イザナギ ノミコト。 「多賀大社」

伊勢志摩サミットで安部総理は神話の「天の岩戸」を開けられるか?

イザナギ ノミコト

縁結びの女神さま菊理媛 (画像元 ) 天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天ヶ原(たかまがはら)に次々と神が出現し、最後に現れたのがノミコトとノミコトでした。 この男女の神には国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。 が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだは死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。 ところが、醜く変わった妻の姿をみては逃げ出してしまい、怒ったは夫のあとを追います。 黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、との仲裁をします。 菊理媛のくくりは、括るにもつながり、現在「縁結びの神」として崇敬をうけているのです。 とも縁の深い菊理媛 菊理媛はと相性がいいといわれています。 の背中に乗って菊理媛がやってくるという伝説や、菊理媛自身が白龍の化身であるとの説があるのです。 また、菊理媛を祀る白山は大きな龍脈が通った霊山であり、富士山や箱根方面と繋がっていることと関係があるともいわれてます。 その他、の(のりと)に登場する(せおりつひめ)はだとする伝説がありますが、そのと菊理媛が同一神だという説もあるのです。 富士町の高にある *川上峡・鯉の吹き流し 川上峡・鯉の吹き流し 私チャーリーは、のを降りると、川上峡を通るルートでへ向かいました。 川上峡は別名、九州の嵐山といわれる風光明媚な。 例年4月1日~5月10日の期間には、約300匹にものぼる「鯉の吹き流し」が川面を彩ります。 ちょうど,、この日は5月5日子どもの日。 黒・赤・青の鯉のぼりたちが、春の風に吹かれて勇壮に泳ぐ姿を近くで眺め感慨にふけりました。 *鳥居 そして県道39号線を通り途中から側道へ入って神社へ近づいていくと、道路脇に鳥居が見えてきます。 よく見ると鳥居の様式です。 鳥居とは、を中心とした特徴的な鳥居の一群。 鳥居の構成要素が三段継ぎで、島木と笠木が一体化した上で先端が丸みを帯びており、柱が下へいくほど太くなるなどの特徴を備えています。 鳥居の扁額 そして、その鳥居の扁額には「白山彦山大権現」と 彫られていました。 *高良源寺 鳥居を過ぎると、その先にはをご本尊とする高良源寺が見えてきます。 こちら良源寺は、昭和38年6月30日集中豪雨により本堂、庫裡、諸石仏等一切が流失しましたが、昭和40年に再建されております。 本堂から少し登ったところにある円形の広場には、100体を越えるであろう石仏がところ狭しと祀られてあり、圧巻の眺め。 * 石仏群からまた少し行ったところがの入り口です。 ちょっと開けた空き地のようなスペースがありましたので、そちらに車を停めました。 さあ、それでは神社へ入っていくとしましょう。 鬱蒼とした樹々に囲まれた道は、否が応でも期待が膨らみます。 程なく行くと緑一色のなかに真紅の鳥居が目に飛び込んできます。 こちらは、どうやらお稲荷さまのようですね。 お稲荷さまの前には、シダの葉の間から少し育ったタケノコが、にょきりと飛び出しています。 この辺りは苔の成育に適した環境なのか、色鮮やかで生き生きとした苔が至る所にむしておりました。 そして、苔むした石段を上がっていくと…… 新緑の緑に囲まれた中に、スポットライト浴びたかの如く光り輝く拝殿が出現! なんと神々しいのでしょうか、思わず「おおっ」と声が出ました。 まずは、御祭神の菊理媛さまにご挨拶。 静かな境内に柏手の音がよく響きます。 拝殿の前には巨木とさま。 穏やかで光に満ちた境内はとても静かで、ここだけゆっくりとした時間が流れてるような不思議な感覚。 *高 そして境内の左隅にある石段をあがっていきますと…… 高 その先には尊像を祀る「高」が鎮座してます。 さっそく中に入りさまにご挨拶します。 奥には楕円形の大きな岩があり、その前に小さなさまがいらっしゃったので、こちらが尊像かと思いきや、岩の上を見ますと…… 岩の上に、穏やかな表情をたたえたさまが座って、こちらを見下ろしておられました。 こちらが正式な尊像でしょうね(笑) 菊理媛さま、さま、穏やかな時間を有難うございました。 まとめ こちら高にあるは、現在もの名残をとどめています。 白山の名は、加賀のと関係があると考えられます。 事実鳥居の扁額には「白山彦山大権現」と書かれてましたね。 そして、には近年まで山伏の参篭がある場であったとされてます。 ここは、白山やのと同系統の系道場でしたが伝説により、この地が「に似たり」という理由から高と名付けられ、の良源寺が同居するようになったそうです。 また、神社の社は988年に地頭領関屋源八郎義家によって加賀のより勧請したと伝えられてます。

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愛と感謝の実

イザナギ ノミコト

伊邪那岐命(ノ)は言いました。 「それでは、私とあなたでこの()を互いに反対に回って会って、まぐわいましょう」 そう約束して 「あなたは右回りに、私は左回りに行きましょう」 と回ったら、伊邪那美命(ノ)が先に 「あぁ、なんてイイ男なんだろう!」 と言い、その後に伊邪那岐命(ノ)が 「あぁ、なんてイイ女なんだろう!」 と言いいました。 伊邪那岐命(ノミコト)は言い終えた後で 「女が先に話しかけるなんて不吉だ」 と言いました。 それで二柱が床で交わって作った子は水蛭子()でした。 この子は葦で作った船に乗せて流して捨ててしまいました。 つぎに(アワシマ)が生まれましたが、これも子供とは認めませんでした。 中国のは男系社会が基本で、男が家長でした。 コレに対して日本の古代は女系家族だったようです。 日本は女系社会から男系社会へと移行するという意思表明だったのかもしれません。 また日本にとっては新しい思想である「男系社会」を神話の中で表記すること自体が「カッコイイ」と考えていたのかもしれませんね。 参考: 最初の子供が失敗した理由 最初の交わりで出来た子供、は失敗作でした。 古事記では「生まれたけど子にはカウントしないよ」という記述ですが、では「3年たっても足腰の立たない」という言い方になっていてハッキリと失敗であったと分かります。 コレに関しては、「神話の創世の中で最初に作ったモノは失敗することが多い」という類型パターンがあります。 東南アジアでは「胎盤」を第一子とカウントする風習があり、そうなるといつでも第一子は「人間ではない」わけですから、こういった神話になるわけです。 またイザナギとは神であるとはいえ兄妹。 インセストタブー(近親相姦に対する罰)を表現したという説もあります。 ただどんな神話でも最初に生まれた神は登場人物が少ない以上は親類縁者と結ばれるしかありません(例:アダムとイブ)。 だからこれを特別視するのはあまり意味が無いのかもしれません。 は淡路島ではない 淡島はこの後に生まれる淡路島とは違います。 もしかしたら泡島だったのかも。 について考える そういえばの妹とされる「」という女神がいます。 「若」「日る」「女」…ヒルコと関係があるかもしれません。 しかしたちは最後に生まれた神。 アマテラスに妹がいるなんて矛盾してます。 実ははアマテラスと同一だったのではないか?という説もあります。 ワカヒルメはがのあとで職場に皮を剥いだ馬を投げ込まれて、アソコが傷ついて死んでしまう女神。 ヒルメとヒルコ。 どちらも不遇の存在です。 ヒルコのその後 ヒルコはその後、流れ着いた先で育てられ、青年となってで祀られる「エビス」となります。 ただしエビスという神は「来訪神」で、海から流れ着く「ありがたいもの」という漠然とした意味だったようです。 もちろんクジラだけじゃないでしょう。 浜に打ち上げられるモノ(死体)を祀ったのがエビスとなりました。 だからヒルコはエビスになりましたが、エビス神はヒルコ以外にやなど、に関係する神が同一視されています。

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イザナミ

イザナギ ノミコト

1年かけて、サイクルロードの情報の収集・携行品・淡路島の歴史ほか楽しい準備期間を過ごしてきた。 その間に、病床にあった友が、息子さんの誘いで淡路島一周の車の旅に出かけ、その自然の美しさと父子のこころの結びつきを熱く語ってくれたことが決定的な後押しとなった。 また、神話の島としての神秘性にもこころ魅かれていた。 老体に一抹の不安があったが、この世を去った友にもう一度淡路島の潮風にふれ、なる夕陽を見てもらおうと意を決して出かけてきた。 すべては、<淡路島サイクップ>の取り寄せから始まった。 <淡路島サイクップの取り寄せ> 淡路島サイクップ 下記リンク先のPDFより取りだすことが出来る。 今回は老体を考え、での淡路島一周スタート地点である岩屋への公共(フェリー・バス)での移動をあきらめ、車での移動となった。 垂水インターより始まるトンネルを抜けると、突然青空に吸い込まれる世界一の<天空の吊橋>が目に飛び込んでくる。 アーチ状の吊橋を上りきると、その先に神話の国<淡路>を見下ろせるのである。 <初めての淡路島は原付オートバイで縦走> には懐かしい思い出がある。 若かりし頃、ホンダ・㏄で日本一周ツーリング途上、この原付オートバイで垂水インターより大橋に闖入。 当時はのんびりしていたのだろう、インター入口でのおはなく、㏄が250㏄に見間違われての進入となってしまった。 大橋を渡り始めてまもなく、パトカーの呼びかけに停車させられ原付オートバイは通行禁止であることを告げられる。 わたしは大橋開通以来、初めての原付自転車での乗り入れと大橋を通行した記録をつくることになってしまった。 本当は日本縦断時に<>をサイクルしたように、瀬戸内海のを自転車で渡りたいという夢はあったが、このは自動車専用橋でその夢をかなえることはできなかった。 ただ偶然にもあの日、で渡れたのだから良としたい。 <亡き友と共に淡路島一周> 昨年10月末、自宅療養を続けていたわが友・竹内正照君は、息子さんの運転で淡路島を一周したと、月例友の会の昼食会で目を輝かせ、うれしく語ってくれたものである。 輝かせた目に生きる炎を燃え立たせ、無口は雄弁に変わり、息子さんとのドライブがこの上ない喜びであったことを表現していた。 長距離ドライブの苦痛よりも、父子の無言なる情愛の心地よい交歓に酔いしれていたことを物語っていた。 その友は、この世でのなすべきことをなし終えて昨11月14日召天、帰らぬ人となった。 その彼が体験したであろう淡路島の心温まるサンセット・夕陽の情景をもう一度見せてやろうと遺影(写真)を懐に忍ばせてのサイクリング行となった。 その源である淡路島の二か所、ここ岩屋にある<絵島>と、淡路島南西に浮かぶ<沼島>と、西岸郡家にある宮を訪れてみたい。 楽しみである。 世界一の吊橋の雄姿<> 全長1994m < と 大橋 と こ大橋> 夕陽を浴びてピンク色に染まるを眺めて、その美しさに見惚れた。 美しく、どこが優雅である。 を背負い世界一周の途上、をまたぐ大橋(トルコ・)を思い出した。 橋は、人類をつなぎ、歴史をつなぎ、愛をつなぐ。 橋にはいつも夢がかかっているのである。 話は変わるが、湖にもが詠んだわたしの大好きな一句が残っている。 《 比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋 》 (翁艸) この夢の鷺の橋が、が詠んでから174年後に<湖大橋>として完成している。 岩屋で一泊し、水の補給、緊急用食料の調達、サイクル地図や情報を収集。 出発前日、体を休めるため、道の駅近くの丘の上にある日帰り湯<美湯 松帆の郷>につかり、照明に浮かぶ魅惑のを楽しんだ。 淡路島一周を成し遂げた折も、同じ湯につかり、老いの体を癒したものである。 一周サイクルロードには岩屋を起点とした同じ地点(距離)標識がたっているので現在地を確認するのに役立つ。 ただし、サイクルロードの時計回りルートにだけ表示されている。 路面にもサイクルサインが描かれているがごく一部に限られている。 5時~23時の間に1~3本の便が出ている。 片道運賃は、大人530円と自転車240円、計770円である。 自転車はに関係なく運賃をチャージされる。 ほかに、明日通過する淡路本島の南西にある沼島もまた「オノコロ島」といわれている。 に出てくるノミコト・ノミコトによる<国生み神話>で知られ、神々がつくり出した最初の島がここ淡路島といわれている。 絵島「神話オノコロ島」と法師の歌碑 神話オコ島のもう一つの「沼島」 《千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見るこよいかな 》 () 千鳥の鳴いている絵島の浦の澄んだ月を、波に移してみている。 今夜の絵島は 何と美しいことか。 淡路島の東岸は、大阪湾・に面しアップ&ダウンの少ないサイクルロードである。 この日も美しい白雲の間からさんさんと南国のような陽光が白浜に差し込んでいた。 快適な広々としたサイクルルートに沿って棕櫚、蘇鉄、ヤシの並木がつづき、の赤い花たちも情熱的に歓迎してくれる。 日本縦断の時に走った宮崎のを思い出していた。 確か著「ダイダラ坊の足跡」 に出ていたが、とは<大太郎法師>で、その巨人の馬力で土地移しをやったという話(伝説)だったと思う。 そこでは近江の土地(湖)を掘った土で富士山を作ったという伝説であった。 しかし今回、淡路島一周サイクリングをするにあたって島の地図を眺めることが多く、その都度前回走った湖の形と類似することが気になっていた。 形を逆さにしたり、周囲の距離、面積(大きさ)を比較してみても類似点が多いのだから驚きである。 淡路島が湖の姿に似ているのは、(巨人)が作った島であり、湖であるという伝説を作りあげても面白そうである。 夢を語り伝えるのは愉快である。 面積で比較すると、琵琶湖 669㎢・淡路島 593㎢であり、周りの距離では湖189km・淡路島150㎞で淡路島の方がわずか小さいが、ほぼ同じである。 また地図を見ると、淡路島の南に浮かぶ神話の島である<沼島>が、湖の北にある<湖>に不思議なほど同じ位置にあることに気づかされるのである。 しばしの休憩、WCを済ませ、水・飴・チョコを補給。 ここにはレンタサイクルがある。 宿泊3200円より、日帰り湯730円。 <西日本最大の縄文集落佃遺跡> ここ東浦には、西日本最大の縄文集落佃遺跡(つくだいせき)があり、淡路島にはすでに今から約2500年前人の営みがあった。 遺跡からは、竪穴住居跡や丸木舟の一部が発見されているという。 淡路島には佃遺跡をはじめ、縄文集落が20ほど残っているから遺跡発掘に興味のある研究者にはである。 さらにには淡路島の至る所に水田跡があったことが分かっている。 そして、豊作を神に祈ってお祭りをする際に使われたと思われる銅鐸がたくさん出土している。 もし時間が許し、体力があれば立寄って見てはいかがだろうか。 日本の原風景に出会えるかもしれないでもある。 編より 道の駅・東浦ターミナルパークをでて、巨大な白亜の観音様の激励を受け、海風に押されながらを目指す。 巨大な観音様の出迎えを受ける < 由良方面を望見しながら、東浦の街を駆け抜けに向かう> 淡路と洲本の中ほど、安乎に「シーアイガ海月」がある(情報:宿泊4100~・日帰り湯600円) 明日走る由良からの<ライン>には、コンビニや食料調達の店がないので洲本のイオンに立寄り、食料を購入する。 南国の太陽はまぶしいので、ではサングラスを手に入れることにした。 洲本のイオンで食料購入 大浜公園の美しい松林と砂浜(洲本) WCあり 洲本から由良に向かって断崖道路(県道76)となる 大浜公園先より洲本に立寄る <淡路島の代表的な城 洲本城> 洲本の大浜公園をでて、県道76を南へ少し走ると、右山手へ入ると、洲本城への急な坂道がある。 洲本の石垣は見事である。 洲本城は標高135mの三熊山頂に建っている。 淡路水軍として活躍した安宅(あたぎ)氏によって築城された。 洲本港を見下ろし、遠くは友が島水道を挟んでの山々が霞んで見える。 大阪湾を見渡すことのできる洲本城は、由良城・炬口(たけのくち)城とならんで、淡路水軍の根拠地であった。 その後、天下統一を目指す秀吉は安宅氏を滅ぼし、洲本城をして淡路島全島を支配させた。 また1615年には、大阪の陣で功績のあった主蜂須賀氏に加増され、洲本城を政治的に利用した。 洲本城(復元) 立派な洲本城の城壁 <淡路島と信長の天下統一への道> 天下統一に立ちあがったは、 中国地方の毛利氏との決戦に備えて、秀吉を大将に 進撃を開始させる。 この時、秀吉は瀬戸内海のを持つを撃破するため、 淡路島への攻撃を始める。 1581 年、秀吉は、敵対する淡路島の武士をすべて攻め滅ぼしてしまうのである。 この洲本城は、安宅(あたぎ)氏の主城で、ほかに淡路島には岩屋城、安乎城、炬口城、由良城、猪鼻城、白巣城、湊城の全部で8つの城があった。 洲本城でも見られるような立派な土塁や城壁がいまでもいくつかの城跡でみられる。 <案内板より抜粋> 県道76にもどり、由良に向かうが、歩道はなく車道との共用道路を走ることになるので車には十分な注意を要する。 ヘルメット、後方点滅灯、サイドミラーを確認し、路肩走行を心がける。 友ケ島水道にうかぶ白雲に春の訪れを感じながら南下を続ける。 分岐を左に進むと、急登し山頂の要塞跡<1日目露営地>にでる。 < 生石山第一砲台跡> 設営完了 <生石山頂・由良要塞跡にて> 夕食準備 <ペリー来航 と 松帆台場(砲台)の備え> ペリー来航を機に幕府は、開国し、貿易を強いられる激動の幕末が始まっていた。 幕府や諸藩は、外国艦船に対する海防の強化に迫られ、幕府は、江戸品川に「お台場」を築造する。 のにあった淡路島では、淡路の由良・洲本・岩屋に「台場」を築造し、武士だけではなく、島内の百姓の若者を訓練して警備につかせたといわれている。 を 防衛する大きな使命をにない、陸軍要塞としては、 要塞に次ぐ重要な地点と位置づけられた。 ここ由良には、要塞司令部が置かれ、生石山砲台や関連施設が建設された。 敗戦後、カ軍の命令により、由良要塞の施設は爆破されたが、砲台跡は今も見ることができる。 439m方面に沈む夕日 <生石山頂より> 夕焼けに染まる すでに太陽も沈み、強風が吹き始めた。 深夜は厳しい寒さになりそうである。 ラジオ・ヘッドライト、水、ホイッスル・スティック(獣撃退用)・小用袋とカイロを準備し、眠りについた。

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