キス だけ で 解釈。 キスがもたらす意外な8つの幸せ!キスしただけでこんな効果が?!

キスだけ?、興奮してきちゃった「キスしたあとに女性に言われるとエッチしたくなるセリフとは?」234人に聞いた男性の本音

キス だけ で 解釈

アルフレードがフィルムをつなげたかどうかは別として、 フィルムを捨てずに保管していたことが、アルフレードにとっての トトへの思いであり、「もう、戻ってくるな!!」と言われて故郷を 捨てることになったトトがそのフィルムを観て当時の体験を含め彼との思い が蘇ったということなのではないでしょうか。 目の前に写っている映像が大切なのではなく、 映像をトリガー(引き金)として聴衆の気持を高めること。 もしかしたら、トトが映画作りで模索していた点かもしれませんね… 「アルフレードが僕に言いたかったのはこれなんだね」と。 恋愛感情・師弟愛・生き様は百人百通りでしょうから、 それぞれが感じることに正しい・誤りはないと思いますよ。 「下品だー」というのも映画の神父さんみたいでほほえましいじゃないですか。 もちろん、作者は男性ですから、「マレーナ」やこの映画も下町の多感な男の子 の目線で描かれています。 女性からすると「えぇ、ちょっと下品」とか、 「ストーカーじゃないの?」的発言もあるのは否めないですよね。 お金を払って鑑賞していただける方の解釈次第です。 この映画が映画館で封切られた当時はデートで彼女と出掛けましたが、 彼女はどう思っていたんだろうなぁ。 多感で純な年ごろの間に恋愛体験はしておいたほうが人生は楽しいし、 大人になってから破目をはずすこともないよというイタリアオヤジの 体験談が込められているかどうかは知りませんけどね。 アモーレ、バッチョ、バッチョなんて、台所まわりで息子にしている マルコのお母さんみたいな風貌のマンマが口にするようなエンディングが イタリア男性のハートをくすぐったのかも (ちょっと脱線しましたね… ) 映画のシーンを真似てキスの仕方を勉強したなんて、うちの親父と私の 世代までかなぁ。 大好きな映画の、興味深いトピックなので、僕も仲間に入れてもらいたくなりました。 映画監督となったトトのプライベートは荒んでいて、ラストのキスシーンのつなぎ合わせフィルムのように、行きずりの女たちと無為な愛を交わしているわけですよね。 昔、価値のあったキスシーンは、当時はポルノ的で下品なシーンとして教会によって検閲されていただけでなく、映画の中の出来事なのだから、そこで表現されている愛は、映画の外では当然偽りであるわけで、今のトトの状況とリンクします。 また、現代ではキスシーンなどは価値のあるシーンではないということも、トトのプライベートが価値のないものであることを強調します。 ところで、若いころの失恋の傷が癒えていないことは、回想シーンだけでなく、アルフレッドの葬式でシチリアに戻った時に、エレナを撮影したフィルムをひたすらじっと観るシーンからもわかります。 エレナへの愛は、つなぎ合わせフィルムのキスシーン(もしくは行きずりの女たち)のような表層的な愛と対立します。 ラストのトトの気持ちは、アルフレッドに自分が幸せでないことを見抜かれて苦笑し、自分の真の理解者がこの世にもういない悲しみ、そしてエレナのように愛せる人がいない虚しさが混ざったものと考えています。 アルフレードとトト夫々の方法で「映画」を愛した2人の気持ちが30年たって初めて重なった感動的な場面でした、監督は現実物理的に全く不可能を承知で我々映画を愛する観客にこの映画を作ってくれたのだと思います。 ある意味寓話的です スクリーンに映る一場面はフィルム24コマで出来ています、検閲などで切断されるキスシーンとなるとかなり長尺のフィルムになり、終了後又繋いで次の劇場へ廻されたと思います、一コマ二コマの切れ端をトトが貰いたがっていた場面がありましたがこれは可能ですね、ラストシーンに写される一つのキスシーンだけでもかなり長いフィルムになってしまいしかもそれが何十と言うキスシーンですから現実では不可能かと思います。 一本の映画のキスシーンがなくなって次の映画館なり配給会社に廻ることになってしまいます。 又あの映画館の映写機は一台でした、大体二巻くらいを繋いで 14〜15分 映写機にかけますから当時一本の映画で三巻〜四巻になると思います、終了したら次のフィルムをかけるのに何十秒か時間がかかりその間場内は暗闇になります、更に普通は二台の映写機があり終了したフィルムは順次巻き戻します。 この映画にも出て来ましたが日本でも同じ市内や隣町の映画館とのフィルムの掛け持ちは普通でした、ですからもう一台の映写機で巻き戻ししなければ他館との掛け持ちは絶対に不可能でした、ただ一箇所雨にあ合う屋外での「ヴァイキング」上映の時題の絵の小さな機会でフィルムを巻き取る場面がありましたが映画館には見当たりませんでした。 屋外へ鏡で反射させての転写上映なんて絶対に不可能だと思います。 私は承知の上でこの監督のマジックに引き込まれ感動させられました、「映画」の持つ魅力・魔力ではないでしようか。 蛇足ですがこの映画のテーマから三時間版は不要かと思いました。 ジャック・ペランのデヒュー作品「鞄を持った女」も是非ご覧になって下さい。 僕は、この映画は最初と最後がキモだと思っています。 最初のシーン、夜の情事にふけってはみるが、愛の無い男女。 乾いた寂しい空気の中、アルフレッドの死亡を知らせる電話が鳴る・・・。 彼の地で成功し地位と財産を得た代わりに、トトが手放したもの・・・それは、本当に愛する人との喜びに満ちた何千回ものキス。 成功したのもアルフレッドのお陰。 愛を奪ってしまったのもアルフレッドの企み。 でも彼は失明しそして人知れず死んでしまった。 一番寂しかったのは彼かもしれない。 しかし、自分みたいな人生だけは送って欲しくないと、結果的には奪ってしまった愛。 それも今となっては真実の愛だったかは分からない。 愛も人も変わってしまうものなのか?変わらないのは映画の中のキスシーン。 何時見ても、主人公達は変わらぬ愛で口付けを交わす。 他の物が全て揃った今でこそ、強烈にクロースアップされる「愛のあるキス」。 彼に無いものは、実は彼が一番求めていたものだった。 私なりの解釈を紹介します。 トトには青年時代にエレナとの愛を引き裂かれてしまい、心の中にポッカリ開いた悲壮感を埋めるために、映画作りに邁進し巨匠にまでなった。 だが、失恋の痛みは決して埋めきれるものではなく、巨匠になった今でも達成感や人生の喜びは得られずにいたのです。 時間に追われ、愛の無い生活。 アルフレッドはトトが巨匠になったことへの喜びとは裏腹にトトの心が荒廃していくことに責任を感じていたのだが。。。 そこへアルフレッドの死とエレナとの再開。 このときのトトの心の中はアルフレッドの死やアルフレッドとの昔の思い出は重要ではなかった。 心を揺さぶられるほどの出来事では無かったのだ。 トトにとって重要だったのはエレナとの再開だったのです。 トトはエレナとの再開によって完全に動揺し、青年時代に受けた痛々しいほどの心の傷が癒されたのです。 ラストシーンでは、キスシーンフィルムの向こうで現実の世界でエレナと再開したときのあのキスシーンが重ねあわされてみえていたのだ。 このときのトトの心は、自分の心の中を知っていたのはアルフレッドだけだった(実はトトの母親も知っていた)ことに、心を見透かされているようでちょっとした恥ずかしさとともに、これまで心の痛みを共有してくれていたアルフレッドへの感謝の気持ちがあるのだ。 と思います。 ラストシーン号泣しました。 でも、なぜ?ってあまり考えたことなかった。 改めて考えて・・・自分の勝手な解釈です。 映画館が崩れるシーンがあります。 そして、それを眺めている人々の様々な想い。 エレナの若い娘は笑ってたと記憶してます。 愛はいつか色あせてしまう。 時と共に移ろい、はかなきものでもある。 真実の愛はあのキスシーン一瞬一瞬であり、そこに凝縮され、その象徴として描かれたのだと思う。 エレナへの愛が永遠であり、絶対だと信じていたトト。 でも、アルフレードはその上手をいってた。 真実の愛?、それを引き裂かれたことへのわだかまりがあのシーンで溶け、アルフレードの想いを理解し、そして許せたんじゃないかと。 お姫様と兵士との逸話もそんな意味だったのかな?と思ってます。 ちょっと、現実的過ぎる解釈かな。 はじめまして。 僕も「ニュー・シネマ・パラダイス」大好き。 このコミュニティを見付けて間もないので、ゴメンナサイ、まだ皆さんのコメントをちゃんと読んでいないのだけど、夢多さんのコメントを読んで、まずこれだけは言わせて下さい!。 それは、「ニュー・シネマ・パラダイス」の当初公開版(短いほう)を観る前に、先に「ニュー・シネマ・パラダイス〜完全オリジナル版」を観ることです!。 これは絶対にやってはいけません!。 まず、短いほうを観て下さい。 何度も観て、堪能したあとに、完全オリジナル版は興味があれば観る、といった程度に留めて下さい。 最初に短いほうを観たならば、ラストシーンは自然に涙が出ます。 顔は微笑みながらも気持ちのいい涙がホロホロと・・。 夢多さん、ほんとうに残念です!。 先に短いほうを観て欲しかった!!。 「ニュー・シネマ・パラダイス」が映画祭などで各賞を受賞して絶賛された際(もちろん各賞を獲得したのは、短いほうですよ)、評論家・批評家たちは、「相当大胆に編集で切り落として短くした形跡がある(エンドタイトルのところに本編に出てこないシーンが出てくるので一目瞭然)が、それが功を奏した。 」と言っています。 「完全オリジナル版」のままでは、この映画はまったく評判にならなかったでしょう。 「完全オリジナル版」は、最終版を完成させる製作の過程、未完成品だと捉えてもいいと思います。 同じ意見のかた、多いでしょ?。 ニューシネマパラダイス、いい映画ですよね。 久々に観て涙を流しました。 年を重ねるごとに見え方が違ってきて、実に奥深い映画だと思います。 そして映画制作者からすると考えてもらえることが喜びなのではないでしょうか? 実際、製作者本人も、自分と異なる解釈を言われた場合、そういう解釈の仕方もあるのかと 思うものです。 ただ映画に忠実に解釈をするのであれば、アルフレードはトトとの約束を覚えていた ということになります。 「このフィルムは君にあげるけど管理は俺がする」という、子どもに嘘をついて 映写室を追い出したのではなく、キスシーンのフィルムはトトにあげたものになるのです。 あげると約束したフィルムを、自分の死期の予感から管理しきれなくなると思い、トトの母親へ フィルムを託しました。 アルフレードは約束を覚えていて、トトはそのフィルムを観て、どう解釈したのでしょうか? キスシーンのフィルムはアルフレードとトトの「友情」を意味するもので トトがフィルムを観たときに何を感じたのかを議論するほうが数倍楽しそうな気がします。 とある映画監督より。

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キスで濡れる理由と心理!キスで濡れる女性に対する男性の本音とは

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私今日は女だから 今日は女だから きっと 抱きしめてもらえないでしょう 今日は女だから 今日は女だから ずっと 溢れているでしょう 確かめなくても 湿ってく 揺らいでく 沈みたいの キスだけでいけそうなの 傷だらけになるとしても キスだけでここにきたの やるせないね やる気ないね? お前今日は女だから 今日は女だから ちょっと 忍ばせているでしょう お前今日も女だから 今日も女だから そっと 触れていたい 待ち構えていても 歪んでく 乾いてく 急がなくちゃ キスだけでいけそうなの? 傷つけてもかまわないの? キスだけでここにきたの? やるせないね 眠れないね 背中合わせの夜 心臓泣かせの夜 重なり合いたい気持ちをまたいで 抱きしめて キスだけで 私今日は女だから お前今日は女だから いつも女だから いつも女だから 今日も2人だから 【菅田将暉コメント】 初めてあいみょんの曲を聴いた時に勝手ながら縁を感じ、この人に会いたい!と強く感じたことを覚えています。 会わなきゃ、と言うか、あんな衝動に駆られたのは初めてでした。 そこからは早かったです。 対談を経て、気づいたら公園で一緒にギターを弾き、歌い、隣にいるひゅーいくんはベロベロな中、「何か作りたいね」なんて話をしながら彼女と朝まで恋バナをしました。 そしたらふと携帯に言葉をメモリ、こんな感じかな?と、彼女は歌い出し、それがもう今の曲でした。 まんまです。 その場で完成しました。 そのスピードと形にする力を間近で見れた事は僕にとって財産です。 初めて感じたあの衝動の答えがそこにありました。 普遍的なものを作れた事に豊かさを感じています。 是非聴いてみて下さい。 宜しくお願いします。 菅田将暉 【あいみょんコメント】 菅田将暉さんのコメントが全てです。 本当にありがとうございます。 新しい 領域、未体験の音域。 とてもチャレンジな曲になったと思います。 沢山の方に聴いてもらえますように。 アルバムに参加できて嬉しかったです。 s ちょっと何かコメントで小ボケを挟もうかなぁ、と思ったけど、だっちんのコメントがあまりにも完璧すぎて辞めました。 菅田将暉 オフィシャルサイト より あいみょんさんが菅田将暉さんのコメントに任せているようなのでそちらに注目 してみたいと思います(笑) 今作は「会いたいという衝動」「その場の流れ」といったもので構築されていっ た部分が多いと理解できます。 前回、菅田将暉さんと米津玄師さんが曲作りしたときにも「なんかやりたいね」 と雑談しながら作品が出来上がったのを思い出しました。 曲の技巧やスタジオに缶詰のイメージがプロの音楽には定着しがちですが、音楽 の原点である雰囲気とか楽しむなどを大事にしている点に筆者は共感しました。 さらにお二人の会話の中で「男女別々に歌うのはどうか」という提案があったそ うです。 今作では女性パートを菅田将暉さんが、男性パートをあいみょんさんが歌い上げ るという思考が凝らされています。 そうすることで男女の色々な性質や感情を露呈することができ、また男女平等に 共感できるエンターテイメントとなると考えたそうです。 それではさっそく歌詞の意味を考察していきたいと思います。 タイトル『キスだけで』とは 「キス」とはお互いの感情が非常に高まり興奮を覚える行為の 一つと言えます。 愛情表現の一つでありキスにも色々な種類がありますが、それ らについて余り多く論じると別の記事になるのでやめます(笑) さて通常キスが交わされると「冷静さ」や「理性」といったも のが働かなくなったりします。 「キス」は「衝動的」また「本能的」とも結びつく場合が多い のです。 歌詞全体を考慮すると「キスだけで」二人が出会って同じ部屋 に居る、気持ちのやりとりをする様子が描かれています。 そこに「段階を追った交際」といった側面は皆無である点にも 注目できます。 今作はキスを「確かなもの」として扱う反面「不確かなもの」 として書き出している部分も見られます。 この点はキスだけで結ばれた二人の情熱的な面と儚さを同時進 行で描いているのだと筆者は考えました。 『キスだけで』歌詞の意味 女の性 私今日は女だから 今日は女だから きっと 抱きしめてもらえないでしょう 今日は女だから 今日は女だから ずっと 溢れているでしょう 確かめなくても 湿ってく 揺らいでく 沈みたいの 今作の歌詞全体で「女」という性別が登場してきます。 女性のあらゆる面について男性目線また女性目線で語ら れています。 歌詞冒頭では女性パートが扱われています。 注目したいのは「今日は女だから」という表現です。 文字通り性別が日によって入れ替わることはありません。 ですからこれは「いつもより女性らしく」という意味で 間違いないでしょう。 「抱きしめてもらえない」のはどうしてでしょうか。 相手の男性がいつもと違ったオーラを放っている女性に 戸惑っているのかもしれません。 「ずっと 溢れている」「湿っていく」「揺らいでいく」 のはすべて「心の状態」を描写しているのだと解釈でき ます。 彼を愛する気持ちが彼女の心の中に溢れてくるのです。 そしてそれは湿っていくように深く全身に行き渡ります。 しかし時に自分の気持ちがわからなくなり不安を感じて 揺らぐ場合もあるのでしょう。 「沈みたいの」とは彼という存在に堕ちていきたいとい う依存のような面を表現しているように思えます。 ここから男性パートに切り替わったことを理解できます。 男性から見て女性は「忍ばせている」つまり心の奥底に 本心を隠しているのだと思っています。 それが見えないからこそ男性も間合いを測るようにして 接しているのです。 彼は女性への接し方を熟慮し「そっと」触れることから 始めます。 乱暴や粗暴な振る舞いは相手を傷つけ「女性への敬意」 を払っていないことになるからです。 それでもいつまでも身構えていたり間合いを取っている と彼女の想いや気持ちが冷めて行くのも感じています。 冷静と焦り、愛の差引とも言えるやりとりは彼の頭と心 を大変悩ませたに違いありません。 面と向かえない愛 背中合わせの夜 心臓泣かせの夜 重なり合いたい気持ちをまたいで 抱きしめて キスだけで 私今日は女だから お前今日は女だから いつも女だから いつも女だから 今日も2人だから MVでも菅田将暉さんとあいみょんさんが背中を合わせて ベッドに座っているシーンがありました。 これは面と向かって愛し合えない二人を表現しています。 お互いの気持ちにもまだ向き合えていないとも言えます。 「心臓泣かせ」つまり心臓が壊れるくらい鼓動は高鳴り 興奮冷めやらぬ状態に二人はなっていきました。 そしてラストの歌詞だけ「いつも女」というフレーズが 使われています。 これは男性女性双方が口にしているフレーズです。 ですから男性側が相手が自分を必要とする女性であり、 女性が自分は相手から必要とされている女性であると 認めていることを示唆しています。 共通の理解と認識に至った二人はそのままベッドに身 を委ねていきます。 MVでは2体の操り人形が背中合わせの状態から倒れて いく演出で伝えられていました。 キスだけで引き寄せられた二人は不確かな関係の一歩 先に進んだ、、 そう実感したに違いありません。。 まとめ いかがだったでしょうか。 これまで記事をたくさん執筆してきたのですが、キスについて 序盤から長々と綴ったことは無かったので何だか不思議な感覚 です(笑) あいみょんさんが絡んだ作品はどうしてもストレートでアダル ティな要素が含まれるという印象です。 それでも男女のリアリティに富んだ日常を切り取りリスナーに ダイレクトに伝達している点が良かったと思います。 そして菅田将暉さんが歌う女性パートが愛らしく、あいみょん さんが歌う男性パートがクールに聴こえる不思議な感覚に包ま れました。 お二人とも素敵でスケール感の大きい作品を有難うございました。 今後の活動と次回作に期待し注目していきたいと思います。

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キスだけで止まるの!?衝撃の「キスフレンド」事情

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結局先にタイアップが決まっていた「ALONE」がシングルになった ストーリー性のある切ない歌詞と哀愁を漂わせながらもキャッチーで耳に残りやすいメロディー、どこをとっても 非の打ち所がない完璧なバラードである。 シングル候補だっただけに、『IN THE LIFE』の他の収録曲よりも完成度があまりにも高過ぎる。 正直、シングルの「ALONE」よりも「もう一度キスしたかった」が好きな人の方が多いような気もする。 「ALONE」は演奏時間が長いということもあって飽きやすいけれど、「もう一度キスしたかった」は4分半程度しかないため飽きずに聴ける。 そのため私も「もう一度キスしたかった」の方がどちらかというと好きだ。 この曲はかなり抽象的なので、人それぞれ解釈が全く異なるはず。 そのため私の解釈も相当変わっていると思うがご了承いただきたい。 夏に二人は出会った まず1番の歌詞では季節が夏であり、主人公と恋人の出逢った様子が描かれている。 冒頭の歌詞を引用したので見てほしい。 眩しい夏につかまえた 強くしなやかな指先 "強くしなやかな指先をつかまえた"という表現を使って、恋が始まったことを比喩している。 これは稲葉の作詞力の賜物だと思う。 ただ、ここまではまだ一夜限りの関係である。 本気に傷つくこと恐れない澄んだ瞳が 雨の午前六時に出て行く僕を包んで 街で出逢い、意気投合し、夜を共にし、早朝に別れる。 一夜限りの関係だったが、本気の恋に発展 2番の歌詞でも夏だが、"秋の扉たたくまで"という歌詞があることから、 夏も終わりに差し掛かっていることがわかる。 冒頭の歌詞を引用したので見てほしい。 再会はすぐに訪れ やがて迷いはなくなり 一夜限りの関係だったのに、すぐに再会した二人。 いずれにしても二人はお互い好意を持っていたということだろう。 迷いも消え、本気の恋に発展したのだ。 しかし、お互い長くは一緒に居れないことが判明する。 二人違う場所でしか叶わぬ夢を持ってるから わずかな時間しか残ってないと知っていた 二人はそれぞれ夢を持っており、それは一緒に居ることで叶うことが不可能な夢でもあった。 つまり、必ず別れなければならない状況下にいる二人なのだ。 冬になり、ついに別れる Cメロでは歌詞に"木枯らしが過ぎようとする頃"とあるので、冬になっていることがわかる。 2番の歌詞で二人は一緒に居られないことがわかったので、いよいよこのパートで別れることになる。 穏やかな笑顔作りながら 出会いを悔やむことはないと 言い聞かせグラスを開けた時 これが最後だと頷いた 切ない最後である。 『もう一度キスしたかった』というフレーズが3回出てくるけど、「何でもう一度キスしたかったか」が違うんだよね。 こういう稲葉の作詞のテクニックはすごいね このコメントの通り、 3回歌詞に出てくるタイトル名はそれぞれ意味が違うのだ。 まずは1回目の「もう一度キスしたかった」。 これは1番のサビ終わりで登場するのだが、まだ1番の歌詞では二人は一夜限りの関係である。 つまり性欲からくる「もう一度キスしたかった」なのだ。 次に2回目の「もう一度キスしたかった」。 これは2番のサビ終わりで登場する。 2番の歌詞では迷いを捨てて二人が本気の恋を始めるが、結局長くは一緒に居れないことを知るというパートだ。 つまり本当の愛を込めて「もう一度キスしたかった」なのだ。 そして最後の「もう一度キスしたかった」。 これは大サビのラスト、いわゆる本作を締めくくる最後の言葉である。 いよいよ別れのとき。 "まだ一緒にいたい"という願いを込めての「もう一度キスしたかった」なのだ。

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