柿食えば。 柿食えば~俳句(2)秋・冬

柿食えば

柿食えば

日本の秋の原風景 日本人と柿には、古来より深い結びつきがありました。 時代を越えた柿と日本人の関係に思いを馳せながら、 柿を味わってみるのもまた一興です。 柿の原産地は中国や日本など諸説ありますが、日本の気候に合っていたためか、日本で交雑が進み多くの品種が生まれています。 柿と日本人の歴史を調べてみると、古来より柿と日本人には深い関係がありました。 そんなエピソードを集めてみました。 化石や遺跡、最古の書物にも柿の名が! 〜古代から平安時代〜• 岐阜県瑞浪市の第三紀層から柿の化石が見つかる• 縄文時代や弥生時代の遺跡から柿の種が発掘されている• 万葉歌人で有名な柿本人麻呂は、屋敷に柿の木があったので柿本と名乗っていた• 古事記 712年)や日本書紀 720年)に人名や地名で多数記述• 藤原宮(694〜710年)遺跡から、柿の種子が多量に発見される• 平城京(710〜784年)遺跡から柿の値段を書いた木簡が発掘される• 日本最古の薬物辞典である平安時代の「本草和名(900年代初期)」に「加岐」として記述• 平安時代の辞典「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「賀岐」として記述• 平安時代の法典「延喜式(927年)」に祭礼用の菓子として使われ、宮廷でも栽培されていたと記述 なんと化石でも柿が見つかっているのですね。 年代まではわかりませんでしたが、人類が誕生する前から日本には柿があったようです。 縄文時代や弥生時代の遺跡からも柿の種が発見されていたのも驚きました。 人名や地名にも使われ、奈良時代には流通していたようです。 日本史で聞いたことのある書物や人名にも柿が関わっていたのですね。 この時代の柿は渋柿なので、熟柿や干柿として利用されていました。 をご覧ください。 当時は主に祭祀用に使われていたようですが、それ以外にも重要な役割がありました。 それは冬場の糖分補給源という役割です。 当時は今と違い、甘いものがほとんどない時代です。 また、柿は多くのビタミンやミネラルを含む、栄養価の高い果物です。 「柿が赤くなると医者が青くなる」という諺がありますが、昔の人にとって柿は貴重な食べ物であったようです。 甘柿の誕生と、世界のKAKIへ 〜鎌倉時代から江戸時代、明治時代〜• 鎌倉時代の1214年、神奈川県川崎市で突然変異による甘柿が発見される。 現在の禅師丸で世界最古の甘柿• 室町時代の柿の産地に美濃・近江・大和が記されている• 南北朝から室町時代の「庭訓往来」に、柿がすでに栽培されていたという記述• 16世紀にポルトガル人によりヨーロッパに渡り、その後アメリカ大陸にも広まる• ここからカキが世界共通の生物分類に使われる「学名」に使われることになった。 学名は「Diospyros kaki(ディオスピロス・カキ)」、意味は「神様の食べ物」。 日本語がそのまま学名になるのは珍しい。 また、海外では高級菓子として知られている• 干柿が千利休の茶菓子に用いられていた• 関ヶ原の合戦の際、徳川家康に美濃の住職が干柿を献上した。 大垣城攻略中だった家康は「大柿(大垣)が手に入り吉祥」と喜んだ• 江戸時代には品種も増え、御所、蜂谷、西條、祇園坊といった今日も栽培されている品種が多数の文献に記載されている。 江戸時代末には200品種ほどが栽培されていた。 明治末から昭和初期、農商務省により全国各地の柿が1000種ほどに分類・整理された ということで、鎌倉時代に甘柿が生まれました。 これは日本固有の柿であり、世界最古の完全甘柿と言われています。 また、この時代の遺跡からは柿の並木が見つかっており、すでに栽培が行われていたようです。 その後、江戸時代に入ると次々に品種が改良され、盛んになります。 この時代に柿は世界へ羽ばたいていき、海外では高級なフルーツとして知られています。 ちなみに、柿は英語で「パーシモン」ですが、パーシモンはアメリカ現生の小さな柿のことです。 我々がイメージする日本の秋の原風景ですね。 そして、柿は俳句の季語です。 俳句といえば、思い出すのが正岡子規の句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」です。 昔はこの句の意味が分かりませんでしたが、柿は正岡子規の大好物だったそうです。 正岡子規は法隆寺で柿を食べていたときに鐘の音を聞き、しみじみと秋だなぁと思ったのですね。 目を閉じて想像するだけで、秋色に染まった法隆寺の景色が見えてきそうです。 柿の王様、富有柿の誕生!! 〜近代から現代〜 皆さん、国の果物(国果といいます)ってご存知ですか? 国旗は日の丸、国花は桜ですね。 そして国果は…、なんと柿なのです! ただ、国旗、国歌以外は法律で決まったわけではなく、国果は昭和時代の日本料理人、辻嘉一さんの発言から広まったらしいですが、私も調べてびっくりしました。 日本には約1000種類の柿があるそうです。 有名なのが富有、次郎ですね。 他にも平核無、刀根、西村、松本、甲州百目、新しい品種では大秋、早秋などがあります。 そんな中、富有柿は圧倒的な知名度と抜群の美味しさから 「柿の王様」と言われています。 その富有柿は岐阜県瑞穂市(旧本巣郡巣南町)が発祥の地です。 1857年に栽培された木が起源で1898年に命名され今日に至ります。 現在も原木が残されており(一度倒れて枯れたが、そこから再び芽吹いたもの)、記念碑が建っています。 この写真はH25年10月に撮影したのもです。 当農園のある本巣市は瑞穂市の隣町ですが、記念碑は市の境目にあります。 当農園から記念碑まではわずか5キロ、車で10分ほどです。 岐阜県は柿栽培の盛んな地域ですが、特に本巣市の旧糸貫町(当農園のある地域)は盛んで、糸貫ブランドの柿は首都圏の大手デパートなどでも売られていました。 秋になると柿を運ぶ軽トラが至る所で見られます。 また、農協などの直売所や富有柿の里センター、柿畑での直売など、各所で柿が売られています。 この時期は県内外からのお買い物客でたいへんな賑わいとなります(近い地域にお住まいの方は、ぜひお越しください)。 このように、柿は日本の歴史や伝統文化と共に、日本人に愛されてきました。 私たちもその一翼を担うものとして、しっかりとした柿を生産し、柿がこれからも愛され続けるように精進していく所存です。 また、料理や使用方法などを通して、柿を利用した新しい文化創造にも貢献したいと思っています。

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平宗 法隆寺店|グルメ|うましうるわし奈良|JR東海

柿食えば

成立 [ ] 5月、子規は連隊付き記者としてに従軍中に喀血、神戸に入院したのち故郷に戻り、松山中学の教員として赴任していたの下宿(愚陀仏庵)に50日ほど仮寓した。 漱石は2階、子規は1階に棲み、子規はら松風会のメンバーに漱石を加えて句会三昧の日々を過ごしていた。 その後病状がよくなったため10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在している。 子規の随筆「くだもの」(『ホトトギス』1901年4月号掲載)によれば、このとき子規は漢詩にも和歌にも奈良と柿とを配合した作品がないということに気付き、新しい配合を見つけたと喜んだという。 そして「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」「渋柿やあら壁つゞく奈良の町」「渋柿や古寺多き奈良の町」などの句を続けて作った。 もともと子規は大の柿好きで、学生時代には樽柿(酒樽に詰めて渋抜きした柿)を一度に7、8個食べるのが常であった。 1897年には「我死にし後は」という前書きのある「柿喰ヒの俳句好みしと伝ふべし」という句を作っている。 さらに「くだもの」では、奈良の宿先で下女の持ってきたを食べているとき、折から初夜を告げるの釣鐘の音が響いたことを記している。 しかしこのときは「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」として柿の句にはせず、翌日訪ねた法隆寺に柿を配した。 ただし子規が法隆寺を参詣した当日は雨天であったため、この句は実際の出来事を詠んだものではなく、法隆寺に関するいわばフィクションの句であると考えられる。 なお当時の子規の病状などから考えて、実際に法隆寺を参詣したこと自体を疑問視する意見もある。 また『海南新聞』の同年9月6日号には、漱石による「鐘つけば銀杏散るなり」という、形のよく似た句が掲載されていた。 は、子規が「柿くへば」の句を作った際、漱石のこの句が頭のどこかにあったのではないかと推測している。 受容 [ ] 現在では非常に著名な句であるが、『海南新聞』に掲載した際にはとりたてて反響があったわけではなかった。 、によって編まれた俳句選集『春夏秋冬』(1902年)や『子規句集講義』(1916年)、虚子の『子規句解』(1946年)などにもこの句は入れられておらず、子規の俳句仲間の中で評価されていた形跡はない。 子規の自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻』に収録された後、碧梧桐は『ホトトギス』誌上の書評において、この句はいつもの子規調であれば「柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺」としたはずではないかと述べた。 これに対して子規は「病牀六尺」で、「これは尤(もっとも)の説である。 併(しか)しかうなると稍々(やや)句風が弱くなるかと思ふ」 と答えている。 9月、法隆寺境内に子規の筆跡によるこの句の句碑がらによって立てられた。 この場所は句の前書きにある茶店のあった跡地である。 前述の坪内は、このころから法隆寺の一種のとしてこの句が広まっていったのではないかとしている。 、全国果樹研究連合会はを子規がこの句を詠んだ日として「柿の日」と制定した。 この句のパロディがいろいろあるが、オマージュとして「柿食えば遥(はる)か遠くの子規思う」は小林凜(りん)の句で出版され、ベストセラーになった『ランドセル俳人の五・七・五 いじめられ行きたし行けぬ春の雨--11歳、不登校の少年。 生きる希望は俳句を詠むこと。 』()に載っている。 脚注 [ ]• 夏井いつき選 「子規二十四句」『正岡子規』 河出書房新社<KAWADE道の手帖>、2010年、21頁• ただし初出の『海南新聞』1895年11月8日号では前書きは「茶店に憩ひて」となっている。 「病余漫吟」では「法隆寺茶店にて」。 「病床六尺」では上五が「柿食へば」。 『寒山落木』『獺祭書屋俳句帖抄上巻』では前書き・表記とも掲出したものに同じ。 (宮坂、129頁)• 坪内、121-122頁• 正岡 1985 、167頁• 坪内、122-123頁• 宮坂、130頁• 和田悟朗 「子規と法隆寺」「岳」1987年7月号(宮坂、131頁より)• 坪内、122頁• 正岡 1958 、176頁 参考文献 [ ]• 正岡子規 『病牀六尺』 岩波文庫、1958年• 正岡子規 『飯待つ間』 岩波文庫、1985年• 坪内稔典 『正岡子規 言葉と生きる』 、2010年.

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【三千の俳句を閲し柿二つ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

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日本の秋の原風景 日本人と柿には、古来より深い結びつきがありました。 時代を越えた柿と日本人の関係に思いを馳せながら、 柿を味わってみるのもまた一興です。 柿の原産地は中国や日本など諸説ありますが、日本の気候に合っていたためか、日本で交雑が進み多くの品種が生まれています。 柿と日本人の歴史を調べてみると、古来より柿と日本人には深い関係がありました。 そんなエピソードを集めてみました。 化石や遺跡、最古の書物にも柿の名が! 〜古代から平安時代〜• 岐阜県瑞浪市の第三紀層から柿の化石が見つかる• 縄文時代や弥生時代の遺跡から柿の種が発掘されている• 万葉歌人で有名な柿本人麻呂は、屋敷に柿の木があったので柿本と名乗っていた• 古事記 712年)や日本書紀 720年)に人名や地名で多数記述• 藤原宮(694〜710年)遺跡から、柿の種子が多量に発見される• 平城京(710〜784年)遺跡から柿の値段を書いた木簡が発掘される• 日本最古の薬物辞典である平安時代の「本草和名(900年代初期)」に「加岐」として記述• 平安時代の辞典「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「賀岐」として記述• 平安時代の法典「延喜式(927年)」に祭礼用の菓子として使われ、宮廷でも栽培されていたと記述 なんと化石でも柿が見つかっているのですね。 年代まではわかりませんでしたが、人類が誕生する前から日本には柿があったようです。 縄文時代や弥生時代の遺跡からも柿の種が発見されていたのも驚きました。 人名や地名にも使われ、奈良時代には流通していたようです。 日本史で聞いたことのある書物や人名にも柿が関わっていたのですね。 この時代の柿は渋柿なので、熟柿や干柿として利用されていました。 をご覧ください。 当時は主に祭祀用に使われていたようですが、それ以外にも重要な役割がありました。 それは冬場の糖分補給源という役割です。 当時は今と違い、甘いものがほとんどない時代です。 また、柿は多くのビタミンやミネラルを含む、栄養価の高い果物です。 「柿が赤くなると医者が青くなる」という諺がありますが、昔の人にとって柿は貴重な食べ物であったようです。 甘柿の誕生と、世界のKAKIへ 〜鎌倉時代から江戸時代、明治時代〜• 鎌倉時代の1214年、神奈川県川崎市で突然変異による甘柿が発見される。 現在の禅師丸で世界最古の甘柿• 室町時代の柿の産地に美濃・近江・大和が記されている• 南北朝から室町時代の「庭訓往来」に、柿がすでに栽培されていたという記述• 16世紀にポルトガル人によりヨーロッパに渡り、その後アメリカ大陸にも広まる• ここからカキが世界共通の生物分類に使われる「学名」に使われることになった。 学名は「Diospyros kaki(ディオスピロス・カキ)」、意味は「神様の食べ物」。 日本語がそのまま学名になるのは珍しい。 また、海外では高級菓子として知られている• 干柿が千利休の茶菓子に用いられていた• 関ヶ原の合戦の際、徳川家康に美濃の住職が干柿を献上した。 大垣城攻略中だった家康は「大柿(大垣)が手に入り吉祥」と喜んだ• 江戸時代には品種も増え、御所、蜂谷、西條、祇園坊といった今日も栽培されている品種が多数の文献に記載されている。 江戸時代末には200品種ほどが栽培されていた。 明治末から昭和初期、農商務省により全国各地の柿が1000種ほどに分類・整理された ということで、鎌倉時代に甘柿が生まれました。 これは日本固有の柿であり、世界最古の完全甘柿と言われています。 また、この時代の遺跡からは柿の並木が見つかっており、すでに栽培が行われていたようです。 その後、江戸時代に入ると次々に品種が改良され、盛んになります。 この時代に柿は世界へ羽ばたいていき、海外では高級なフルーツとして知られています。 ちなみに、柿は英語で「パーシモン」ですが、パーシモンはアメリカ現生の小さな柿のことです。 我々がイメージする日本の秋の原風景ですね。 そして、柿は俳句の季語です。 俳句といえば、思い出すのが正岡子規の句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」です。 昔はこの句の意味が分かりませんでしたが、柿は正岡子規の大好物だったそうです。 正岡子規は法隆寺で柿を食べていたときに鐘の音を聞き、しみじみと秋だなぁと思ったのですね。 目を閉じて想像するだけで、秋色に染まった法隆寺の景色が見えてきそうです。 柿の王様、富有柿の誕生!! 〜近代から現代〜 皆さん、国の果物(国果といいます)ってご存知ですか? 国旗は日の丸、国花は桜ですね。 そして国果は…、なんと柿なのです! ただ、国旗、国歌以外は法律で決まったわけではなく、国果は昭和時代の日本料理人、辻嘉一さんの発言から広まったらしいですが、私も調べてびっくりしました。 日本には約1000種類の柿があるそうです。 有名なのが富有、次郎ですね。 他にも平核無、刀根、西村、松本、甲州百目、新しい品種では大秋、早秋などがあります。 そんな中、富有柿は圧倒的な知名度と抜群の美味しさから 「柿の王様」と言われています。 その富有柿は岐阜県瑞穂市(旧本巣郡巣南町)が発祥の地です。 1857年に栽培された木が起源で1898年に命名され今日に至ります。 現在も原木が残されており(一度倒れて枯れたが、そこから再び芽吹いたもの)、記念碑が建っています。 この写真はH25年10月に撮影したのもです。 当農園のある本巣市は瑞穂市の隣町ですが、記念碑は市の境目にあります。 当農園から記念碑まではわずか5キロ、車で10分ほどです。 岐阜県は柿栽培の盛んな地域ですが、特に本巣市の旧糸貫町(当農園のある地域)は盛んで、糸貫ブランドの柿は首都圏の大手デパートなどでも売られていました。 秋になると柿を運ぶ軽トラが至る所で見られます。 また、農協などの直売所や富有柿の里センター、柿畑での直売など、各所で柿が売られています。 この時期は県内外からのお買い物客でたいへんな賑わいとなります(近い地域にお住まいの方は、ぜひお越しください)。 このように、柿は日本の歴史や伝統文化と共に、日本人に愛されてきました。 私たちもその一翼を担うものとして、しっかりとした柿を生産し、柿がこれからも愛され続けるように精進していく所存です。 また、料理や使用方法などを通して、柿を利用した新しい文化創造にも貢献したいと思っています。

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