麻雀 オカルト。 【マージャン】おすすめ麻雀漫画ランキング厳選10選

オカルトバスターズ(鈴木たろう特別寄稿):麻雀最強戦ブロマガ:麻雀最強戦チャンネル(麻雀最強戦)

麻雀 オカルト

麻雀プロについて網羅しているページはこちらです!• プロフィール• 生年月日:1976年2月12日• 出身地:東京都八王子市• 血液型:AB型• 趣味:カラオケ、卓内掃除• 小林剛プロは 「スーパーデジタル」というキャッチフレーズで知られ、デジタル派の代表格として有名です。 局と局の間に因果関係はなく、麻雀における「流れ」を否定し、アガるための効率を重視する雀風です。 従来の流れや運を重視した戦略を否定しし、効率を重視する「デジタル」派の雀士の代表格であるため、スーパーデジタルというキャッチフレーズで呼ばれています。 「スーパーデジタル」のほかに、 「麻雀サイボーグ」というキャッチフレーズもあり、最強の雀士は誰だと名前をあげると、必ず出てくる人物なのです。 また、オンライン麻雀ゲーム「天鳳」を使って、強豪麻雀プロと凄腕天鳳ユーザーが参加するリーグ戦「天鳳名人戦」で2度優勝しており、リアルでもオンラインでも強く、麻雀サイボーグと呼ばれるのも納得な実績を持っています。 今から約10年前、麻雀雑誌上で小林剛プロ、鈴木たろうプロ、村上淳プロの三人で 「オカルトバスターズ」というユニットが結成されました。 鈴木たろうプロは日本プロ麻雀協会に所属し、協会の最高峰タイトル「雀王」を三連覇を含む通算4度獲得し、村上淳プロは最高位戦日本プロ麻雀協会に所属し、最高位戦の最高峰タイトル「最高位」を2度獲得しており、今となっては、三人とも麻雀界を代表する凄腕雀士ですが、当時は実績少ない若手プロ、その三人が「オカルトバスターズ」として麻雀の世界で太古の昔から語り継がれている「流れ」を真っ向から否定する活動をしていました。 今となっては、「流れ論」を否定する「デジタル論」という考えが普及していますが、小林剛プロはデジタルという言葉が生まれるか生まれないかという時代から、オカルト的な流れを否定し、新たなタイプの麻雀プロとして活躍している、スーパーデジタルの名にふさわしい経歴を持ったプロなのです。 金銭を賭けない、ギャンブルとしてでない麻雀の普及を設立の理念に結成された団体で、ギャンブルではない麻雀という意味合いで、中国麻雀と同じ漢字を使った「麻将(マージャン)」という言葉を使っています。 1996年に最高位戦日本プロ麻雀協会に入会し、プロの扉を開きました。 最高位戦日本プロ麻雀協会へ入会したときは、小林剛プロはまだ大学生で二十歳の時でした。 「リーグ戦で戦ってみたい」といった想いがあり、プロの世界へ入ったそうです。 そこで、麻将連合所属の雀士になりますが、プロとしては認められません。 そして、小林剛プロは 2003年に認定プロとなりました。 認定プロとなった2003年には、竹書房が主催している若手プロを対象に面接、学科、実戦を行い、麻雀の実力と知識を元に与えられる賞である「野口賞」を受賞し、麻雀プロとして大きな飛躍となる一年になりました。 この時期に小林剛プロは、現在は廃刊となってしまった「月間プロ麻雀」誌上で、鈴木たろうプロと村上淳プロと共に「オカルトバスターズ」を結成しました。 当時はまだ実績少ない若手プロだった小林剛プロは、流れ論者、オカルト論者の大先輩たちを相手に、今までの麻雀論とは180度違う、「デジタル」的な流れを一切否定した確率重視の麻雀を主張していたのです。 そして、2009年、2011年にも優勝し、過去三度将王を獲得しました。 将王を三度獲得したのは2015年現在、小林剛プロのみで過去最多獲得者であり、名実ともに麻将連合を代表するトッププロとなりました。 所属団体以外でも、大手オンライン麻雀ゲーム「天鳳」のトッププレイヤーと麻雀プロのトッププレイヤーが参加する、「天鳳名人戦」の2011年に行われた第一期大会、2012年に行われた第二期大会で二年連続の優勝、まさにキャッチフレーズ通りのスーパーデジタル、麻雀サイボーグにふさわしい大活躍をしており、麻雀界を代表する最強雀士の一人として知られています。 関連記事• 人物・性格 好きな牌は?-「そんなものはない」 (著書「デジタル麻雀の達人」の小林剛プロのプロフィールより) 小林剛プロが「麻雀サイボーグ」と呼ばれる所以の一つとして、卓上では一切の感情を見せずに、常に冷静沈着でアガったり振り込んだりしても一喜一憂しないスタイルがあるのだと思います。 好きな牌はと聞かれても、そんなものはないと答えるところも、麻雀に余計な感情を関与させない小林剛プロの姿勢が感じられるようです。 小林剛プロは、基本的に一人称は「私」という言葉を使い、丁寧語で話し、礼儀正しいコメントで、真面目そうな雰囲気を持っている印象があります。 卓掃が得意らしいです。 なんだかそれも小林剛プロらしい。 スーパーデジタルというキャッチフレーズで知られていますが、 「デジタル」という曖昧な麻雀用語を使いたくないから、といった理由で、自らスーパーデジタルという言葉を使わないそうです。 最近では「コバゴー」の愛称でファンから親しまれており、ニコニコ動画の麻雀スリアロチャンネルで生放送される番組にも頻繁に出演し、対局番組だけでなく、バラエティ番組にもよく出演しています。 ニコニコ動画の麻雀スリアロチャンネルで放送された番組によると、小林剛プロは麻雀の練習は全くしないそうです。 濃い実戦をたくさんこなしているのが、その強さの秘訣ではないかと、ご本人は語ります。 ブログ・ツイッター 小林剛プロは、ブログ、ツイッターのアカウントを持っていて、自分の出場した対局についての解説や、リーグ戦の状況などをブログやツイッターから知ることができます。 コバゴーファンの方は、麻雀についてや、プライベートについて、本人に話しかけてみてはいかがでしょうか? 2. 麻雀プロとしての実績 「スーパーデジタル」や「麻雀サイボーグ」と呼ばれる、最強の雀士、小林剛プロの麻雀プロとしての実績を紹介します。 獲得タイトル• 第1期、第2期 天鳳名人戦 (2011年、2012年、オンライン麻雀ゲーム「天鳳」でトップ天鳳ユーザーと麻雀プロが参加するリーグ戦)• 第3回野口恭一郎賞 (2003年、面接、学科、実戦を行い、麻雀の実力と知識を元に与えられる賞)• また、天鳳名人戦を二年連続で優勝した実績もあり、オンラインでもリアルでも、小林剛プロのスーパーデジタルぶりを披露しているのです。 スーパーデジタルとは? まず、デジタル論というのは、従来の流れやツキ、その時の状態、といった、従来の麻雀戦略の主流だった考えを「オカルト的」と否定し、局と局との間に関係性はなく、麻雀牌はランダムに卓上で積まれているものなので、流れやツキは読むことができない、といった思想のことをいいます。 局と局の間は関係性があり、時計の秒針が連続して回るアナログ時計と従来の麻雀論を定義し、それに対して連続せずに切り替わっていく考え方を比喩的にデジタル時計に例えたことから、「デジタル」派といった言葉が生まれたと言われています。 その言葉が登場したのは、小林剛プロの記憶では1990年頃に連載された麻雀漫画『勝負師の条件』だったと話しています。 (「近代麻雀2015年7月1日 小林剛プロのコラムより」) 小林剛プロは麻雀を覚えたての頃から、麻雀に非科学的な因果関係を持ち込むことなく、偶然と確率のゲームであるというデジタル的な認識で、麻雀を楽しんでいたそうです。 今から20年前ぐらいの時代は、そういった麻雀論は完全に少数派であり、異端児的雀士だったのです。 小林剛プロ、村上淳プロ、鈴木たろうプロといった方々が、最初にオカルト理論を否定する麻雀プロとして麻雀界に登場しました。 その後、同じようにデジタル的な考えを持つ小倉孝プロが大活躍し、デジタルという言葉が普及し始め、オンライン麻雀で活躍をしていた渋川灘波プロがプロ入りし、デジタル派のフォロワーも数多く登場しました。 小林剛プロは、現在では一般的なアイディアとなった新たな麻雀論である「デジタル」という理論を生み出した存在の一人であるため、「スーパーデジタル」といつしか呼ばれるようになりました。 しかし、小林剛プロは自ら進んで「デジタル」という言葉は使いません。 なぜなら、デジタルという言葉の定義も曖昧なものになってしまったためだそうです。 ですが、あくまでも 「非科学的なオカルトを言わない」という立場は明確にしています。 オカルトバスターズについて かつて、鈴木たろうプロ、村上淳プロ、そして小林剛プロの三人で結成された、アンチオカルトユニット「オカルトバスターズ」という集団がありました。 略して「オカバス」なんていう愛称で呼ばれていました。 「オカルトバスターズ」は今は廃刊になってしまった、「月刊プロ麻雀」の誌上で結成されたユニットで、101競技連盟所属の山内啓介プロによって、三人は選ばれました。 三人の共著『デジタル麻雀の達人』という本で、オカルトバスターズについてこういった説明がされています。 」 今となっては麻雀界を代表するトッププロになった3人ですが、オカルトバスターズが結成されたのは今から数十年前、当時はまだ若手実力派プロ、といった3人でした。 当時は無名に近かった3人ですが、ベテランの先輩プロに意見をぶつけ、「流れ」のような都合の良い言葉で批判されたり、論理的じゃない理由で責められたりで、不快な思いをすることも多かったそうです。 が、誌上でその鬱憤を晴らす場ができ、鈴木たろうプロ曰く、 「麻雀界に蔓延るオカルトを叩きつぶしてやろうと、自分たちの主張を始めた。 」そうです。 そうして、先輩プロたちの流れ論、オカルト理論をこき下ろし、オカルトバスターズは反オカルトを掲げ、麻雀界に新たな風を吹き込んだのです。 小林剛プロはデジタル雀士の代表格として知られていますが、今まで流れやツキといったことが戦術の主流だった麻雀界に、それまでの概念を否定し、局と局との関係性はない、という新たな思想を武器に麻雀界で頭角を表してきました。 現在では、小林剛プロのデジタル的考えは一般的な麻雀論となり、多くのタイトル、輝かしい実績を残してきました。 鈴木たろうプロ、村上淳プロも今では麻雀界を代表するトッププロとなり、オカルトバスターズのデジタル理論は、決して間違いではなかったということが証明されたのです。 関連記事• オカルトバスターズの麻雀本• 『デジタル麻雀の達人』2008年01月30日発売(鈴木たろうプロ、村上淳プロと共著) この本は麻雀の戦略性を解説する本、といういわゆる戦術本というよりも、「麻雀というゲームの性質」を解説し、昔からある流れや運といったオカルト的考えを否定する、といった内容になっています。 桜井章一氏と小林剛プロ まさに奇跡の対談とも呼べる企画が「近代麻雀2015年10月15日号」に掲載されました。 桜井章一(さくらい しょういち)氏は、スーパーデジタルという異名を持つ小林剛プロは、まさに対極な存在の雀士と言えるでしょう。 現代的な麻雀論を持つ小林剛プロに対し、20年間無敗と呼ばれる伝説の裏プロと呼ばれ、流れやツキを読んで麻雀を打つ、従来の麻雀の象徴のような人物なのです。 麻雀に対する考え方も、麻雀界における立ち位置も、全く異なる二人の対談が近代麻雀によって実現したのです。 桜井章一氏は、近代麻雀でコラムを連載しており、その関係で編集部から送られる雑誌についてくるDVDで、小林剛プロの麻雀を見ていて興味は持っていたようです。 それもあって、この対談が成立したようです。 この対談の模様が収録されているDVDも雑誌についていて、桜井章一氏が結成した団体「雀鬼会」の本拠地である雀荘「牌の音」で行われた二人の対談は、独特の雰囲気と緊張感が漂っていて、文字だけではわからない面白さがあります。 桜井章一氏は、流れを重視した打ち方です。 局と局の間には因果関係がはっきりとあり、その流れを読むことができる、前局、前々局の結果を参考に打牌選択をする、といった打ち方です。 流れといった抽象的なものがわかるかどうか、それは他人にはわかりません。 ご本人がそういっているからきっと読めるのです。 二十年間無敗といった伝説があるぐらいの方です。 弱かったらそんな伝説はできるわけがないです。 小林剛プロは、流れについてこの対談の中でこう表現しています。 「麻雀牌はすでに積み込まれているものなので、どんな偶然が起こるかわからない。 なので、今の手牌で最善を選ぶ、前の局に何があったは考えない」 それに対し、桜井章一氏は、小林剛プロの対局を見ていて、こうやったら悪くなるだろうな、と思うと、その通り悪くなっていたと話します。 「麻雀は ツモって切る動作を入れる、そこで動きはある。 動くってことは流れてなきゃ動かない」 といった言葉を使って麻雀と流れの関係を表現しています。 小林剛プロは麻雀における流れ自体を否定することなく、読めるものではないから気にしない、といった立場です。 桜井章一氏は、その普通の人ではわからない流れを知る研究をしてきた人物なのだと思います。 二人の麻雀観は全く異なるもので、噛み合わないですが、お互いの麻雀論を否定することなく、しかし、変に肯定するわけでもなく、お互いの意見をぶつけあう実に有意義な対談でした。 関連記事• 小林剛動画特集 youtubeで見ることができる小林剛プロの動画を紹介します。 ニコニコ動画の麻雀スリアロチャンネルの番組で、過去に生放送された番組の一部がyoutubeで見ることが出来ます。 人気プロである小林剛プロも麻雀スリアロチャンネルの番組によく出演していて、番組を見逃してしまった方や、麻雀スリアロチャンネルの存在を知らなかった方も、youtubeで見ることができます。 The萩原リーグ コーナー動画:小林剛 俳優であり、大の麻雀好きであり、プロにも劣らぬ実力を持つ萩原聖人氏がプロデュースする番組に、小林剛プロが出演。 その時作られた小林剛プロの紹介動画です。 少しだけ情熱大陸風で、カッコイイです。 関連記事• 4.まとめ スーパーデジタル、そして麻雀サイボーグと呼ばれ、卓上では感情を見せないけれど、卓を離れればどこか愛嬌のあるコバゴー。 超実力派雀士でありながら、近年ではニコニコ動画や麻雀メディアの発展もあり、そのキャラクターも含め人気が出てきた麻雀プロです。 反オカルトを掲げ、数々の栄光を手にし、実績と現代の風潮を見れば小林剛プロの麻雀論が、決して間違っていなかったと証明されたと言っても過言ではありません。 四度目の将王獲得や、未だ成し遂げていない「モンド杯」や「麻雀最強戦」といった注目度の高いテレビ対局での優勝といった、更なる活躍を期待しています。

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麻雀%勝つ人と負ける人の比較

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オカルト(occult)とは、流れ・運・ツキなどを重視する考え方で、流れ論を提唱した阿佐田哲也氏に始まると言われる。 麻雀は 4人の運の奪い合いで、流れ・ツキ・勢いなどによって勝敗が左右されるものである。 流れ論は、デジタルとの対比で、オカルトと言われるようになった。 デジタル(digital)とは、統計と数理を重視する考え方である。 「リーチ麻雀論改革派」の天野晴夫氏、山崎一夫氏(銀玉親方)などが提唱し、第11期最強位の長村大プロ(最高位戦)が「デジタルの申し子」と呼ばれたことから注目されるようになった。 デジタル雀士であると認識している人は2割にも満たない。 一般に麻雀プロにはオカルトが多い。 また、ネット麻雀より実戦麻雀を好む人にはオカルトが多いと言える。 年代別に見ると、若い人の方がデジタル指向である傾向が高い。 オカルトを信じる人は多いが、オカルトだけで打っているわけではない。 デジタルを重視しつつも、それで説明できないことをオカルトに頼って論じているような人が多いように感じる。 作家としての著作数も多いし、漫画化・アニメ化もされているし、伝記の類や語録の類もある。 「麻雀はギャンブルである」「勝負師の生き様」という阿佐田哲也氏のオカルト思想が世の中の雀士に多大なる影響を与えたと言えると思う。 博打の勝敗は最後は運が決める。 どんな技術も運の勢いには逆らえない。 (勝負語録より) 一生ツキ続ける男はいない。 一生ツカない男もいない。 誰にだって風の替わり目がある。 そのきっかけを確実にキャッチし、ツキを一杯に使う、それがギャンブラーの腕なんだ。 (ぼうふら漂流記より) 麻雀を点棒のやり取りだとしか思えない人は永遠に弱者である。 麻雀は運のやりとりなのだ。 点棒の流通は誰の目にも見える。 が、運の流通は見えにくい。 だから多くの人が無視する。 デジタルとは、場況を定量的に把握し、それによって明確なる戦略を立て、早く高く和了するための打牌別和了期待点と放銃を回避するための危険度を定量的に把握・比較し、打牌選択・副露判断・立直判断・和了判断など、最適な行動を採ることを言う。 デジタルにおいては、同じ条件下によって行動が異なることはない。 また、「こういう考えもあるね」「こういう判断もあるよ」という定性論ではなく、きっちりと明確に「ここではこうするのが正解である」という解がある。 ただし、この解というものが、数学の解答のように絶対解とはならない。 「53%で三萬切り、32%で七筒切り」「52%で立直、48%でダマ」などというように計算され、当然、最も有利と計算できた方法を採択するのであるが、これが必ずしも結果において成功するとは限らない。 しかし、「53%で三萬切り、32%で七筒切り」の場合に、三萬を切って失敗しても、七筒を切って成功しても、正解は三萬を切ることである、と確信することがデジタルなのである。 麻雀においては、捨て牌選択・立直するかしないか・副露するかしないか・和了するかしないかなどの多くの判断分岐がある。 その理由付けを何に求めるのか、というところが、オカルトとデジタルの大きな違いになる。 勘、経験、運などに理由帰属すること、「自分の経験からこう思う」「今、流れに乗っているから(ついているから)こうした」「ビビビと来た 」「背筋に何かが走った」「神様の声が聞こえた」というようなことを理由にすると、これはオカルトになる。 <オカルト> ・流れに乗る/流れを断つ ・和がりグセをつける ・引きが強い/弱い ・エース牌 ・綾っ牌 ・対子場(縦に伸びる) ・萬子が伸びる このような言葉がオカルト固有の特性である。 デジタルではこのような言葉は発しない。 「和がると次局の配牌・自摸がよくなる」「放銃すると次局の配牌・自摸が悪くなる」とする論調が和がり癖という言葉につながっている。 オカルトとデジタルの差異は、「あなたは超能力を信じますか?」「あなたは霊の存在を信じますか?」の回答で二極に別れる構図と似ていて、何を信じるか何を拠り所にするのか、という信条から発生していると言える。 超能力の存在を信じていない人が信じている人に何を言っても通じない、その逆も同様、なのである。 例えば難しい牌姿において、「三萬を切るべきか、七筒を切るべきか」という場合に、切った理由を問うと、「何となく」「気分で」という曖昧な回答をする人がいる。 これは、デジタル派から見るとオカルト派に見えてしまうのだが、これは、デジタルでもオカルトでもない。 何も考えていないという別の派(・・・と呼ぶべきなのか迷うが)なのである。 オカルトならばオカルトっぽく、「こっちが伸びそうな予感がした」「経験上、こっちだ」「勘が働いた」と答えるものである。 つまり、何も考えていないことと、オカルトは違うのである。 ただし、何も考えていないことを、オカルトっぽく語ることにより、誤魔化している人は意外に多いように感じる。 何も考えていないことは、デジタルには語れない。 「なぜ、のみ手で和がったのか?」と問われて、何と答えるか。 高めで純全帯幺+三色同順+平和(跳満)、安めで平和のみの聴牌において、安めが出て、和了したとする。 この時「なぜ、見逃さずに安めを和がったのか?」と問われて、 何と答えるか。 どのような回答をするかがオカルトかデジタルかの差異になる。 一般的に言えば、好ましい判断とは言えないであろう。 「ここで和がればトップだから」「対面が役満指向だったから」などという理由があれば話は別であるが、「本来ならば和了すべきでない」という思いがありながらも和了してしまった場合には、照れ隠し や、自分の権威を誇示しようとする心理的意図が出る。 それをオカルトに語ることは、極めてよくないことである。 明確なる判断基準がない、また、判断ミスしてしまった理由を、主観的要因、例えば「流れを引き寄せるため」とか「和がり癖をつけるため」などという言葉で誤魔化すのはよくないと思う。 つまり、デジタルから見ると、オカルト用語は、誤魔化しの便法に見えてしまうのである。 結果は運が多く左右するものであるから、途中の判断ミスを隠蔽しやすい。 その判断ミスをオカルト用語は実に失敗者に都合よく(成功者にも都合よく)隠してしまうのである。 マニュアル化が可能であり、再現可能であり、検証可能であるがゆえに、伝承することができる。 また、正確な伝承だけではなく、分析と検証と補正により、進化させることができる。 それに対して、オカルト論の伝承というものは極めて難しい。 「三萬を切るべきか、七筒を切るべきか」において、オカルトは主観的・非論理的・定性的に語るので、そこに何か体系的なものが存在したとしても、それを伝承できないのである。 麻雀を始めたばかりの全くの初心者に、どのように麻雀を教えるのか、でその差異ははっきりする。 勘を磨かないと、経験を積まないと、修羅場をくぐらないと、麻雀は強くなれない、とするのがオカルトである。 経験には多種多様なものがあり、牌効率や危険度で言えば、「痛い目に合わないと(失敗しないと)経験にならない」とする論調が多いように感じるが、デジタル派の見地からすると、正しくパターンを分類してこのようなケースではこうすることが最もよいという定義の積み重ねを学習することが、強くなる最短の道であるとする。 実戦麻雀は、心理戦の意味合いが濃い。 雀士の顔色・声音・指の動きなどから心理的動きを読んで、聴牌や手の大きさを予測する。 対してネット麻雀はそのようなことは一切できない。 純粋に数理的な意味合いでの麻雀の実力が出やすいのである。 実戦麻雀の心理戦という特性が、オカルトに表れる。 雰囲気を察する、気配を感じる、というようなことである。 顔色・声音・指の動きなどや癖を五感で感じ取り、そこから論理的な思考により判断を行うことはデジタルであるが、第六感のような話になると、オカルトになってくる。 麻雀において、確かに経験は重要であり、経験論を振りかざすことは容易であるが、 その経験を第三者に客観的なパターン分類とともに説明することができ、かつ、納得させることができるか、が重要であると思う。 実績がある人の発言を過信することは、他人の経験論を鵜呑みにすることである。 大会でタイトルと取った人、麻雀プロの人、あるネット麻雀で雀力評価基準が優秀である人、の考え方や打ち方を盲信してしまうことは、よくないことであると思う。 そこに、客観的・論理的・定量的な説明があり、それを自分の頭で考えて納得した上で信じるならばよいのであるが、「あの強い人がこう言ったんだから、自分もそうしよう」と考えることは、オカルトである。 例えば「オーラス西家で、トップ差11000点ある3位で、役なし辺張待ちで立直をかけた。 一発で自摸って裏3乗って跳満で逆転した」とする。 これは成功である。 では、次に同じ場況で同じことをして成功するのか? オーラスの子でトップ差11000点あって、のみ手で立直をかけて成功する確率は極めて低いのである。 手作りの過程において高めを目指した役作りをすべきだし、役なしで聴牌してしまっても立直すべきでない。 そのことを、ある直近の経験をもとに考えるのではなく、数理的に統計的に考えることがデジタルである。 雀士の中にはこれをわざとひっくり返して、「麻雀は運3実力7である」と言う人もいるのだが、やはり配牌や自摸によっては負けが続くこともやむを得ないのである。 運の定量化について、考察してみる。 全く麻雀経験がなく、知能・学習能力レベルが同じ(念を入れて年齢・性別・出身地・出身学校が同じ)、というズブの素人4人が、麻雀入門書を読みながら100半荘、麻雀をしたとする。 最初はチョンボを多くするであろうし役満ばかり狙うなどということもあろう。 しかし100半荘やれば突発的な出来事はある程度平準化される筈である。 この時につく差が運であると定義できる。 この差をAとする。 そして、全く麻雀経験がなく、知能・学習能力レベルが同じズブの素人3人と、ベテラン1人が100半荘、麻雀をしたとする。 この時につく差をBとする。 ベテランなのだから運悪く負けることがあっても、トータルでは大差を付けて勝つであろう。 運を表す言葉の中に、ビギナーズラック というものがある。 初心者が勝つことであるが、全くもって印象程度に過ぎないことだと思う。 「初心者なのだから勝てる訳がない」と信じ込むことが、運のバラツキに関する認識を狂わせてるものと思われる。 「辺張を自摸ったから立直」と言うようなことは、この牌勢による。 「自摸りづらい辺張を自摸って聴牌したのだから、牌勢に乗っている。 だから和了することができる」と言う考え方である。 「鳴けば自摸の流れが変わる」と言う人は多い。 鳴いたら物理的には自摸る牌は変わる。 自家が上家からチーしたら、自分が自摸る筈であった牌は下家に流れることになり、次に自分が自摸る牌は、本来上家が自摸る筈であった牌である。 これは全くその通りであるのだが、では、「本来上家が自摸る筈であった牌」と「本来自家が自摸る筈であった牌」はどう違うのであろうか。 積み込みをしてあったというような場合を除けば、本来誰が自摸る筈であった牌も 確率上・統計上は変わらないのである。 結果を見れば、本来無駄自摸することになっていたのが和了牌を引いた、 またはその逆、ということがあるのだが、それはたまたまであり、それを特別なことと捉えることがおかしいと思う。 「鳴いて自摸の流れを変える」「ついている人の牌を鳴いてツキを奪い取る」などと言う人は実に多いが、では鳴けばどの程度自摸がよくなるのか、定量的かつ客観的に説明できる人はいるのであろうか。 このような思いは気休めでしかない。 オカルト用語には 引きと言う言葉もある。 この逆に「引きが弱い」とも言う。 強い、巧い、と言われる人は引きが強いと評価される。 この言い方は、運を想起させるものであり、運がいいから、いい引き(自摸)をする、という捉え方をしている人が多い。 しかし、現実的に、欲しい時に欲しい牌ばかりを引く人などいる筈もなく、どんなに麻雀に強く、巧い人であっても、裏目も引けば振聴にもなるのが普通なのである。 「信念を持って自摸れば、引ける」…本当か? 私は引きが強い、ということをこう解釈する。 それは、他家の牌構成読みと山残読みの巧さである。 つまり、一見、薄いと思われるところを引き入れるのは、運に因るものではなく、論理的な読みによって確信的に持たれた搭子によってなされる技であり、決してオカルトなものではないと。 流れ論 スポーツ、特にプロ野球の結果報道において、「 流れ」という言葉をよく耳にする。 ある選手のヒットやエラーなどによって「ここで流れが変わった」という言い方である。 毎晩のスポーツニュースにおいて多用される表現である。 この表現を聞き慣れていることによって、流れ論が一般的なものであり、麻雀にも同様の意味で使っている人が多いように感じる。 では、監督・選手・プロ野球解説者は、試合が始まる前に、どこで流れが変わるか、予測できるであろうか。 試合が始まる前でなくとも、試合中にある選手のヒットやエラーの発生時点で、「今ここで流れが変わる」と、確信できるのであろうか。 麻雀において、結果を見て、「あの時に流れが変わった」とプロ野球の結果報道のアナウンサーや解説者のように言うのは表現の自由であるが、実際のプレイ中に、その流れ論を生かすことができなければ、流れを語る意味はない。 (1)現在の流れの実態把握 … 現時点でどこにどのような流れがあるのか。 (2)将来の流れの予知 … 今後、どう流れが変わるのか、続くのか。 (3)流れを変える対処行動 … 何をする(しない)ことによって流れを変えるのか、続けるのか。 麻雀において流れ論は、以下の3種類の場面で見かける。 流れはAさんにある。 ・Aさんが和了した。 次局もAさんが和了した。 この時、Aさんはいい流れに乗っている。 ・Bさんが放銃した。 次局もBさんが放銃した。 この時、Bさんは悪い流れにある。 ・二向聴形から嵌張を引き入れ、次の自摸で辺張を引き入れ、聴牌した。 自摸の流れに乗った。 現在の流れの実態把握において、重要なことは、その明確なる認識である。 誰に、どの程度いいまたは悪い流れがあるのか、を認識することである。 この材料として、直近の結果が用いられる。 前々回と前回、結果がよかった、だから今もいい、と流れを読む。 このいいことと悪いことの実態把握は比較的容易である。 他家の1回1回の自摸牌がいいかどうかは把握しきれないが、荘の結果や局の結果における点棒の動き、主観的ではあるが自分の自摸がいいか悪いかという自己判断ということも可能である。 2 将来の流れの予知 一般に流れの連続性という特性により、流れに乗った者、いい流れを掴んだ者が、次もいいと読む。 しかし、流れを変えるような行為が生じた場合に、「ここから、このように流れが変わる」と読む。 例えば、普段滅多に鳴かないBさんが鳴く、という行為は流れを変える行為である。 普段しないことをする、通常ではしないような突発的な行動を採る、ということが流れの変化要因になる。 もっと言えば、例えば地震が起こった、周辺で事件・事故が起こったなどの外的要因によっても、これまでの流れが変化するものだと予知する。 3 流れを変える対処行動 もし自分が流れに乗っているのであれば、その流れを失ってはならない。 消極的な戦法は流れを失する要因になる。 イケイケで攻める。 流れに乗っていれば早く聴牌するので先行立直、よしんば先行されても、愚形でも追っかけ立直。 立直しなくとも危険牌を切り捌く。 流れに乗っていれば放銃しないものである。 または、特に攻め基調になる必要はなく、普段となるべく同じように打つ、その自然体こそが流れを維持するのに必要である、という見解もある。 もし他人が流れに乗っているのであれば、流れを変えて、流れを自分に引き寄せるため、各種の対処行動を採る。 副露をすることを上げるケースが多いが、普段はしないことをする、例えば大明槓をするとか、普段は先切りしないのだけれどもするとか、この牌姿では通常立直しないがしてみる、などの突発的で不自然な行動により、流れを変える。 ・・・と、ここまで一般的な流れ論者の立場に立って、流れ論について述べた。 しかし、本当にそうであろうか? 統計上は人間が普通に思う以上に同じ事象が連続するものである。 「Aさんがよかったら、次Bさん、その次はCさん」というように くるくると変化しないのが 統計学上のランダム性である。 私は、 流れというものは、ランダム性の誤認から生まれているものだと思っている。 一般に、流れ論とは、客観的に捉えられるのかは別にして、ある事象の連続性のことを指す場合が多い。 しかし、流れをある事象の連続性として定義していない場合もある。 例えば、ある局が小場である、ということがその局における流れである、という定義である。 この場合、「この局は小場の流れである」ということが流れの定義であり、「他家に負けないよう安く早く和がる」ことが流れに乗る、流れを掴むことであり、「役を目指して高い手をじっくり作る」ことが流れに逆らうこととなる。 サイコロを2回振ったら、連続して2回1の目が出た。 3回めには何の目が出るか? サイコロは、1の目は大きく深く、6の目は小さく浅く、各面の目が掘られていて掘りの大きさと深さによる面毎の重さのバランスが均一でなければならないが、現実にはそれほど精密には作られていない。 つまり、サイコロには構造上の偏りがあるもので、ある目が出やすかったり出にくかったりするものなのであるが、ここでは理論上、6分の1の確率でそれぞれの目が出るものとする。 連続して2回1の目が出たら、人間は「次は1は出にくい」と考えるものである。 しかし、現代数学の統計学においては、次に1が出る確率は6分の1。 当然他の目もすべて6分の1の確率、なのである。 では、最初に、サイコロを「12回振る」と決めたとする。 すると、12回のうち2回は1の目が出る筈であると予測できる。 そしてサイコロを振ったら、連続して2回1の目が出た。 この時に、3回めに1が出る確率はどうなるのか? 予め「12回振る」と決めていようといまいと、次に1の目が出る確率は常に6分の1なのである。 しかし、これはどうにも納得がいかないという感覚の人が多い。 「12回のうち各目が出る回数は2回に収束する筈」と考えるのである。 最初に2回、1の目が出てしまったら、その後は1の目は出にくくなる筈であろうと考える。 ましてや3回も4回も1の目が出たら、「この次こそは1ではない」と考えてしまうものである。 そう考える方が自然な感じがするし、その方が数学や確率が判っている、と思いがちなものである。 しかし、これは、人間の連続性に対する大きな誤解なのである。 「101001101010110101001100110100…」 「011100101100010011001010111100…」 この例は、私が何となくデタラメに並べたものである。 この0と1の羅列をじっくり見て欲しい。 これで、何となくランダムに0と1が並んでいるように見える。 同じ数字が連続するは不自然だし、あまりに0と1が交互に変わりすぎるのも不自然である、と考える。 しかし実際の乱数とは、以下のようなものである。 乱数表より抜粋した。 「001100110010010101011100000000…」 「111010011011111100010010110010…」 この例と上の例をよくよく見比べると、実際の乱数の方が、遥かに連続性が高いことが読みとれる。 人間は非連続性に対するバランスを働かせてしまうという、乱数の連続性に対する誤認があるために、同じものが続かないことを無意識のうちに期待してしまうのである。 私は、これが流れの実態であろうと思う。 幽霊否定派は、科学的根拠を元に幽霊の存在を否定しようとするのであるが、そもそも幽霊とは現在科学において語れる範囲なのかどうかが疑わしい。 真に幽霊の存在が明らかになった時に、人類は新しい科学の領域を増やすことになるのだとすれば、その新しい科学の領域を誰も知らない現在においては、議論は不毛なものである。 流れというものがあるならばそれを証明せよ、流れがないというならばそれを証明せよ、という議論も幽霊に関する議論とほぼ同じである。 「流れがないことの証明」について書いている人がいる。 とつげき東北さんのの「流れがないことの証明」を参照されたい。 運の中にツキがある。 牌勢はツキの1形態である 」・・・出自不明。 あまりオカルトを体系的に論じている記述が少ない中で、貴重な記述であると思う。 流れ、運、ツキ、勘、経験、度胸などは、デジタルだけでは語れないものだと言われる。 流れを始めとするオカルトを信じることは個人の信仰の自由である。 「流れを信じている=麻雀が弱い」とはならない。 しかし、流れを始めとするオカルト用語を連発する人は、大抵自分の都合のいいように流れの定義を流動させ、言い訳に使ってる場合が多い。 そしてオカルト用語の定義は曖昧で主観的であることから、オカルト雀士同士での用語認識のニュアンスも大きい。 また、デジタル的な定義の正しさを大まかには信じつつも、自分自身が統計計算や数式の解釈ができないために、オカルトに逃げてしまっている人も多いように感じる。 私は以下のように考える。 麻雀がより知的で戦略性の高いゲームとして未来に継承されるためには、つまり、丁半博打と同類のギャンブルとしてのゲームとは一線を画す囲碁や将棋に近いゲームとして世の中に認知されるためには、麻雀がしっかりと研究されて、戦略・戦術・定石などが、数学に基づく論理性や膨大な統計データの分析結果に基づいて構成され、正しい言葉で伝承されなければならないと強く思う。 「麻雀で勝ちたい」「強くなりたい」と主張する人は多いが、では、強くなるため、勝つために、どのような努力をしているのであろうか? ひたすらたくさん打って経験を積めば強くなるなどと言うのはオカルト的妄信である。 自称麻雀研究家の私としては、世の中の多くの雀士に申し上げたい。 オカルト的なことを信じ、オカルト的な言葉を発しているうちは、麻雀に強くなることはできないばかりか、麻雀を「運」に左右されるギャンブルだと世の中に示すことになってしまうのである。 流れや運の説明は、統計学や乱数のランダム性などのデジタル思考で行うことができるので、なるべくそのように信じて、オカルト用語を発しないことが肝要であろうと思う。 ではパーフェクトなデジタル雀士がいるのか? と言うと、これも存在しない。 私は自称、超デジタルではあるが、自分のすべての判断をデジタルに語れるのかと言うと、まだまだ修行と研究が足りず、全く持って不充分なのである。 しかしながら、私は自分が研究した成果によって、確実に自分の雀力が向上したと思っている。 それを示すデータもある。 麻雀に関するサイトが多いのに、麻雀の打ち方やtipsなどをオカルトに因って書いているものが多いこともまた悲しいことである。 現在ではパソコンが普及し、牌譜を簡単に取って集積することができるので、勉強をすれば誰にでも麻雀研究は可能なのである。 世の中の多くの雀士の中から、麻雀を研究しようという人が今後多く現れてくる流れになることを祈って、流れ論のまとめとする。 ロマンとオカルト このような発言をする人がいる。 「麻雀はデジタルだけでは語れないし、それだけでは面白くない。 数学的可能性、確率が低くとも、敵の鼻を明かすような迷彩を河に作って討ち取ったり、一発逆転を狙って役満を目指したりすることに面白さがある」 私は、この発言は、オカルトとロマンの混同であると思う。 ロマンはオカルトか? 「 役満はロマンである」「 迷彩は芸術である」。 麻雀の楽しみは勝つこと以外にもこの2つにある。 和がれない、放銃すると判っていても役満を追求するロマン。 牌効率が悪く自摸確率が悪くなることが判っていながらも出和がりを狙っての迷彩作り。 これらが麻雀の醍醐味であることは、決して否定しない。 デジタル派は、役満を目指す場況でない時に、可能性の低い役満を目指さない。 このことがロマンの欠落に見えることであろう。 この点は否定できない。 ただし、よりデジタル思考でこれらのことを考えると、可能性が低いからと言って定量的な場況認識をせずに高めを狙わないことはトータル順位を下げることになり、戦略上も戦術上も正しいこととは言えない。 デジタルは棒聴とはイコールではないのである。 大きく負けているような場況では、どんなに可能性が低くとも、逆転の機会を窺い、役満を目指すことはデジタルに考えても必要なことである。 また、自摸和の可能性を低めてでも、栄和確率が上がると定量的に判断できれば、迷彩を行うこともまたデジタルな戦略として正しいものとなる。 オンラインゲームにおける乱数 オンライン対戦ゲームはプログラムでできている。 プログラムは人間が開発するものである。 多くのプログラム開発者は、乱数を発生させたい時にその言語のrandomコマンドを使う。 これにより適切に乱数が発生するものと信じている。 しかし、このrandomコマンドは、実際は擬似乱数ジェネレータというプログラムの呼び出しであり、疑似乱数はそれほど変則的なものではない。 変則性というものは、多くの人が思うほど疑問の余地がないわけではない。 完全に決定論的機械であるコンピュータは、特に変則的な動作は苦手である。 唯一の真の乱数(部分的)発生源として、放射性崩壊の時間のような物理現象の測定がある。 これらは、いくつかの数学的方式を使って、純粋なランダム・シーケンスに純化することができる。 乱数を必要とするプログラムは、物理装置にアクセスしないで自分で乱数を生成しなければならない。 しかし、コンピュータが決定論的なものであるため、この生成は、アルゴリズム上非常に困難である。 このため、 同じ配牌・同じ自摸、という現象が発生する。 同じ配牌が発生する確率は、ものすごく低いものである。 数学的には、8千京分の1である。 1日に100回の配牌をしつづけたとしても、2千兆年ごとにしか同じ配牌は発生しない計算になる。 それほどレアである同じ配牌が発生してしまうのは、乱数発生プログラムのソフトウェアロジックの甘さに因るのである。 コンピュータに乱数発生源としての物理装置を接続することによって、この問題は解決するのであるが、装置自体が非常に高価であり、また、ゲーム運営会社や、そこから委託されてソフトウェアを開発する技術者は、このような装置の存在を知らず、また、ソフトウェアのみに因る乱数 の不規則性を過信している。 randomコマンドにはシードという乱数発生の種を与える。 同じ種を与えると、同じ乱数列を得ることができる。 米国のオンラインゲームでは、ポーカーで乱数が使われている。 乱数の発生パターンをハッキングして、ポーカーで勝って金を儲けるハッカーもいるそうである。 連勝と連敗 数学的に、また、統計学上、乱数のランダム性というものは、連続性を保つものである。 これが、連勝や連敗となって表れることとなる。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 連勝 25. よって、負ける確率は75%となる。 N連勝する確率は、25%のN乗で計算できる。 N連敗は、75%のN乗である。 3連敗する確率は、3連勝する確率の27倍も起こりやすい。 10連敗する確率は、10連勝する確率の59000倍も起こりやすい。 2連勝するのと同程度の確率で、9〜10連敗するものである。 3連勝するのと同程度の確率で、14〜15連敗するものである。 4連勝するのと同程度の確率で、19〜20連敗するものである。 人間は、つい、数字の上で誤った解釈をしがちである。 「4連勝した。 自分が4回勝ったから、他の3人が4回ずつ勝って、12連敗までは、つり合う」と考えてしまいそうであるが、これは計算間違いなのである。 4連勝したら、それと同等の確率で、19〜20連敗するのが普通なのである。 「2連勝するのと同程度の確率で、9〜10連敗するものである」・・・・つまり10連敗くらいしたからといってくよくよすべきでない。 5.6%の確率で10連敗するのだから。 2連勝した時にあまり喜びはないが、2連勝の確率は6.25%であり、10連敗の確率 に匹敵するのである。 連敗は、長きトンネルのように精神状態を暗くし、冷静さを失わせるものであるが、全く珍しい事象ではなく、むしろ普通に起こり得ることであるということを肝に銘じて打つとよいと思う。

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オカルトバスターズ(鈴木たろう特別寄稿):麻雀最強戦ブロマガ:麻雀最強戦チャンネル(麻雀最強戦)

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早いリーチはイースーソー 早いリーチは、なぜか『索子の1と4』の 平和系の待ちになることが多いことからこの格言は昔から有名です。 なぜ索子なのか分かりませんが、『早いリーチは端牌絡みが良い』と昔から言われています。 理由は、 端牌が出やすいことからきているようです。 語呂合わせの意味もあるでしょう。 ローキューソー(6、9の索子)では、言いにくい部分もあります。 シャンポン待ちやカンチャン、ペンチャン待ちより平和系の待ちは、上がり牌の数も多く 上がりやすいと言われています。 南槓に上がり目なし 南を槓する、つまり『 南槓』は『 難関』と言い換えることができます。 よって、 上がるのには難関を極めるという言葉があります。 南を槓すれば必ず上げれないわけではなく、語呂的に難関となることから辛いイメージを持ちます。 Sponsored Link よって、よっぽどチャンスでもない限りは南を槓しないほうが良いでしょう。 単騎は西で待て 単騎は『西』(シャー)で待てと言われています。 意外と終盤で忘れがちになるのが『西』です。 基本的に、終盤局面で出ていない字牌を切るのは危険です。 また、字牌は、国士無双や字一色、大四喜などにつながる恐れも十分あります。 役満を振り込めば、目も当てられません。 そこで意外と盲点になりやすいのが西です。 何気ないふりをして、ダマテンで『西』の単騎待ちにすると意外と上がれるかもしれません。 対々(トイトイ)にスジなし 順子であれば、• 1,4,7• 2,5,8• 3,6,9 など、麻雀の数牌にはスジがあります。 例えば、平和のような待ちの場合、 必ず両面待ちになります。 1,4待ち• 2,5待ち• 3,6待ち• 4,7待ち• 5,8待ち• 6,9待ち などです。 このスジを捨て牌から読めば、放銃を防ぐ手段の1つになります。 立直をかけた人が萬子の『4』を場に捨てていれば、『1萬』は待っている牌ではない可能性が高いと言えます。 ところが、シャンポン待ちの トイトイ系の形で待たれると読めません。 理由はスジがないからです。 残り牌が少なく、待ちが悪いのはシャンポン待ちですが、スジがないので読まれにくい特徴があります。 さいごに 麻雀の名言集は、語呂合わせや日常のちょっとした気づきを表現しています。 麻雀あるあるとして、記憶の片隅に置いておけば、自分の和了や相手への放銃を防止できるかもしれません。

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