長良川 の 戦い。 長良川の戦い 長良川合戦を2分で分かりやすく解説

斎藤道三・義龍親子の長良川の戦い

長良川 の 戦い

スポンサーリンク 1556年4月18日、斎藤道三は、稲葉山城から北にある「鶴山」へ陣を進めました。 鶴山に集まった国衆は、斎藤利堯、 明智光安、明智光久ら約2700とされています。 また、この動きに対して、斎藤道三の娘・帰蝶の嫁ぎ先である も、木曽川・飛騨川を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)の戸島・東蔵坊まで、軍を進めて、約10km先の斎藤道三に加勢しようとしました。 一方、稲葉山城の斎藤義龍には、 、 、 、 、 などが味方し、約1万7000もの軍勢を誇りました。 この2人の争いに対して、美濃の武将らの多くは、斎藤高政 斎藤義龍 に味方したと言う事ですので、斎藤道三の求心力が低下していたことが伺えます。 織田信長の援軍が少ないとは言え、挟み撃ちにあってはやっかいですので、先に動いたのは斎藤義龍で、4月20日に長良川の南に進出しました。 この動きを受けて、斎藤道三は鶴山を降りて、長良川の北に布陣し「長良川の戦い」になった訳です。 戦闘は、義龍勢の先陣・ が突撃したことで始まりました。 長良川の川の中、川岸などで戦いが繰り広げられたそうです。 竹腰道鎮は、円陣を組んで前進したとされ、道三の本陣を目指したと言います。 しかし、戦上手である斎藤道三は、竹腰勢を敗走させ、竹腰道鎮を討ち取りました。 そのため、斎藤義龍は、自ら旗本 精鋭部隊 を率いて、長良川を越えました。 このとき、義龍勢の中にいた長屋甚右衛門が、一騎討ちを希と、道三税の柴田角内が応じたと言われています。 この時も、道三勢の柴田角内が、長屋甚右衛門を討ち取ったため、もう負けは許されない斎藤義龍は全軍を突撃させたと言う事になるでしょう。 スポンサーリンク そのため、兵力で劣る道三勢はやがて崩れ、長井道勝 長井忠左衛門道勝 が、斎藤道三を生け捕りにしようと、揉みあいになりました。 ここに、義龍勢の小牧源太が、道三の脛 すね を斬って、更に首をとったとされています。 織田信長の援軍は、この長良川合戦に間に合わず、首実検を終えた斎藤義龍は、ただちに軍勢を織田勢に向けました。 織田勢としては、山口取手介と土方彦三郎らが討死に、重臣の も、千石又一によって膝を斬られて退いています。 なお、この合戦中に、斎藤道三の死が織田信長に伝わったとされ、自ら殿(しんがり)を務めると鉄砲を駆使して、織田勢を引き上げさせたと言います。 なお、長良川で対陣しているときに、斎藤道三は、織田信長に「美濃国譲り状」を送ったともされています。 スポンサーリンク 実際に長良川で戦った場所は、その後、長良川の洪水などで、川の流れや地形が変わったようで、伝承地が残されていない状態です。 の明智一族は、長良川の戦いにて、斎藤道三に味方したとされます。 実際にはよくわかっていません 明智家からは、 など、明智の娘が、斎藤道三の側室になっていたなど、密接なかかわりもありました。 諸説ありますが、この長良川の戦いのあと、明智家の城 など は斎藤義龍が送った軍勢によって落城し、明智光秀は越前に逃れることになったと推定されています。 なお、名実ともに美濃守護代となった斎藤義龍も、この約5年後に、突然亡くなっていますが、斎藤義龍の死因はよくわかっていません。 長良川の戦いから11年後、織田信長は稲葉山城を攻略し「 」とするのでした。

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長良川の戦い

長良川 の 戦い

長良川の戦いの場所について。 閲覧ありがとうございます。 現在、部活で岐阜の地域に関する紹介のホームページを作っており、 私は戦国時代について取り上げたのですが、 長良川で行われた、斎藤道三と道三の息子・義龍の間で起きた、長良川の戦い の場所が知りたいです。 写真を撮りに行こうにも、長良川どのあたりで行われたかが分からず困っている状態です。 ネットで調べたのですが、出てこなかったので詳しい場所が分かってないのかもしれませんが・・・ やはり岐阜城の近くなのでしょうか? もし分かる方がいらしたら、ぜひ教えてください。 また長良川の戦いに関する場所が他にもありましたら、教えていただけるとありがたいです。 補足書き忘れましたが、私は岐阜県民です。 講談社の「週刊ビジュアル日本の合戦・斎藤道三・義龍と長良川の戦い」の合戦俯瞰図解説を見ると、斎藤道三が戦死したとされる場所は、井口城下の長良川対岸付近になっています。 ここに 長良川河畔)江戸時代の初めまで「道三塚」がありました。 ただ長良川の洪水のたびに流され、1837年に現在地(崇福寺の西約500m、長良福光)に移されました。 1556年4月18日、道三は鶴山(眉山の南、百々ケ峰の西側付近)に陣を構え、20日に義龍が長良川南岸に軍を移動したのに応じて、道三は陣を北岸に移動しました。 道三は長良川河畔で義龍軍と交戦、守勢にまわった道三は城田寺城(岐阜市城田寺606)に逃れる途中、崇福寺(岐阜市長良福光2403-1)門前で討死した説もあります。 これらのことから推測になりますが、長良川の戦いが繰り広げられた場所は、岐阜市の長良橋通 国道256線)を北上し、長良川に架かっている長良橋を渡った周辺の長良川河畔(鵜飼広場、岐阜メモリアルセンター周辺)あたりだろうと思います(崇福寺にも近い)。 なお道三救援のため出陣した信長が布陣した大良の地は、現在の岐阜県羽島市正木町大浦です(信長はここで道三の死を知り退却する)。 古戦場は、日本人は、掃除や整頓のクセなのか 合戦後、きれいに後片付け やったので、 古戦場の痕跡というのは現代は、わからなくなっている 場合が大半です、日本のような傾向が少ないのか、 海外では、戦場のあとは、ホッタラカシにすることが 少なくなく、第二次大戦の激戦の場は、今も 戦車や飛行機などの残骸が遺跡となって今も残って いることもあります。 ご質問の長良川の戦い も当時の日本人の性格から 考えて痕跡は跡形も無く整理して掃除して何も残っては今は 無いと考えてよかろーと思います。 しかし、斉藤道三と斉藤義龍が美濃の統一領主を巡って 合戦になったことについては、詳細に記録が残っていて、 その経緯は、われわれ後世の人間は知ることが可能です。 聴いた話に、よれば、 斉藤道三は、美濃の守護を する武家・土岐氏の家臣で、 土岐の当主の殿様に、美人がいるので、献上しますと いって、道三が送った美人で殿様はフヌケになった。 道三は殿様の愛人を送ったこと殿様の覚え目出度く 急速に出世して殿様がフヌケになったのを捕えて 道三は土岐氏を追放、こうして斉藤道三は、 強引に、美濃の統一領主となった。 だが、土岐の殿様をフヌケにするのに使った美人とは、 実は道三の妻で、そんな策略に使った妻を しかし道三は領主になったあと、かわらず妻として、 おいておき、妻は妊娠、出産し、うまれた男の子は、 斉藤義龍だった。 義龍のあとにも女子が1人、2人男子を道三と その妻は授かった、道三は最初の息子を 後継者に指名したが、だんだん、疑心暗鬼になった。 長男は、タイミングから考えて自分(道三)が父じゃなく 追い出した土岐の殿様の種の子ではないかと 疑いだして道三と義龍は仲が悪くなり、 道三は他の兄弟のほうで後継者を決めようと変心。 道三に出生を疑われた斉藤義龍は、先制攻撃として 他の男の兄弟2人を殺し、稲葉山城を斉藤義龍の 率いる軍勢は占領。 斉藤道三は、先手を取られたので、稲葉山城の 付近の長良川の河原で陣地を はった。 斉藤義龍の率いる軍勢が長良川の河原の 敵陣地に急襲を かけたことから 長良川の戦い は勃発したと考えられる。 斉藤道三は、この戦いで敗北して戦死した。

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長良川の戦いとは?斎藤道三・義龍親子最大の戦い明智光秀はどちらについた?

長良川 の 戦い

長良川の戦いの場所について。 閲覧ありがとうございます。 現在、部活で岐阜の地域に関する紹介のホームページを作っており、 私は戦国時代について取り上げたのですが、 長良川で行われた、斎藤道三と道三の息子・義龍の間で起きた、長良川の戦い の場所が知りたいです。 写真を撮りに行こうにも、長良川どのあたりで行われたかが分からず困っている状態です。 ネットで調べたのですが、出てこなかったので詳しい場所が分かってないのかもしれませんが・・・ やはり岐阜城の近くなのでしょうか? もし分かる方がいらしたら、ぜひ教えてください。 また長良川の戦いに関する場所が他にもありましたら、教えていただけるとありがたいです。 補足書き忘れましたが、私は岐阜県民です。 講談社の「週刊ビジュアル日本の合戦・斎藤道三・義龍と長良川の戦い」の合戦俯瞰図解説を見ると、斎藤道三が戦死したとされる場所は、井口城下の長良川対岸付近になっています。 ここに 長良川河畔)江戸時代の初めまで「道三塚」がありました。 ただ長良川の洪水のたびに流され、1837年に現在地(崇福寺の西約500m、長良福光)に移されました。 1556年4月18日、道三は鶴山(眉山の南、百々ケ峰の西側付近)に陣を構え、20日に義龍が長良川南岸に軍を移動したのに応じて、道三は陣を北岸に移動しました。 道三は長良川河畔で義龍軍と交戦、守勢にまわった道三は城田寺城(岐阜市城田寺606)に逃れる途中、崇福寺(岐阜市長良福光2403-1)門前で討死した説もあります。 これらのことから推測になりますが、長良川の戦いが繰り広げられた場所は、岐阜市の長良橋通 国道256線)を北上し、長良川に架かっている長良橋を渡った周辺の長良川河畔(鵜飼広場、岐阜メモリアルセンター周辺)あたりだろうと思います(崇福寺にも近い)。 なお道三救援のため出陣した信長が布陣した大良の地は、現在の岐阜県羽島市正木町大浦です(信長はここで道三の死を知り退却する)。 古戦場は、日本人は、掃除や整頓のクセなのか 合戦後、きれいに後片付け やったので、 古戦場の痕跡というのは現代は、わからなくなっている 場合が大半です、日本のような傾向が少ないのか、 海外では、戦場のあとは、ホッタラカシにすることが 少なくなく、第二次大戦の激戦の場は、今も 戦車や飛行機などの残骸が遺跡となって今も残って いることもあります。 ご質問の長良川の戦い も当時の日本人の性格から 考えて痕跡は跡形も無く整理して掃除して何も残っては今は 無いと考えてよかろーと思います。 しかし、斉藤道三と斉藤義龍が美濃の統一領主を巡って 合戦になったことについては、詳細に記録が残っていて、 その経緯は、われわれ後世の人間は知ることが可能です。 聴いた話に、よれば、 斉藤道三は、美濃の守護を する武家・土岐氏の家臣で、 土岐の当主の殿様に、美人がいるので、献上しますと いって、道三が送った美人で殿様はフヌケになった。 道三は殿様の愛人を送ったこと殿様の覚え目出度く 急速に出世して殿様がフヌケになったのを捕えて 道三は土岐氏を追放、こうして斉藤道三は、 強引に、美濃の統一領主となった。 だが、土岐の殿様をフヌケにするのに使った美人とは、 実は道三の妻で、そんな策略に使った妻を しかし道三は領主になったあと、かわらず妻として、 おいておき、妻は妊娠、出産し、うまれた男の子は、 斉藤義龍だった。 義龍のあとにも女子が1人、2人男子を道三と その妻は授かった、道三は最初の息子を 後継者に指名したが、だんだん、疑心暗鬼になった。 長男は、タイミングから考えて自分(道三)が父じゃなく 追い出した土岐の殿様の種の子ではないかと 疑いだして道三と義龍は仲が悪くなり、 道三は他の兄弟のほうで後継者を決めようと変心。 道三に出生を疑われた斉藤義龍は、先制攻撃として 他の男の兄弟2人を殺し、稲葉山城を斉藤義龍の 率いる軍勢は占領。 斉藤道三は、先手を取られたので、稲葉山城の 付近の長良川の河原で陣地を はった。 斉藤義龍の率いる軍勢が長良川の河原の 敵陣地に急襲を かけたことから 長良川の戦い は勃発したと考えられる。 斉藤道三は、この戦いで敗北して戦死した。

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