昭和同人雑誌。 『昭和文学の胎動 同人雑誌『日暦』初期ノート』(川端要寿著 福武書店 1991)に書かれている同人誌...

『昭和文学の胎動 同人雑誌『日暦』初期ノート』(川端要寿著 福武書店 1991)に書かれている同人誌...

昭和同人雑誌

画像募集中 ジャンル 、 読者対象 愛好者 刊行頻度 、発行日不定 発売国 言語 日本語 定価 30(1号-2号、4号-10号) 15銭(3号)、25銭(11号-14号) 20銭(15号-28号) 出版社 発行人 青空社 編集長 (1号-7号) (8号-12号) (13号-28号) 編集当番 (10号-11号) 各人順番(12号-28号) 刊行期間 1月 - 6月 発行部数 300-2000部(2000年9月調べ) 姉妹誌 真昼(劇研究会の同人誌) (新人倶楽部の同人誌。 発行) 『 青空』(あおぞら)は、の。 (大正14年)1月に、在学中の、、らが創刊したである。 誌名は、のを見たことと、のの一節「さわぐものはさわげ、俺は 青空」にちなんで付けられた。 梶井基次郎の代表作となる「」「」が、で掲載された最初の雑誌として知られる。 参加した同人には、、、、、、、などがいた。 の同人雑誌として創刊されながらも、多様なメンバー構成の点などからも近代文学史の中で果たした役割は大きく、意義のある雑誌である。 時代背景 [ ] の後期から系の『』などはあったものの、期になり民衆芸術運動や大正の影響で、中学・高校生から活動を始めるが増え始め、『』の衛星誌や、出身者が(大正10年)に創った『』などが発刊された。 これらの先駆的な流れから、数多くの同人雑誌が発行され、旧的なとは違う「」を目指そうとする作家志望のの若者たちの気運が高まっていた。 『青空』が創刊される前年の(大正13年)6月には、東京帝国大学の、、らの第七次『』や、系の、、の『』、10月には、、、らの『』が創刊されるなど、文壇に近い新人作家らの間でも新たな文学的動きが活発な時期であった。 この1924年(大正13年)には他にも、らの『大衆文藝』、らの『青銅時代』(1月)、、、らの『山繭』(12月)が創刊された。 翌(大正14年)は、らの『青空』(1月)の他、、らの『辻馬車』(3月)、らの『主潮』(4月)、らの『不同調』(7月)、、らの『葡萄酒』(8月)、、、らの『朱門』(10月)、(大正15年)には、、らの『街』(4月)、、らの『』(4月)などの同人雑誌が次々と創刊された。 同人結成の経緯 [ ] 、、らと同じ(現・ 総合人間学部)を2年遅れで卒業し、(大正13年)4月に大宅らと同じに進んだ()、(文学部)、(経済学科)は、大宅らが第七次『』発刊の計画をしていることを知って刺激され、自分たちも前々から創りたかった同人雑誌を発刊する計画を本格的に始動した。 からに来て、梶井基次郎は本郷3丁目18番地(現・2丁目39番13号)の蓋平館支店にし、近くの本郷台町の高洲館に下宿先を決めた中谷孝雄と頻繁に行き来していた。 父親が東京とでの店舗を構えていた外村茂は、自宅別宅の麻布市兵衛町2丁目55(現・)から通学し、この邸宅で婆やと2人で住んでいた。 3人は、三高出身の小林馨(文学部)、忽那吉之助(文学部独文科)の2人も同人に加えることにした。 小林馨は三高劇研究会の仲間で、忽那吉之助は、中谷孝雄が落第して同クラスになった縁で親しくなり、帝大も同じ学科に進んでいた。 もう1人、中谷の三重県立第一中学校(現・)時代の後輩で、の新進・も仲間に誘った。 梶井、中谷、外村の3人は京都にいる時から、同人誌を創るとしたら誌名を「 鴉」にしようかと話していた。 これは三高劇研究会の会合の後によく通ったのの北側の店「・レーヴン」からの思いつきで、の詩に「」があったことも由来していた。 しかし梶井はこの「」という名には不満を持っていた。 誌名決定 [ ] 同年(大正13年)5月初旬、同人6名は本郷4丁目の食料品店「青木堂」の2階にある喫茶店で第1回同人会を開いた。 はの第七次『』を強く意識し、一日でも早い創刊を主張したが、夏休みに帰省する者もいることから、創刊を秋にすることとした。 6人は具体的な日取りや、資金は1人毎月3円ずつ積み立てて、も取ることなどを決め、本部の連絡場所をの家とした。 10月初め、はとのを再開して、本郷下の下宿でを持った。 その下宿に集まった同人6人は、なかなか決まらなかった雑誌の正式名称を何にするかを改めて相談した。 「 薊」()という名がいいと梶井基次郎は主張したが、花だとが助言して廃案となった。 英子が窓辺で中谷に、の詩に「 さわぐものはさわげ、俺は青空」というのがあると囁いた。 英子は武者小路実篤の主催する「」に入村していた。 その英子のヒントから、中谷は秋晴の美しい空を見上げながら「青空はいいな」と叫び、即座に梶井が賛同した後、他の4人も同意し「 青空」に決定した。 誌名が無事に決まり、6人は創刊号に載せる作品原稿の締め切りを10月末に決めた。 創刊号発刊 [ ] 10月末、同人6人は原稿を持ち寄った。 巻頭には、の「」を掲載することが決まった。 発売所は帝大前の書店に依頼したが、代が高額で予算を超えたため、そこでの印刷は断念した。 なかなか適当なが見つからない中、のの友人・の父親がの所長をしていた伝手で、刑務所の作業部で印刷してもらえることになった。 11月末、と忽那吉之助が帰郷の途中に岐阜刑務所に原稿を渡した。 や難しい漢字のなどの事務連絡が郵便で往復して手間取り、創刊号発行は新年に延ばすことになった。 雑誌が刷り上がり、12月26日、外村と梶井と中谷孝雄の3人はでに向った。 27日の早朝、到着した3人はの水で顔を洗い、岐阜刑務所作業所で『青空』300部を受け取った。 雑誌を始めて見たときは流石に心がときめいた。 表紙は線で枠を取り、更にその枠のなかに二本の朱線を入れて三つの欄に区分し、中央の欄に青空と縦に大きくで印刷してその下に小さく 一 と入れてある。 そして右側の欄に一九二五年一月、左の欄には青空社とある。 ただそれだけの簡素な表紙であつたが、金のかかつてゐない割にはよくできてゐた。 — 「梶井基次郎」 半分の部数を外村茂の実家に送付し、残りの半数を携えて3人は京都に向った。 彼らの劇研究会の後輩の浅沼喜実、浅見篤(の弟)、北神正、熊谷直清(老舗の息子)、楢本盟夫、新加入の(文甲3年)、龍村謙(文乙2年)が販売協力のためにある「あけぼの」で待っていた。 (大正14年)1月1日、同人誌『青空』創刊号(第1巻第1号・通巻1号)が30で販売された。 創刊号の掲載作は、「檸檬」(梶井基次郎)、「信」(忽那吉之助)、「暑熱」(小林馨)、「折にふれて」(蠑螈子)、「母の子等」(外村茂)、「初歩」(中谷孝雄)だった。 蠑螈子は稲森宗太郎ので、稲森の作品だけ(11首)で、あとは小説だった。 (表紙デザイン)は忽那吉之助が手がけ、巻末には、帝大正門前の萬藤果物店、、ののが掲載されていた。 萬藤果物店と白十字堂の広告は、基次郎と稲森が取って来たものだった。 キネマ旬報社は基次郎の三高時代からの友人・が映画評を書いていたである。 『青空』創刊号は作家には寄贈しなかった。 文学界に認められたいという思いはあるものの、物欲しげな根性は避けたく、修業の身のうちは馬鹿と付くほどの頑なさや潔癖さを持つべきとの気概と美意識があった梶井基次郎が、「彼らは書店で(30銭を払って)買って読む義務がある」と主張したからだった。 同人の間にも梶井の言葉に感動し同調する気風があった。 しかし書店に置いた無名の同人雑誌『青空』創刊号は、京都では1冊も売れず、やっとで1冊売れて、それで祝杯をあげたほどだった。 創刊号を手にとって読んだのは、同人と三高劇研究会の面々、その他、見知らぬ数人だけという結果だった。 『青空』創刊・第1号はほとんど知られることなく終り、6人が集まった同人合評会では中谷孝雄が梶井基次郎の「檸檬」を批判し、小説ではなく短歌を発表した稲森宗太郎に不満を述べるなどした。 数日後、稲森は同人脱退を申し出た。 健康上の理由もあった稲森は、短歌一筋に生きることを良しとした。 第2号以降 [ ] 同人5名となって1925年(大正14年)2月20日に発行した『青空』第2号(第1巻第2号)には、忽那吉之助、外村茂、中谷孝雄、梶井基次郎が作品を持ち寄り、梶井は「」を掲載した。 第3号から、印刷所を麻布区町5番地の秀巧舎に変更した。 作業所は安く上がったが、遠距離で連絡の不便もあり、摩滅したが使用され、も多いことから止めた。 この第3号に作品を発表したのは、忽那と外村だけで、価格は15銭にした。 5月には、三高劇研究会の後輩たちが同人誌『 真昼』を発刊した。 『真昼』同人には、、浅見篤、土井逸雄、楢本盟夫、清水真澄らがいた。 6月発行の第4号からは、を卒業してにやって来た浅沼喜実()と(文学部)が同人参加した。 梶井は、淀野から(文学部仏文科)を紹介され、三好も勧誘したが、まだこの時に三好は同人にはならなかった。 淀野は無名状態の『青空』をなんとかするため、やはり著名作家へ贈呈するべきと提案し、この号から文壇作家に雑誌を送付した。 梶井、中谷、外村の3人は、たまたま「」から上京していたにも、創刊号から4号までを直接献呈した。 また同時期、梶井の三高時代の友人・小山田嘉一(法学部卒後に入社)が「」を読んで感動し、それを同じ法学部だった(文学部仏文科に再入学)に勧め、北川も賞讃していた。 北川と梶井は三高時代にお互い「江戸」で顔見知りであった。 梶井は小山田の家で北川に再会し、同人に誘うが、まだこの時、北川も参加しなかった。 11月発行の第9号からは、随筆欄「真素木」を設けた。 これは三高劇研究会の回覧雑誌『真素木』に由来した名称である。 この月、外村茂は『』から文芸時評を依頼されて寄稿したが、名前をされて「」と印刷された。 外村はその後それをとした。 12月には、公会堂との公会堂で『青空』文芸講演会を開くなど広報活動をするが 、大津での聴衆は7名(内2人は『真昼』同人)だった。 翌年(大正15年)4月には、梶井基次郎の麻布区飯倉片町(現・港区)の下宿近くに住んでいた宅に『青空』第15号を直接献呈した。 同人たちは資金集めのため取りに励むが、無理がたたって持病のが進んだ梶井はで転地療養を決め、持ちの中谷孝雄や外村茂も生活に追われて、なかなか雑誌経営に専心することもままならなくなった。 雑誌は経営難のため、三高劇研究会の同人誌『真昼』との合同が模索されたが、この計画も実現しなかった。 新たな同人加入もあったが、同人費を払えなくなって脱退する者もあり、定期購読者も少なく購買数も伸び悩んだため、最終的には1927年(昭和2年)6月の第28号をもって終刊となった。 社会背景的には、もあった。 終刊後 [ ] 『青空』の終刊後、同人のとらがから新しい同時雑誌『 糧道時代』発刊の計画をし、、、、だけを誘っていた。 梶井は、そこに選ばれなかった同人共々と『青空』再興を目睹していたので、誘いを辞退した。 そのため、『糧道時代』は幻となり、その後(昭和3年)2月創刊の同人誌『』に発展した。 『文藝都市』の同人は、、、、、、、阿部知二、古澤安二郎、ほか20人で、に対抗する「新人倶楽部」の機関誌として結成され、浅見淵から勧誘された梶井基次郎も消極的ながらも参加した。 その後、、、、も『文藝都市』同人に加わった。 中谷と淀野の参加は梶井が蔵原に直々に頼み込んで実現できた。 梶井は、この『文藝都市』に「」「」を発表した。 文学史的評価 [ ] 同人誌『青空』は、当時あまり文壇に注目されることのなかった雑誌で、特に主義主張を掲げたものでなかったが、その後に著名となる、、が結成していた同人雑誌として、近代文学史的に意義のある雑誌である。 また参加同人メンバーの多様性からも『』や『』、戦後の『』と同様の特色がある。 はじめて、ズブのがそこで結集する。 しかも、ほぼ学校を同じくした人々が、ということになると、とりわけ「白樺」と「青空」が大きくクローズアップされてくる。 実際、「同人雑誌」というものの本来的に持っている素人性、手垢に汚れぬ清潔さ、ひたむきさ、久しきにわたってその「初心」を大切にする心根、などからいうとこの「白樺」と「青空」は「同人雑誌」の「典型」ともいえるものである。 役割の大きさというよりは、こういった同人雑誌特有の性格において「青空」は永遠にされるものであろう。 「青空」は最初からひとつの文学運動の拠点になるというあらわな意図でもって創刊されたのではないようだ。 第1号には、とりたてて壮大な創刊のことばもなければ、ういういしくはずんだような同人雑談すら見うけられない。 あえて気負った姿勢をば、空疎なことばで見せてゆくようなことに著しく潔癖なのである。 — 「解説」(復刻版『青空』) 『青空』掲載作品での最初の外部的な評価として特筆できるのは、が(大正15年)7月の第17号に掲載した「第四短篇集『』を主題とせるヴァリエイシヨン」に、()が感心を寄せていたことである。 当時、田中は金を出してこの号を買っていた。 田中西二郎はその後、に入社し、梶井に執筆依頼することになるが、その『』に掲載された「」は梶井が生前発表した最後の小説となった。 1926年(大正15年)8月中旬には、やはり梶井の作品に着目した雑誌『』の編集者・が、同誌10月新人特集号への寄稿を梶井に依頼するが、猛暑と持病ののために、原稿の完成が思ったように進まず、梶井は9月にに詫びに行った(この未完の作品が、のち「」となった)。 この『新潮』10月新人特集号に執筆依頼され寄稿した新人は、、、、、、などがいて、破約したのは梶井基次郎だけだった。 もしも梶井がこの『新潮』に発表していれば、文壇への足掛かりとなった最初の絶好の機会であった。 梶井がで執筆し、24号と26号に掲載された「」も好評で、から讃辞された。 湯ヶ島で梶井から25号を手渡されたは、そこに掲載されていたの小説「節分まへ」を褒め、讃辞の手紙を送るために外村の自宅の住所を訊ねた。 梶井は終刊後の1928年(昭和3年)12月に、同人誌『青空』について以下のように振り返っている。 別に花々しく世のなかの視聴を欹てたといふ訳でもなく、の新人を送り出した訳ではなかつたが、それの持つてゐた潜勢力は当時人も知り私達も自信してゐた。 そして同人の多くがや卒業のため四散してしまつた今でも、なほ私はそれを信じてゐる。 「青空」は遊戯気分のない、融通の利かないほど生真面目なものを持つた人達の集りであつた。 広く世の中へ出て見るに随つて、私達は私達の持つてゐた粗樸な熱意に振り返り敬礼せずにはゐられない。 「青空」から新人会へ、文学から解放運動へ出て行つた私達の一人はその後もよく云つてゐた。 「全く青空でがんがんやつたのがよかつた」然り「青空」はなによりも私達の腹を作つた。 — 梶井基次郎「『青空』のことなど」 同人一覧 [ ] 創刊メンバー [ ]• (現・)、(現・ 総合人間学部)甲類(必修)卒。 三高劇研究会。 東京市飯倉片町32番地(現・港区3丁目4番21号)の堀口庄之助方の住所が青空社となる(通巻13号-通巻28号)• (帝大文学部)• 三重県立第一中学校(現・)、第三高等学校文科乙類(必修)卒。 三高劇研究会。 (帝大)• 滋賀県立膳所中学校(現・)、第三高等学校文科甲類卒。 三高劇研究会。 東京市麻布市兵衛町2丁目55(現・)の住所が青空社となる(通巻1号-通巻7号)• のち筆名をにする。 (帝大文学部仏文科) - 1号から26号まで• 秋田県立大館中学校(現・)、第三高等学校文科丙類(必修)卒。 三高劇研究会。 (帝大文学部独文科、のち国文科) - 1号から27号まで• 愛媛県出身。 第三高等学校文科乙類卒。 三高部。 () - 1号のみ• 三重県立第一中学校、卒。 に師事し、早稲田同人誌『自画像』にや小説を発表。 主催の演劇研究会に参加。 参加メンバー [ ]• - 第3号のみ• (帝大文学部仏文科) - 4号から• 京都府立京都第二中学校(現・)、第三高等学校文科甲類卒。 三高劇研究会。。 東京市小日向台町2(現・)の住所が青空社となる(通巻8号-通巻11号)• 東京市町45(現・上野桜木)の清水澄方の住所が青空社となる(通巻12号)• (帝大法学部) - 4号から• 鳥取県立鳥取第一中学校(現・)、第三高等学校文科甲類卒。 三高劇研究会。 のちに筆名・湖山貢。 (帝大法学部) - 10号。 17号から23号まで。 兵庫県立第一神戸中学校(現・)、第三高等学校文科甲類卒。 三高劇研究会。 筆名は金子勝正。 その後、本名の北神正で発表。 (本科) - 10号から26号まで• 京都府立京都第二中学校卒。 淀野隆三の友人。 伏見新町出身。 を一新する時に、清水蓼作の名義で装幀を担当。 1926年(大正15年)4月、奉讃展で「早春之道」が入選。 (帝大文学部仏文科) - 12号から• 東京府立第一中学校(現・)、第三高等学校文科丙類卒。 第七次『』同人。 (帝大文学部仏文科) - 16号から• 中退、第三高等学校文科丙類卒。 (帝大法学部、文学部仏文科) - 22号から• 第三高等学校文科丙類卒。 『』同人。 帝大文芸部の『朱門』同人。 本名は田畔忠彦。 (第三高等学校文科丙類落第) - 22号から27号• 三高劇研究会。 『真昼』同人。 (帝大学科) - 22号から• 第三高等学校文科乙類卒。 三高劇研究会。 (帝大文学部英文科) - 22号から• 『朱門』同人。 (帝大文学部英文科) - 22号から• 第八高等学校卒。 『朱門』同人。 (帝大) - 25号から• 第八高等学校卒。 () - 27号から• 第三高等学校卒。 『青空』同人ではないが、三高劇研究会後輩で『真昼』同人のが、21号に短編「ストライキ」を寄稿したこともある。 麻布派と本郷派 [ ] 1925年(大正14年)6月、『青空』第5号(7月1日発行)の準備の頃から7名中の同人の間に、下宿の居住地域などの違いで「麻布派」と「本郷派」という呼び名ができ、やや対立的なものが生れた時があった。 最初は冗談で言っていたが、同人会の議論の場で、「本郷派は困るなあ」などという言い合いが出始め、様々なことがその対立のせいのように梶井基次郎には思えて、疑心暗鬼になったこともあった。 麻布派:、、• 本郷派:、浅沼喜実、忽那吉之助 夏休みの頃になり、外村茂の父親が麻布市兵衛町の家を引き払ったため、外村は(現・)に移り、淀野隆三も小日向台町(現・)に引っ越した。 彼らとの密な交流が減ってしまった梶井は、中谷孝雄が裏で煽動したのではないかと妄想したこともあったが、じきにこの対立感は自然消滅した。 その他 [ ] 装幀者 [ ]• (1号-10号、15号-19号) - 6種類• (11号-14号) - 1種類• (清水芳夫)(20号-22号、27号-28号) - 2種類• (23号-26号) - 1種類(の絵)• の『』の装幀者。 梶井基次郎がで『伊豆の踊子』のを手伝い、その地で川端を通じて知り合ったのが縁で、『青空』の装幀を担当。 夜、吉田の望遠鏡を梶井がよく覗いていたことから、望遠鏡の絵となった。 両手で構えた望遠鏡のに、小さなが描き込まれていて、23号にはで採集した庭石の上に置かれた、24号にはで見た洗濯物、25号には河岸採集のとに干されたとが写っているになっている。 委託発売所 [ ]• 書店(1号-19号)• 、東海堂、、大東館(20号-28号) 印刷所 [ ]• 作業所(1号-2号) - 町58番地• 秀巧舎印刷所(3号-28号) - 東京市町5番地(3号-4号)。 萬藤果物店(兼フルーツパーラー) - 東京市本郷正門前• (・) - 本郷帝大前• () - 今井町35• ケーアイ洋服店 - 本郷区森川町前• 太田屋商店(用品) - 本郷区4丁目角• 文華堂() - 本郷区森川町一高前• 燕楽軒(飲食店) - 本郷区本郷• 萬屋洋酒食料店 - 麻布区六本木町• 美満津(スポーツ用品) - 本郷東京帝大赤門前• 熊谷(文具) - 銀座尾張町• 書店(新刊書) - 本郷区森川町、帝国大学正門前• 西川誠光堂書房(新刊書) - 東丸太町• 文芸美術演劇評論同人誌『藝術運動』• 海岸ホテル(燕楽軒経営)• 誠志堂書籍部 - 麻布区六本木町• 誠志堂新館(飲食店) - 麻布区六本木町• 三高劇研究会同人誌『真昼』• パラダイス洋酒店 - 本郷区森川町1番地• 雑誌『橡』• (百貨店) - 京橋区銀座尾張町• 杏花楼() - 元本郷資生堂跡• 宇賀医院(外科花柳病科) - 本郷区駒込15番地• (百貨店) - 駿河町• 教明社(洋書) - 本郷区本郷5丁目5番地• 佐藤農花園 - 本郷区本郷3丁目交差点際• 富士屋製帽部 - 本郷区森川町大学前通り• 森井書店(古書) - 本郷区森川町大学正面前• (百貨店) - 京橋区南伝馬町、京都松原上、大阪南詰• 秀巧舎印刷所 - 麻布区2番地• 大橋書店(新刊、古書) - 本郷帝大前• よし松()- 本郷一高前• 育成堂書店(新刊) - 本郷区森川町1番地• 呑喜(・) - 本郷一高前• (洋菓子製造・販売) - 京橋区銀座尾張町• 三才社(仏蘭西語書籍) - 通町16番地• 紅屋(菓子・喫茶) - 本郷区森川町• 丸菱呉服店(百貨店) - 東京• 三角堂(西洋菓子) - 京橋交差点• 著『強い男』(人間群社)• 喜多床(理髪店) - 本郷帝大正門前• 豊国(牛鳥鮮魚料理) - 本郷区役所横 大学外来門前• カフェー・ドラド — 西南• 宮澤工作所銀座店(装飾家具) - 京橋区銀座尾張町並び• 堀内製本所 - 本郷追分8番地• 棚澤書店(新刊) - 本郷森川町31番地• (出版社) -• 正直屋(・料理) - 麻布区六本木通• サヱグサ(婦人子供衣料品) - 京橋区銀座• 詩集『検温器と花』(ミスマル社)• 月刊詩歌文芸誌『艸合』(艸合社)• 睦屋(室内装飾品) - 京橋区銀座• - 京橋区銀座通り• Tailor Y. Wong(紳士服) - 京橋区銀座3丁目14番地• — 外• 雑誌『映画往来』(キネマ旬報社)• 松翠閣(旅館) - 本郷区須賀町27番地• 福本書院(洋書輸入専門) - 本郷区本郷4丁目21番地• - 前• 小林洋服店(学生服) - 本郷区森川町一高前• 前田書店(古書) - 小石川区豊川町43番地• 心座第5回公演『時は夢なり』(作・訳)• 作の公演・演芸場• 中島ベーカリー売店 - 本郷区本郷4丁目赤門通り西側 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• とは落第したため2年卒業が遅れたが、は元々学年が下で順調に卒業した。 基次郎の「」の主題となる大事な言葉の〈不吉な塊〉が〈不吉な〉と誤植されていたことも、後々に気づいた。 なお、この第3号の価格については、編集の「『青空』細目」では25銭としているが 、『青空』第3号の編集後記の外村茂の言では「本號に限り十五銭にしました」となっている。 六本木のカフェーで女給をしていた八木下とく子と付き合っていた外村茂を快く思わない外村の父親が、2人を引き離すために麻布の別邸を引き払ったという事情があった。 藤本寿彦編集の「『青空』細目」では21号から清水蓼作の装幀としているが 、やの調査では20号からとなっている。 出典 [ ]• 30-64)• , pp. 144-153に部分所収• 137-161)• 9-21)• 454-503)• 87-110)• 162-195)• , pp. 166-167に抜粋掲載• , pp. 162-181に所収• , pp. 73-74に所収• 平林英子「梶井さんの思ひ出」(評論 1935年9月号)。 『「青空」の人たち』(皆美社、1969年12月)。 , pp. 46-52に所収• 創刊号の写真は, p. 『梶井基次郎』(筑摩書房、1961年6月)。 『中谷孝雄全集 第4巻』(、1975年)p. 339に所収。 , pp. 87-88• 504-515)• 111-122)• 74-104)• 「雑記・講演会其他」(青空 1926年2月号)。 , pp. 92-93に所収• 「第二部 第三章 青春賦」(, pp. 140-153)• 外村繁「梶井基次郎のこと」(創元 1941年9月号)。 , pp. 75-77に所収• 196-215)• 216-242)• 「宛て」(大正15年7月10日付)。 , p. 141に所収• 「第二部 第四章 それぞれの道」(, pp. 154-173)• 「第三部 第六章 素材」(, pp. 290-299)• 300-312)• 327-341)• 「宛て」(昭和2年12月5日付)。 , pp. 249-252に所収• , pp. 410-423に所収• 243-258)• 「梶井さんのこと」(評論 1935年9月号)。 , pp. 119-120に所収• 「第三部 第十章 昭和三年」(, pp. 342-358)• 283-304)• , pp. 358-365に所収• 「第二部 第六章 『新潮』への誘い」(, pp. 190-199)• 200-214)• 280-289)• , pp. 87-91に所収 参考文献 [ ]• 『梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿』 、1966年5月。 『梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜・書誌』 筑摩書房、1966年6月。 『梶井基次郎全集第3巻 書簡』 筑摩書房、2000年1月。 『梶井基次郎全集別巻 回想の梶井基次郎』 筑摩書房、2000年9月。 梶井基次郎 『檸檬』(改版) 、2003年10月。 初版は1967年12月。 梶井基次郎 『梶井基次郎全集 全1巻』 、1986年8月。 梶井基次郎 『檸檬・ 他九篇』 、1954年4月。 改版は1985年。 編 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』 、1985年7月。 『評伝 梶井基次郎』(完本版) 、2002年11月。 初本()は1978年3月。 新装版は 1984年1月。 再・新装版は1989年4月• 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•

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明治・大正・昭和の主な文学雑誌・同人誌の変遷について知りたい。できればその雑誌にどのような作家が投稿...

昭和同人雑誌

明治~昭和の雑誌の歴史などを扱っている単行本 ・杉本邦子『明治の文芸雑誌:その軌跡を辿る』(明治書院 , 1999) 明治時代の主要雑誌を含むさまざまな文芸雑誌の解説。 編集者、投稿・発表した代表的な作家の記述もあります。 巻末に「明治期雑誌略年表」あり。 ・紅野敏郎『雑誌探索』(朝日書林 ,1992) 明治以降の同人雑誌を含む様々な雑誌の詳細な説明が掲載されています。 ・斎藤昌三『書物随筆』【「斎藤昌三著作集」第四巻】(八潮書店, 1981) p. 5~「日本雑誌興亡概史」、p. 11~「日本雑誌興亡史考」に、「雑誌」の起源についての説明や各雑誌の変遷、執筆者などが掲載されています。 [年表] 上記杉本邦子『明治の文芸雑誌:その軌跡を辿る』巻末年表の参照先としてp. 310に下記資料が挙げられています。 (同志社所蔵) ・『現代日本文学大年表』明治篇(明治書院, 1968) 「事項」の欄に雑誌の創刊日の記述があり、欄外に主要雑誌などの写真が掲載されています。 ・『日本近代文学年表』(日本近代文学年表, 1993) 「社会・文学事項」の欄に創刊年-終刊年、編集者の記載があり、欄外に主要雑誌の簡略な説明が掲載されています。 405~「文学史事項解説」で主要雑誌の創刊、および掲載されているページなどが一覧で見ることができます。 個々の雑誌の細目について調べるには ・小田切進編『現代日本文芸総覧 : 文学・芸術・思想関係雑誌細目及び解題』(増補改訂版, 明治文献;大空社, 1992) 文芸雑誌105誌の細目が収められています。 その他、同人誌(同人雑誌)について ・森下節『新・同人雑誌入門』(皓星社, 1980) p. 215~第七章「同人雑誌の歴史」に明治から現代(昭和55年?)までの同人誌の歴史が書かれています。 同人誌の主要目録(同志社所蔵資料) ・『日本近代文学館所蔵主要雑誌目録』1990年版(日本近代文学館, 1981) ・『茨木市立図書館所蔵同人雑誌目録』【「富士正晴資料整理報告書」第1集】(大阪府茨木市立図書館, 1989) ・『同人雑誌目録 : 富士正晴記念館所蔵』(増補版, 富士正晴記念館, 1996) 回答プロセス Answering process.

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