なんとか対立を回避した結果、2014年1月には暫定内閣が新たに作られました。 そして、ようやく新憲法が可決されたのでした。 新憲法はイスラム教が国教であると定めながらも、法の支配に基づく「市民国家」であるという(注:ここでの法はイスラム法ではない)、イスラム主義者と世俗主義者の双方に配慮されたものになっています。 危機的状況において、イスラム主義者と世俗派の双方が協議のテーブルについた背景には、もちろん上記の4つの集団の努力があったことは確かです。 ですが、おそらくそれだけではありませんでした。 チュニジアが危機的状態にあった2013年に、ちょうどエジプトの民主化が暗礁に乗り上げ、同年6月にはイスラム主義を打ち出したムルスィー政権に対するデモに乗じて、軍が政権を奪うという事態が発生していたのです。 つまり、エジプトでの民主化が白紙に戻っていくのをチュニジアの人々は見ていたのです。 だからこそ、「エジプトの二の舞になってはいけない」と、多様な集団が協議に参加できたのだともいわれています。 ようやくできた新憲法に則って、2014年10月には議会選挙が、そして12月には大統領選挙が行なわれました。 その結果、2012年に結成された世俗派である「チュニジアの呼びかけ」党が第一党となり(217議席中87議席)、イスラム主義のナハダ党は67議席を獲得して第二党となったのでした。 そして、大統領には、ベン・アリ政権下で外相や国会議長を務めたムハンマド・ベジ・カイドセブシが選出されました。 このようになんとか民主的に政権交代を行なったチュニジアですが、「チュニジアの呼びかけ」党の内部の分裂や後継者の問題などもあり、政権がまったく問題なく安定しているとは言い難い状態です。 観光が主要な産業であるにもかかわらず、2015年3月には首都チュニスでの博物館襲撃事件などテロ事件が相次いで発生しています。 16年にもリビア国境に近い都市で、市民50名以上の死者をだすテロが発生し、非常事態宣言が発令されるなど、薄氷を踏むような状態が続いています。

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シリア・アラブの春 顛末記:最新シリア情勢

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「アラブの春」を知らないのは日本人だけ!? 日本人だけというのは言い過ぎですが、日本人は知らなさすぎです。 自分も報道されてたことは覚えている、ある時を境に聞かなくなったなぁぐらいです。 日本の世界報道自由度ランキングは72位(2017年)。 韓国は63位、香港は73位。 情報統制が厳しい国ということがわかります。 政府によってもみ消された、不都合なことがあったと推測することもできます。 日本はアラブ世界と遠いようで近い。 石油の依存度などを考えると中東なしでは国家の運営ができない。 日本政府が仲良くしている政権も革命域内にはあったと考えても良いでしょう。 安定な「王国」と不安定な「共和国」 第一次世界大戦後、中東はイギリスにぐちゃぐちゃにされます。 イギリスのかの有名な三枚舌外交ですね。 これによって中東の悲劇は広がり続けます。 フランスの委任統治となったシリアとレバノンは共和国、イギリスの委任統治であるイラクとヨルダンは王国。 ヨルダンに至ってはまだ王制が続いていますし、他の中東諸国、サウジアラビアやオマーンは非常に安定しています。 王制、時に独裁政権となり民衆の自由が制限されがちですが、ある意味において安定感があります。 イギリス。 しかしうまくいかない場合、情報統制が厳しく貧富の差も広がりやすい。 軍事クーデターなどで共和制を目指す動きが起こりうる。 一方でちゃんとした共和制。 民衆が決めた大統領のもとで動きます。 つまり自由が多く、民衆の暴動などが起こりやすい。 フランス。 今のシリアとかレバノンとかしっちゃかめっちゃかです。 どちらが良いかはその国民性や政治によりますが、一般的に王制の方が治安が安定することが多いのは上述の通り。 アラブの春が起こる前兆 アラブの春の前兆として2003年のジョージアのバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命、2005年のキルギスのチューリップ革命。 旧共産圏の国々では次々と独裁者政権が倒されていきました。 アメリカのCIAが裏で動いたと言われています。 これらが、アラブの春に繋がっていきます。 Advertisement なぜ日本人は知らないのか。 アラブの春は2010年12月にチュニジアのチュニスの旧市街地、スークで起きた26歳男性の焼身自殺がきっかけです。 この事件は非常に不条理にも思われる警察の対応にことを発し、ジャスミン革命につながり、アラブの春として翌2011年の1月から3月にかけて拡大します。 さて、その頃日本は。 中東の政権がメルトダウンしていくのを気にする余裕がなくなり、自国のメルトダウンに注力することになったのもやむを得ません。 アラブの春とはなんだったのか。 アラブの春はチュニジアからエジプト、リビア、イエメンへと広がります。 押さえつけられていた自由を求める動きが活発化し、民主化を目指したわけです。 かつての新ソ連政権が次々と倒れます。 しかし、シリアはアサドが率いる少数派のアラウィ派が多数派スンナ派を抑えていました。 しかし、イラク戦争が終わり、アメリカに追われたスンナ派はシリアに流れ込み反シリア運動に加わる。 そしてシリアは内戦状態へ。 そして、ISへ。 シリアに流れ込んだ最大の勢力がIS(イスラミックステート)またはISIS(イラクとシリアのIS)。 イラクとシリアの国境を認めず、真のイスラム国家の建国を目指します。 そのISも下火。 ロシア軍の介入がきっかけです。 だからアサド政権は敗れません。 裏にはロシア、イラン、サウジアラビア。 * * * 某有名予備校教師の講義をベースに調査して書きました。 先生、ありがとうございました。 またこちらの書籍も参考にしました。

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アラブの春

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政権崩壊後は、イスラム系与党が主導する政権が発足したものの、イスラム主義的な内容に民主派が反発し、与野党の対立が続いていた。 エジプトではムバラク政権の崩壊後、大統領に就任したモルシ氏は、イスラム色の強い非民主的な憲法草案を打ち出したことで国民が反発。 今度は逆に、軍部がクーデターを起こし、モルシ派を一掃するとともに民主主義者も弾圧し、軍事独裁政権に逆戻りするという混乱状態になっている。 一方、チュニジアではイスラム系の与党が民主派に譲歩し、表現の自由や男女平等といった民主的な内容を憲法に盛り込むことで対立を回避した。 イスラム諸国では、軍事独裁政権に反対する勢力は2種類ある。 ひとつはイスラム色の強い保守派であり、もうひとつは民主主義者である。 保守派は男女平等や表現の自由を認めておらず、グローバル経済に反対している。 一方民主主義者は構造改革や価値観の多様化を進めようとしている。 エジプトでは両者の対立が大きく、そこに軍部がつけ込んで、両者を再び弾圧するという構図になっている。 官僚組織を中心とした既存の国家権力に対して、伝統的価値観を重んじる保守的な層と、グローバル経済や多様な価値観を是とする民主主義者がそれぞれ対立するという構図は、広い意味では現在の日本にもあてはまるものである。 エジプトで民主化運動が頓挫する一方、チュニジアで民主化プロセスが成功しつつあるのは、両国の経済状態と大きく関係している可能性が高い。 エジプトは人口8000万人を超える大国だがチュニジアはわずか1000万人と少ない。 一方エジプトの1人あたりのGDPは3000ドルだがチュニジアは4400ドルと相対的に豊かである。 リゾート地が多いことやグローバル企業を積極的に誘致していることもあり、国内の雰囲気はリベラルだ。 エジプトのような大国になると、全員に民主化の恩恵を行き渡らせるのはかなり難しく、政権が交代しても不満が残りやすい。 この点でチュニジアは相対的に有利な立場にある。 経済的な苦境から一部の層の保守化が進み、民主主義的な価値観との対立が起こるという図式は全世界的な傾向である。 こうした対立構造は、結局、軍部や官僚組織という既得権益層の利益につながってしまう。 経済成長が何よりも重要であることをチュニジアの事例は示している。 【関連記事】• 関連記事.

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