エリザベート。 エリザベート (ミュージカル)

ミュージカル『エリザベート』|梅田芸術劇場

エリザベート

エリザベートは、兄にルイ16世、のちのルイ18世になるプロヴァンス伯爵、後のシャルル10世になるアルトワ伯爵、姉にサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世の妃になったマリー・クロティルドがいます。 肉親への愛情がとても深く、5歳年上の姉、マリー・クロティルドがお嫁に行ったときには、姉との別れを悲しみすぎて、病気になってしまったほどです。 マリー・アントワネットがヴェルサイユに嫁いできたとき、まだ15歳になっていませんでしたが、まだ6歳のエリザベートにとっては、マリー・アントワネットは頼もしいお姉さんであり、クロティルドがいなくなって悲しんでいるエリザベートを慰めていたのはアントワネットでした。 エリザベートは年の離れた兄夫婦が大好きで、親のようにも思い、食事もいつも一緒にとっていました。 エリザベートが年頃になると、たくさんの縁談が舞い込んできました。 見てくれも性格も良いのですからそれはもう大変なものだったらしいです。 昔は、王家に嫁ぐと、一生実家には戻れないというのが当たり前でした。 マリー・アントワネットも14歳でフランスに嫁いでからは、一度もオーストリアに戻っていません。 エリザベートも王女ですから、お嫁に行くのはどこかの国の王太子です。 ゆくゆくはその国に君臨しなければならない立場の人になります。 そうして自分がフランス人でなくなることをエリザベートは嫌だと思ったのです。 どこかの国の玉座に上るよりも、兄の玉座の足元にいた方がいいと、生涯独身でいることを選んだのです。 このとき、どこかに嫁いでいれば、革命が起こっても亡命して命を落とすことはなかったのですが、誰も先に起こることなど分かりません。 兄夫婦のことが大好きだったエリザベートは、いつもアントワネットのそばにいて、子供達の世話もよくしました。 国王一家と一緒にタンプル塔に幽閉されていからも、子供達の勉強をみてやったり、洗濯をしたりと世話を焼いていました。 頭がよく、幽閉された時点で、その先の運命がどうなるかなど、エリザベートなら分かっていたはずです。 そして、エリザベートなら、国王一家と行動を別にして逃げ出すことも可能だったのです。 けれどもエリザベートは、運命を共にする方を選んだのです。 マリー・アントワネットはコンシェルジュリーに移されてから、裁判にかけられ、刑が執行されたことを、エリザベートも知らされていませんでした。 アントワネットが最後にしたためた、長い長い手紙も、エリザベートの手に渡ることはありませんでした。 1794年5月9日、エリザベートはコンシェルジュリーに移されます。 宮廷政治に関わりがなく、有罪にしたくても口実すら見つからないエリザベートを有罪にしたてあげなくてはいけません。 結果、エリザベートは国王の脱走を助けた罪、王族、貴族の亡命に資金援助した罪で告発されました。 裁判官が言いがかりのような尋問をしても、しっかりと前を向き、理路整然と答えていました。 何を言っても利に叶ったことを答えるので、結局は、国王の妹に生まれたことが罪なのだとしか言いようのないものでした。 翌日、エリザベートは死刑判決を受けます。 一緒に同じ判決を受けた20人以上の人々を励まし、一切動揺することはありませんでした。 その中に、妊婦がいるのを見つけたエリザベートは、妊娠していることを申告するように言います。 妊娠していると、出産までの間、刑が執行されることはありません。 自分の刑が言い渡されたあとなのに、周囲に気を配るほど、気持ちが落ち着いていました。 エリザベートらは即日刑が執行されましたが、この妊婦は、出産前にクーデターが起こったために、刑が執行されることはなく、エリザベートに命を救われたことになったのです。 クーデターのあとは、エリザベートらを裁いた裁判官らが逆に裁かれました。 革命裁判の前に、判決文と死亡証明書が用意されていて、エリザベートらの裁判は、見せ掛けだけのものということが分かりました。 エリザベートに命を救われた女性も、自分の死亡診断書を手にして裁判でそれを証明しています。

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【エリザベート】

エリザベート

エリザベート(シシィ)の生涯 ミュンヘンで生まれる エリザベートの正式な名前は、エリーザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ。 Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach。 愛称はシシィ。 1837年12月24日、クリスマスイブの日にバイエルン王国(現在のドイツ連邦南部バイエルン州)の首都ミュンヘンで生まれます。 父のマクシミリアン・ヨーゼフ公爵は、ヴィッテルスバッハ分家の長。 母のルートヴィカはバイエルン王マクシミリアン1世の王女。 16歳まで開放的に育つ エリザベートの父、マクシミリアン公爵はバイエルン王家の中でも傍系で、変わり者と言われていました。 経済観念は乏しいけれど教養も知識もある自由人。 公爵の身分でありながらミュンヘンの宮廷や社交界には顔をほとんど出さず、馬で山や森を駆け巡っては狩りや釣りを楽しみ、時には農民に変装し、楽器を片手に町に繰り出すこともありました。 そんな父のそばで、通行人が投げるチップをもらう少女に扮していたエリザベート。 父のマクシミリアンは、自分に似たエリザベートの性格を愛し、娘に水泳や乗馬、狩りを教え、開放的な教育をします。 エリザベートは運動神経が良く乗馬の技術に優れていました。 都会を嫌ったマクシミリアン公爵は、家族を連れ真冬を除き一年の大半をドイツバイエルン州のシュタルンベルク湖畔にあるポッセンフォーフェン城(Schloss Possenhofen)で過ごします。 シュタルンベルク湖(Starnberger See):ミュンヘンから電車で30分。 ドイツで4番目に大きい湖 ポッセンフォーフェン城(Schloss Possenhofen):エリザベートが少女時代を過ごしたこの城は、内部の見学ができませんが、遊歩道から城の外観を見ることができます。 エリザベート皇妃博物館(Im Kaiserin Elisabeth Museum):エリザベートゆかりの品々展示されています。 姉のお見合い相手に一目惚れされた エリザベート15歳の時、姉ヘレネ(19歳)のお見合い同席のため、ミュンヘンからオーストリアのザルツカンマーグートのバート・イシュルへと向かいます。 バート・イシュルは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が愛した温泉保養地。 多くの貴族や芸術家たちも避暑地として夏を過ごしてきました。 この姉のお見合いの席で、エリザベートは姉の相手であった20代前半のフランツ・ヨーゼフ1世に一目惚れされます。 エリザベートとヘレネの母ルドヴィカは、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーの妹。 エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世はいとこ同士で、この時5年ぶりの再会でした。 前回2人が会ったのはエリザベートがまだ10歳と子供だったので、美しく成長したエリザベートにフランツ・ヨーゼフ1世は驚いたのかもしれません。 当時のフランツ・ヨーゼフ1世は、姉のヘレネには見向きもせず、エリザベートばかり見ていたようです。 ヘレネもエリザベートも美人でしたが、お妃教育を受けしとやかにふるまっていたヘレネよりも、気取りがなく天真爛漫なエリザベートに皇帝は魅力を感じていました。 ちなみにこの時バイエルン家は喪中だったため、エリザベート、母のルドヴィカ、姉のヘレネの3人とも喪服でした。 普段は母ゾフィーの言う事をきく従順な息子でしたが、この時だけは母に反抗しエリザベートを結婚相手に選びます。 フランツ・ヨーゼフ1世といえば、ヨーロッパ中の名門中の名門、ハプスブルク家の当主でした。 エリザベートの美貌ばかり注目されがちですが、 フランツ・ヨーゼフ1世もエリザベートより小柄とはいえ美男でした。 ここまでの話しだと、シンデレラストーリーに聞こえますが、エリザベートの不幸はここから始まったとも言えます。 エリザベートはフランツ・ヨーゼフ1世のプロポーズを受ける時、「 あの方を愛しています。 でもあの方が皇帝でさえなければ…」と口にしています。 カイザーヴィラ(Kaiser-Villa):バート・イシュルにあるハプスブルク時代の皇帝の避暑地の別荘。 フランツ・ヨーゼフ一世とエリザベートの愛用品などが展示されています。 建物内部だけでなく広大な庭園も見事。 劇中、エリザベートがバート・イシュルで「鹿さん.. !」と目で追いかけるシーンがありますが、このカイザー・ヴィラには、狩猟が趣味だったランツ・ヨーゼフ一世が仕留めた鹿の剥製や角がずらりと並んでいます。 バートイシュル市博物館(Museum Der Stadt Bad Ischl): エリザベートとフランツヨーゼフ1世のお見合いの場所。 ミュージカルではカイザーヴィラでお見合いをしているように見えますが、実際はこのバートイシュル市博物館(旧ホテル・オーストリア)で行われました。 聖ニコラウス教会(Pfarrkirche Bad Ischl):エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世が婚約の祝福を受けた教会 絶対権力者のゾフィーと宮廷生活を嫌った 婚約から8か月後、エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世は、1854年4月24日。 ウィーンのアウグスティーナ教会(Augustinerkirche)で結婚式を挙げます。 エリザベート16歳、フランツ・ヨーゼフ1世23歳でした。 当時のウィーン宮廷では、フランツ・ヨーゼフ1世の母、大公妃ゾフィーが絶対権力者でした。 上の絵は若き日のゾフィー。 相当な美女だったようです。 MEMOフランツ・ヨーゼフ1世は、18歳の時に前皇帝で叔父のフェルディナント1世から王位を継ぎました。 フェルディナント1世には子供が無く、その弟のフランツ・カールはフランツ・ヨーゼフ1世の父親でしたが、政治に関心のない頼りない人物で、フランツ・カールではなくフランツ・ヨーゼフ1世が即位します。 しかし即位した当時フランツ・ヨーゼフ1世はまだ18歳と若く、 皇帝の後ろ盾として権力を持っていたのが母であるゾフィーでした。 ハプスブルク帝国の威厳を保持するため、宮廷の権威としきたりを16歳の若い嫁に叩き込み「皇后教育」をしようとする姑のゾフィー。 結婚式の翌日からゾフィーに決められた命令で1日が始まることとなります。 ミュージカル『エリザベート』では、新婚2日目の朝5時、お付きの女官をぞろぞろ引き連れて、寝室でまだ寝ているエリザベートをたたき起こすシーンがあります。 ゾフィー自身による監視、または皇后お付きの女官が逐一自分の行動を見張り、宮廷のしきたりから外れると厳しい叱責をゾフィーから受け、エリザベートは宮廷生活に嫌気がさし、次第に生気を失っていきます。 一方、儀礼を重んじる常識人のゾフィーにとってもエリザベートの自由奔放さは受け入れがたいものでした。 その為、しきたりや伝統を教えるだけにとどまらず、夫婦生活にまで何かと干渉していきます。 頼みの綱のフランツ・ヨーゼフ1世はというと、結婚した1853年にはクリミア戦争が激化し、その対処に追われエリザベートのことを愛しながらも思いやる余裕もなく、エリザベートは孤独を深めていきます。 ホーフブルク宮殿(Hofburg):ウィーンの街の中心にある、ハプスブルク家の全盛期に使用されていた宮殿と庭園。 ウィーン観光のメインといえる場所です。 シシィ博物館(Sisi Museum):ホーフブルク王宮内にある、ハプスブルク家の皇妃エリザベートが使用した愛用品や肖像画をコレクションとして展示している博物館。。 美しさをキープするための運動器具、戴冠式用のドレスのレプリカ、実際に使用した銀食器、豪華な燭台などの数々を見ることができます。 アウグスティーナ教会(Augustinerkirche):ホーフブルク王宮敷地内にある、ハプスブルク家の結婚式が行われた教会で、エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世もここで結婚式を挙げました。 ミュージカルでは、結婚式でトートが高笑いをしています。 ラクセンブルク宮殿(Schloesser von Laxenburg):エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世が新婚生活をおくった館。 ルドルフ皇太子もこの館で生まれます。 出産するも子供を皇太后に奪われる 結婚した翌年、1855年に第一子・第一皇女を出産します。 しかしゾフィー皇太后に奪われた挙句、皇太后と同じ「ゾフィー」と名付けられ、エリザベートは反宮廷的な態度をとるようになります。 その翌年の1856年には第二子・第二皇女ギーゼラ出産。 しかし長女同様皇太后に取り挙げられてしまいます。 ゾフィー皇太后は、奔放な性格のエリザベートには子供の教育を任せられないと、実の母親であるエリザベートが自分の子供に会えるのを、監視付で1日1時間だけと制限していました。 そのためエリザベート皇后のゾフィー皇太后への反感が募り対立が激化します。 フランツ・ヨーゼフ1世は、これまで嫁と姑の対立に干渉してきませんでしたが、エリザベートはとうとう皇帝を引っ張り出す事に成功。 次女ギーゼラの部屋を、エリザベートの部屋のそばにするようフランツ・ヨーゼフ1世が皇太后に手紙を書きます。 皇帝からプレゼントされた髪飾りこの髪飾りは、夫である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からの贈り物です。 若き日のエリザベートがモーツァルトのオペラ「魔笛」を鑑賞した際、夜の女王が身に着けていたこの星飾りが気に入り、その様子をみた皇帝が宝石商に発注して作らせたものでした。 エリザベートは、卵、乳製品、果物のみの食事療法をはじめ、1860年(22歳)には平行棒や吊り輪などを備えてた体操室を作ります。 身長172~3cm、ウエスト50cm、体重43~47kgと スーパーモデル並みの体型を生涯にわたってキープしていました。 くるぶしまで届く髪は、手入れに毎日3時間かけ梳かし、洗髪の際は30個の卵黄とコニャックを使っていたといいます。 一方アイスクリームやクリームタルトなどの甘いお菓子が好物で、それとひきかえに食事療法も運動も度を越したものとなり、晩年はリウマチや座骨神経痛に苦しむ事になります。 また美容に熱心なあまり侍女を平手打ちをするほど激しい一面もありました。 反対にエリザベートは父親のマクシミリアン公の影響から、王族出身でありながら君主制を否定する共和制(君主のいない国家形態)寄りのものでした。 また婚約期間中にオーストリアの歴史を習った家庭教師がハンガリー出身であったことが影響し、ハンガリーに共感と憧れを抱いていました。 ウィーンの堅苦しさを嫌うエリザベートは、馬が群れをなして走る大草原や情熱的なハンガリーへと気持ちを傾けていきます。 側近をハンガリー人でかため、ブタペストへ訪れる際は、ハンガリー語で住民に話しかけ、ハンガリーの人々からも高い人気を得ていました。 1857年に初めて訪れたハンガリーのデブレツィンで熱狂的に迎え入れられますが、ミュージカル『エリザベート』でも、三色旗のドレスを着たシシィを民衆が好意的に迎えているシーンで描かれています。 ハンガリーが自治権を得るのを助けた ハプスブルク帝国の支配下にあった民族で一番抵抗が激しかったのがハンガリーでした。 ハプスブルク帝国が戦争でイタリアの多くを失い、プロイセンとの戦争でドイツをから締め出しをくらったことで威信が低下したのち、ハンガリーでは自治権を求めた運動が活発になります。 ハンガリーの領土を失いたくないフランツ・ヨーゼフ1世と、独自の政府を擁立したいハンガリー側で緊張が走りますが、このとき潤滑油として働いたのがエリザベートでした。 1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国発足。 フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートは、ハンガリー王・王妃としてマーチャーシ教会で戴冠式を行います。 オーストリア=ハンガリー二重帝国とは?オーストリア皇帝がハンガリー国王が兼任しますが、それぞれの政府には首相が任命されました。 国王は1人、首相は2人です。 それぞれの首相の元、内閣と議会が置かれ、ハンガリーは自治権を得ました。 政治には無関心なエリザベートでしたが、フランツ・ヨーゼフ1世にハンガリーに自治権を与えて欲しいと働きかけ、皇帝はハンガリーとの協調を決意しました。 ハンガリーが独立する第一歩となったこの出来事に、ハンガリー人は感謝を忘れる事なく、ブタペストのドナウ河沿岸にはエリザベートの名にちなんだ「エリザベート橋(ハンガリー語:エルジェーベト橋 )がかけられています。 一方、エリザベートの政治的な動きはウィーンの宮廷との溝を深くし、彼女はますます宮廷を避けるようになります。 このオーストリア=ハンガリー二重帝国発足の翌年、エリザベートは第四子・第三皇女マリー・ヴァレリーをハンガリーのゲデレー城で出産。 皇太后ゾフィーではなく、初めてエリザベート自らの手で育てた子供で、母の愛を一心に注ぎました。 エリザベートは特にこのお城が気に入り、頻繁に訪れていました。 旅から旅へ・・・ 1860年10月、エリザベートの健康状態が急激に悪化します。 原因は過激な運動や食事療法、または皇太后ゾフィーとの確執とも言われますが、侍医に南への転地療養をすすめられ、スペインの南、マデイラ島へ出発。 その後、英国領のコルフ島(現ギリシャ)に到着し、迎えにきたフランツ・ヨーゼフ1世と船上で再会ししウィーンへ戻りますが、4日後には咳が出始めてしまいます。 そのため再びコルフ島へ戻り長期滞在。 その3ヶ月半後、再びフランツ・ヨーゼフ1世はコルフ島にやってきます。 エリザベートは帰国の条件として、義母のゾフィー皇太后の意を受けた女官長エステルハージ伯爵夫人の解雇を要求し、皇帝はそれを認めます。 エリザベートはすぐにはウィーンへ戻らず、ヴェネツィア、バート・キッシンゲン、ポッセンホーフェンの実家でくつろいだ後、1年2ヶ月ぶりにウィーンへ帰ります。 この時は、フランツ・ヨーゼフ1世から帰国祝いにサラブレッド1頭を送られ、2万人の市民による松明行列に迎えられました。 しばらく夫婦関係は良好でしたが、堅苦しい宮廷生活を嫌い、その後もエリザベートは旅を繰り返します。 エリザベートはコルフ島に何度も滞在し、生前「出来ればコルフ島に埋葬してほしい」と伝えていました。 フランツ・ヨーゼフ1世を取り巻く環境ウィーンでエリザベートと落ち着いて夫婦生活を送ることができないフランツ・ヨーゼフ1世ですが、彼自身の状況はどうだったのでしょうか。 当時、ヨーロッパ情勢は混迷しており、皇帝はその対処に追われていました。 皇帝の座についた18歳、フランツ・ヨーゼフ一世はパリ2月革命から飛び火したウィーン革命の後処理に追われます。 エリザベートと結婚した1853年にはクリミア戦争が激化。 それまで協定を結んでいたロシアとの関係を解消します。 またフランス皇帝ナポレオン3世にイタリア北西部のロンバルディアなどを奪われ、プロイセンからも立て続けに戦争をけしかけられ、オーストリアはドイツ連邦から外される事となります。 ミュージカルでは、宮殿の居室でフランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートの部屋のドア越しにフランスとの外交で大変な思いをしていると語り、エリザベートから最後通告されるシーンがありますが、外交の大変さを語る背景には、帝国をとりまく国際情勢の厳しさがありました。 コルフ島(ケルキラ島):ギリシャの島。 ヨーロッパのバカンス地。 エリザベートが愛して何度も訪れた島。 ギリシャ文化に造型が深くホメロスに傾倒していたシシィは、ギリシャ神話の英雄アキレスの名前にちなみ「アキレイオン」と名付けた宮殿を建築しました。 シシィゆかりの品々が展示されています。 ただ完成から2年後にはシシィはこの館にあきてしまい、買い手を求めるようになります。 精神病院への訪問と死の誘惑 エリザベートは何度か精神病院を訪れていました。 実家のヴィッテルスバッハ家には精神疾患を持つ人間が多く、自分も同じ血筋をひいている事を恐れていたからと言われています。 ヴィッテルスバッハ王の2人の息子、オットーとルートヴィヒ2世も精神を病み、エリザベートと長年に渡ってお互いに愛情を持ち続けたルートヴィヒ2世は奇行を繰り返したのち幽閉され、湖で自ら命をたちます(暗殺されたという説もあります)。 また、エリザベートは「死」に対して強い興味を抱き、毒殺やしゃれこうべなど死に関するコレクションをしていました。 彼女をとりまく環境や生来の気質、そして幼少の時に淡い恋心を抱いていた少年2人を亡くしていた事が理由に挙げられるかもしれません。 ある時、三女のマリー・ヴァレリーに「 ベッドに横たわっていると詩人の魂が自分の魂を引き抜きたがっている感覚を覚えた」と手紙を送っています。 ここでいう詩人とはエリザベートが崇拝していたユダヤ詩人のハイネのこと。 エリザベートはドイツの詩人ハイネを崇拝していました。 エリザベート34歳の時でした。 18年もの長い間深く対立し、決して皇太后ゾフィーを許さないと女官に話していたエリザベートでしたが、ゾフィー最期の瞬間まで片時も離れなかったのはエリザベートだけでした。 エリザベートは後年、ゾフィーの行為は全てハプスブルク帝国の利益のためで悪意からではなかった、と語っています。 ミュージカルでは、息子フランツ・ヨーゼフ1世から拒絶され、帝国の滅亡を嘆きながら亡くなっていくゾフィーの様子が演じられています。 中でも有名なのが、カタリーナ・シュラットという女優でした。 1885年、ロシア皇帝夫妻とオーストリア皇帝夫妻で会見した際、オーストリア側は寸劇の上演を企画していました。 その劇に出演していたカタリーナ・シュラットをうっとりと見ているフランツ・ヨーゼフ1世の表情に気づき、エリザベートは2人の仲を取り持ちます。 でも何故、夫に愛人をあてがうような事をしたのでしょうか。 ウィーンに落ち着くのが嫌でヨーロッパ各地を転々としていたエリザベートは、自分が夫の精神的な支えになれないので、代わりにカタリーナ・シュラットに支えてもらおうと思ったからです。 フランツ・ヨーゼフ1世とカタリーナ・シュラットはエリザベート公認の交際となり、時には3人で楽しいひと時を過ごした事もあったようです。 皇太子ルドルフの死 かつて皇太后ゾフィーに取り上げられた息子のルドルフ。 ルドルフはゾフィーと皇帝によって軍国主義的に厳しく育てられていましたが、ルドルフ7歳の時にエリザベートは自分の手に取り戻し、教育方針を一転させます。 エリザベートは、ルドルフの新しい教育係に進歩的な思考を持つヨーゼフ・ラトゥール・フォン・トゥルンベルクを選んだため、民主主義や平等主義の思想がルドルフに新しく吹き込まれるようになります。 そのためルドルフは、時代遅れで保守的な父親に反感を持つようになりました。 一方、フランツ・ヨーゼフ1世はルドルフを帝国崩壊を招く危険分子とみなし、政治の舞台から遠ざけたため、父と子の関係は亀裂してしまいます。 ルドルフは母親のエリザベートに対しては自分と似ていると共鳴を覚えるのものの、エリザベートは旅を続けていたためウィーンには不在の事が多く、愛情や救いを求めることができませんでした。 1889年、皇帝が息子ルドルフに「お前は後継者に相応しくない」と伝えるのを従僕が耳にしています。 その4日後の1889年1月。 ウィーン郊外のマイヤーリンクでルドルフは自殺を図ります。 当時30歳。 17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとの心中でした。 彼女との愛の成就するために心中したーー映画や舞台ではそう扱われていますが、実際のところは父親との確執や心身の病、別の娼婦に心中を持ちかけていた記録から、一緒に死ぬのは誰でもよかったのではないか、とも言われています。 また部屋が荒らされていた事から、暗殺説もあり真相は不明です。 ルドルフ死後、エリザベートは錯乱状態に陥り、深い後悔に苛まれ、喪服しか身に着けなくなります。 マイヤーリンクの館(Mayerling):ウィーンの森の奥にあるルドルフがマリー・ヴェッツェラと心中した悲劇の館。 現在は修道院となっています。 夫から愛され続けていた ウィーンの宮廷を避けるように旅を重ねるエリザベートを夫のフランツ・ヨーゼフ1世は愛し続けます。 皇帝は倹約家で皇帝服がほつれても買い替えずに着続けたといいますが、一方エリザベートは美への執着と放浪癖に莫大な費用をかけていました。 公務を放棄し出費の多いエリザベートを非難する声が宮殿からも国民からも挙がるのですが、皇帝はエリザベートの旅行先に手紙や花束、資金や必要な物を送り続けています。 馬術習得のためのイギリスへの渡航費用 ハンガリーに専用の馬上を建設 大型ヨット「ミラマール号」を購入 ウィーン郊外の森に新しい別荘、ヘルメス・ヴィラを建築 などなど、エリザベートの為に出費を惜しみませんでした。 そしてウィーンの宮廷にとどまる事のないエリザベートの肖像画を書斎に飾り、彼女の存在を身近に感じるようにしていたそうです。 フランツ・ヨーゼフの気持ちを想うとせつないですね。 この曲の舞台は、夫婦一緒に過ごした1895年のコート・ダジュールのマントンのマルタン岬です。 ヘルメス・ヴィラ(Hermesvilla):ウィーン旧市街から小一時間のラインツ動物保護区にあり、現在は博物館として内部が公開されています。 エリザベートが生きた、19世紀後半に流行した歴史主義時代の豪華な調度品などが展示されています。 マルタン岬:南フランス、コート・ダジュールのマルトンにある岬。 皇帝夫妻はこの地に2度滞在しました。 ジュネーヴで暗殺 1898年9月10日。 ジュネーヴのホテル・ボー・リヴァージュに滞在していたエリザベートは、13時40分発の蒸気船に載るために、レマン湖のモンブラン埠頭へ向かう途中、無政府主義者のルイジ・ルキーニに暗殺されます。 (エリザベート享年60歳) イタリア人のルキーニは政治思想があったわけではなく、王族ならだれでも良かったとも話しています。 エリザベートは葬送列車でウィーンへ帰還。 カプツィーナ教会に埋葬されます。 エリザベートの突然の訃報を聞いたフランツ・ヨーゼフ一世は、「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたと伝えられています。 エリザベート(シシィ)年表 年 シシィ年齢 出来事 1837 0歳 12月24日 ミュンヘンで生まれる。 父親バイエルン公マクシミリアン、母親バイエルン王女ルドヴィカ 1848 10歳 フランツ・ヨーゼフ1世、オーストリア皇帝に即位 1853 15歳 8月16日 姉のヘレネとオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフお見合いのため、バート・イシュルへ。 その席で皇帝に一目ぼれされる 8月19日 エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世婚約 1854 16歳 4月24日 ウィーンのアウグスティーナ教会で結婚式 4月29日 ウィーン郊外のラクセンブルグ城(夏の宮殿)で新婚生活が始まる 6月 皇帝とボヘミア・モラディアへ公式訪問。 しかし体調不良になりエリザベートだけウィーンに戻る(妊娠が判明) 1855 17歳 3月5日 第一子、長女のゾフィーを出産。 しかし皇太后に取り上げられる 1856 18歳 7月15日 第二子、次女ギーゼラを出産。 しかしこちらも皇太后に取り上げられ、エリザベートとゾフィー皇太后の対立が激化 9月1日 皇帝とオーストリア南部を訪問 11月17日 皇帝とイタリア訪問 1857 19歳 5月 皇帝とハンガリー訪問。 子供2人とも連れていくが旅行中に長女ゾフィー病死 1858 20歳 8月21日 皇太子ルドルフ出産。 しかし息子は皇太后の監視下に置かれる 1860 22歳 6月 無理なダイエットがたたり神経症が悪化。 ポッセンフォーフェンで静養 8月 ウィーンに戻る 10月 健康状態が悪化。 この頃フランツ・ヨーゼフ1世に浮気の噂がでる 11月 マディラ島に療養へ出発 1861 23歳 4月 マディラ島を離島し5月にコルフ島へ到着 5月 迎えにきたフランツ・ヨーゼフ1世と伴にウィーンへ戻るが体調悪化 6月 コルフ島へ到着 11月 ベネツィアで家族水入らずで過ごす 1862 24歳 6月 バート・キッシンゲンで療養 8月18日 1年2か月ぶりにウィーンへ帰還 1863 25歳 正式にハンガリー語を習う 1月 フランツ・ヨーゼフに精神病院を一緒に訪問するよう頼む 7月 皇太子ルドルフが木から落ちて一時意識不明になるがシシィには知らされなかった 1864 26歳 3月 ルートヴィヒ2世が新バイエルン国王になる 初夏 バート・キッシンゲンでルートヴィヒ2世と再会し急接近 7月 湯治療養を終えウィーンへ帰還 11月 ハンガリー人のイーダ・フェレンツィを購読係に採用。 のちにシシィ暗殺まで34年間、側近として仕える 1865 27歳 7月 フランツ・ヨーゼフに最後通牒の手紙を書き、子供の教育や自らに関する決定権を得る 1866 28歳 エリザベートの側近に8人のハンガリー人の女官が仕える 1月29日 皇帝とハンガリーへ出発 2月 皇帝とハンガリー議員代表団の間に緊張感が走る中、シシィが潤滑油の役目を果たす 6月~7月 オーストリア・プロイセン戦争勃発。 オーストリアが敗退する 8月 プラハで和帝協定調印。 でオーストリアはヴェネツィアを失う 1867 29歳 2月 オーストリア・ハンガリー二重帝国発足 6月 ブタペストのマーチャーシ教会でハンガリー王位の戴冠式 8月 ザルツブルクでフランス皇帝ナポレオン3世と皇后ウージェニーと会見 1868 30歳 4月22日 三女マリー・ヴァレリーをハンガリーで出産 1872 34歳 5月28日 皇太后ゾフィー死去(享年67歳) 1873 35歳 4月 次女ギーゼラがバイエルン公レオポルドと結婚 5月 ウィーン万国博覧会開幕 12月2日 フランツ・ヨーゼフ在位25周年祝賀 12月3日 ウィーンを離れる 1874 36歳 1月 ルートヴィヒ2世の母マリアと精神病院訪問 7月 狩の馬術を習得するためイギリスへ行き、ワイト島やロンドンに滞在 ヴィクトリア女王の訪問を受ける 1875 37歳 7月 三女マリー・ヴァレリーを連れフランスへ 1876 38歳 3月 馬術の練習で再びイギリス旅行。 騎乗狩猟大会に参加 4月 ウィーンへ帰還 9月 フランツ・ヨーゼフ1世がシシィのために購入した豪華ヨット「ミラマール号」でコルフ島へ 1877 39歳 ルドルフ19歳になり成人する 1878 40歳 皇太子ルドルフを連れてイギリス訪問 1879 41歳 2月 アイルランドで馬術訓練。 翌年も訪問 1880 42歳 3月10日 皇太子ルドルフとベルギー王女・シュテファニー婚約 1881 43歳 イギリス、フランスへ。 乗馬を楽しむ 5月10日 アウグスティーナ教会で皇太子・ルドルフがベルギー王女・シュテファニーの結婚式 1882 44歳 オーストリア、ドイツ、イタリア三国同盟 シシィの趣味が乗馬から競歩へと移る 1884 46歳 4月 坐骨神経悪化のため療養旅行へ 1886 48歳 シシィは自分の不在時、夫を慰める代役として女優のカタリーナ・シュラットと引き合わせる 5月 夫婦でフランツ・ヨーゼフがエリザベートの為に建てたヘルメスヴィラへ 6月 バイエルン王ルートヴィヒ二世溺死 1887 49歳 春 ウィーンの精神病院訪問 7月 ハンブルグにいるハイネの妹を訪問。 その後イギリスへ渡ったのち、ギリシアの島々へ 1888 50歳 皇太子ルドルフ、ハンガリーの野党政治家に会うなど反政治的な行動をとる 11月 コルフ島に別荘建築の計画をたてる 11月15日 父マクシミリアン公死去 1889 51歳 1月30日 皇太子ルドルフ、マイヤーリンクで男爵令嬢マリー・ベッツエラと心中(享年30歳) 2月5日 ルドルフ葬儀。

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【エリザベート】

エリザベート

2015-03-05• 私たちが『エリザベート』にハマる理由• 2014年の年末から2015年の初めにかけて、最も演劇界を賑わせた話題の1つが東宝ミュージカル『』の新キャスト発表だろう。 宝塚版の日本初演から19年、なぜ『エリザベート』という作品に私たちがこんなにも夢中になるのか・・・今回は東宝版の舞台の軌跡と、エリザベートことシシィが生きた物語を追いながら、その理由に迫ってみたいと思う。 帝国劇場全117回の公演だった。 タイトルロールを演じたのは元宝塚雪組男役トップスタ一の。 エリザベートの少女時代から晩年、そして死の時まで彼女を見つめる黄泉の帝王・トート役はミュージカル界不動のスター・とそれまで主にストレートプレイの舞台に立ってきた文学座・のWキャスト。 物語の狂言回しとも言える暗殺者、ルイジ・ルキーニ役は当時映像で活躍していた髙嶋政宏、そしてエリザベートの息子、皇太子ルドルフ役はこれがデビューとなる現役芸大生のとかなりの混成キャストだった。 関連記事: 初めて『エリザベート』を帝劇で観た時、まず感じたのは「ウエストエンドやブロードウェイ作品とは違う独特の世界観」と「音楽の素晴らしさ」だった。 前者は演出が宝塚歌劇団の氏だったこともあり、ある種の暗さがかなりの割合を占めている作品にも拘らず、どこか少女漫画的なキラキラ感もあって、それが何とも不思議で魅力的なテイストを醸し出しているという印象。 後者に関しては言うまでもないだろう。 そう、演出の小池氏もこれまで多くのインタビューで答えている通り『エリザベート』は決して明るくHAPPYなミュージカルではないのだ。 長らくこの帝国を支配してきたハプスブルク家の栄光と滅亡が、主人公エリザベート(愛称=シシィ)の人生と重ね合わせられながら紡がれていく。 ドイツ・バイエルン地方の侯爵家の娘として自由奔放に育った少女・シシィは姉のお見合いに同行した際、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められ、ハプスブルク家に嫁ぐのだが、その結婚生活は決して幸福なものではなかった。 そんな日々の中、彼女の最初の覚醒と共に歌われるのが作品のメインテーマとも言える「私だけに」だ。 自分の人生は自分自身のもの、誰にも支配されないと決意したシシィは美貌を武器に夫に様々な条件を提示し、自らの居場所を獲得していく。 そんなシシィを少女時代に落下事故から救って以来、「死」の世界に誘おうとするのが黄泉の帝王・トートである。 近代から現代演劇のテーマにありがちな女性の自立と言うファクターに、トートの存在は鮮やかな色合いと強い個性とを加えている。 ミュージカル『エリザベート』が多くの観客を魅了し愛される大きな理由の一つがトートの存在に象徴される一種の少女漫画感と非日常感なのだと私は思う。 徹底的にリアリズムを追求するストレートプレイとは異なり、このエッセンスを加えることで決して幸福とは言えなかった一人の女性の結婚生活と名家の滅亡と言う影を持った物語に華やかさと生々しくない恋愛モードが足され、観客はゴツゴツした木の椅子ではなく、座り心地の良いクッションシートでストーリーに浸る事が出来る。 シシィの人生のビターな描写は二幕でさらに深まっていく。 息子・ルドルフの自殺、夫・フランツとの埋められない溝、衰えてくる美貌…。 物語の終盤で夜の水面(みなも)を見つめながらシシィとフランツが互いの相容れない思いを歌う「夜のボート」のメロディーは若い二人が出会い、輝く緑の中で結婚を決めた時に流れるナンバーと同じ旋律である。 観客が大人であればあるほど、人生の切なさを実感する場面だ。 ラストシーンで暗殺者・ルキーニに殺されたシシィは迎えに来たトートと共に黄泉の国に旅立つ。 暗殺されたにも拘らず、最後まで「私の人生は私だけのもの」と輝かしい顔で黄泉の世界へ向かうシシィの姿は、ハプスブルク家に関わった他の死者たちが闇の中に沈んでいくそれとは対照的だ。 彼女は「死」と共に本物の「自由」を手にしたのである。 初演の一路真輝から2012年版で同役を演じた・まで、元宝塚の男役トップスターたちが演じることが慣例となっていたエリザベート役が2015年版では元娘役のトップ、と蘭乃はなにバトンタッチされる。 また、2010年に同役を演じたと、初演で皇太子ルドルフとしてミュージカル界にデビューした井上芳雄がトート役になり、ルキーニ役には『』のマリウス等、端正な二枚目路線の役を多く演じてきたと歌舞伎界のみならず、ミュージカルの舞台でも活躍する個性派・がキャスティングされている。 エリザベートの夫・フランツはルドルフ役の経験もあるとLe Velvetsの佐藤隆紀が演じ、皇太子ルドルフは2012年からの続投・に加え、の、皇太后・ゾフィーは元宝塚男役のトップスター・剣幸とのWキャスト、更に『レディ・ベス』メアリー役で大きな存在感を見せた未來優希がエリザベートの母・ルドヴィカと、娼館の女主人・マダム・ヴォルフの二役を演じる。 「滅びの物語」という暗い軸を持ちながら、その中に埋没することを良しとせず、皇后として…そして一人の女性として時代を懸命に生き抜いた『エリザベート』。 2015年6月に彼女の新たな旅がスタートする。 私たちが『エリザベート』を愛する理由…それは劇場で彼女の旅に同行しながら時にときめき、時に微笑み、そして時に涙する事で、自らの人生とも向き合う時間を得るからなのかもしれない。

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