いなごとは。 イナゴ(いなご)とは?(意味)~用語集|numan

【日経マネー】 イナゴ投資法とは!?

いなごとは

こんにちは、代表の齋藤です。 信州・長野でおもしろそうなイベントがあると聞いて、早速行ってきました。 昆虫食の本場である信州・長野だからこその昆虫食熱を感じられたのでご紹介します。 『大昆蟲食博』の見どころは長野の4大昆虫食• イナゴは「家庭の味」• 「追って、飼って、食べる」ハチの子• 「ヒミツの食べもの」ざざ虫• 「養蚕、製糸産業から生まれた副産物」さなぎ• 新たな視点で見る世界の昆虫食• まとめ 『大昆蟲食博』の見どころは長野の4大昆虫食 長野県南部に位置する伊那市にある伊那市創造館で開催中の『大昆蟲食博』では、主に伊那谷で受け継がれてきた昆虫食文化を紹介しています。 伊那谷で受け継がれてきた昆虫食文化とは、みなさんご存知のとおり「イナゴ」「ハチの子」「ざざ虫」「さなぎ(カイコ)」です。 この4大昆虫食が、なぜこの地で受け継がれ、生活の一部とされてきたのでしょうか。 イナゴは「家庭の味」 伊那谷だけでなく長野の全域で食されている「イナゴ」。 イナゴの佃煮や甘露煮は、みなさんも一度は聞いたこと口にしたことがあるのではないでしょうか。 『大昆蟲食博』ではこのイナゴを使った昆虫食を『家庭の味』として紹介しています。 とある一般家庭のイナゴ採りから調理方法、食べる楽しさまでがわかる展示となっています。 イナゴ料理がごく当たり前に家庭の食卓にあることがわかります。 これも立派な食育なんだろうなと私は感じました。 「追って、飼って、食べる」ハチの子 ハチの子のコーナーでは、食材としての「追う楽しみ」「飼う楽しみ」「食べる楽しみ」を紹介しています。 食べる楽しみだけでなく、「追う」「飼う」という文化を知り、この地の人々のハチの子へ対する情熱を感じとれました。 唯一、動画で紹介されているこのコーナーでは、ハチの巣を見つける方法「ハチ追い」が映されていました。 ハチ追いとは、まずイカを餌にしてハチをおびき寄せ、胴体に目印を付けます。 そのハチが巣に帰るところを必死に追いかけ、巣の場所を特定するのです。 特定した巣はすぐに処理してしまうのではなく、大きくなるまで見守り、飼育するそうです。 伊那市には巣の大きさを競う『地蜂の巣コンテスト』というものもあり、単なる食文化だけでなくエンターテイメントとしても楽しんでいることがわかりました。 「ヒミツの食べもの」ざざ虫 みなさんは、ざざ虫がなんの昆虫のことかご存知ですか?実は一種類の昆虫を指す言葉ではなくて、伊那谷に流れる一級河川「天竜川」にいるカワゲラ、トビケラ、ヘビトンボなど水生昆虫の幼虫時の総称で「ざざ虫」という呼び方をしているそうです。 このざざ虫を食べる習慣は、伊那谷にしか残っていないようです。 ざざ虫のコーナーでは、ざざ虫の漁獲方法である「虫踏み」が細かく紹介してあります。 実際に使用されている自家製の特殊な漁具も展示してあります。 ざざ虫漁は12月から2月の寒い時期に行われ、その時期のざざ虫は脂の乗りがよくおいしいそうです。 尚、ざざ虫漁を行うには天竜川漁協の「虫踏み許可証」が必要です。 「養蚕、製糸産業から生まれた副産物」さなぎ 人間の手が加わり家畜化されたカイコの一生には、どの段階、工程にも無駄がありません。 さなぎを食す文化もカイコを無駄にしないための一部であったと考えられます。 製紙工場で働く人が糸を取り終えたマユからさなぎを取り出し、おやつ代わりに食べていたというエピソードも写真とあわせて紹介されています。 油が酸化する前の新鮮なさなぎは、とてもおいしいそうです。 新たな視点で見る世界の昆虫食 信州・長野の昆虫食文化を中心に紹介している『大昆蟲食博』ですが、その一角には世界の昆虫食を新たな視点で紹介するコーナーがありました。 世界中の昆虫食の展示はもちろんのこと、未来の昆虫食として「火星での昆虫食」という展示物もありました。 その他にも、伊那市創造館の館長自らが世界の昆虫食を実食レポートしている「食べてみた。 」という掲示物もあります。 館長の人間味ある正直なコメントが楽しめます。 まとめ 長野県の伊那市創造館で行われている『大昆蟲食博』は長野の昆虫食を紹介するだけのものではなく、信州・長野、伊那谷の人々がどのような理由で昆虫食を受け継ぎ、生活の一部にしてきたかを丁寧に説明しているイベントでした。 「長野に昆虫食があることは知っているけど、なんで食べるようになったんだろう?」と思っている方は、ゴールデンウィークに足を運んでみてはいかがでしょうか。 きっと、日本の昆虫食文化に誇りを持てます。 最後の写真は、伊那谷の昆虫食文化を説明してくださる伊那市創造館 館長の捧(ささげ)さん。 会場へ行った際は、ぜひ声をかけてみてください。 なんでも丁寧に答えてくれます。 イベントの詳細はこちら この記事を書いた人 【 】1985年生まれ34歳 男 工具とPCパーツが好き。 落ち着く場所はホームセンター。 虫のいい男。

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ネットイナゴとは (ネットイナゴとは) [単語記事]

いなごとは

ネットイナゴとは、に殺到するの集団をすである。 発祥は。 「にはももない。 あるのはただのみだ」 (07年夕刊ム「ング」より) 概要 な元は、、、の系、個人など。 関連がにされることもある。 と聞きつけるや喜々として失態・失言を個人や、イトのなどに殺到、を形成してさせる。 で言えば、からに飛び込む野次層に該当するだろう。 「」というが一般でも扱われて流行と化す中から生して生まれた言い回し。 で提唱され、が数回取り上げたことで広まり、定着した。 特にやら、燃料発言の多い有名ブロガーが好んで使用する。 命名の由来は、間的にに殺到し焼き尽くす様子があたかもの農作物を時に食らい尽くすの蝗を彷彿させることから。 ただし、蝗をもたらすのは正確にはではなく近縁種のやトノサマなどであるため、「ネットイナゴ」という言葉はに対する誤ったの下に成立している。 傾向と対策 基本的には「それらしい大義をもって集団で何かを攻撃できればなんでも良い」という多数の集団である。 「」「」のように、自らの行動が正しく、その明としての活動を行っているわけでもなく、「自分たちが正しい」「悪を正すために行動している」といった意味も的もなく発生し、損を生じさせ、消滅する。 多くは本気で怒っているわけでもなければですらないが、奮・高揚しており、そこにはのかけらもない。 単に丸ごとの塊としか扱いようがないし、銭的な利益を的とした行動ではないため、「利益がいから中断する」という止めが存在せず一度ネットイナゴにを付けられると回避は非常に困難である。 ほぼすべてのにおいて、欄は「謝罪せよ」などので埋め尽くされ、偽問わずに住所や氏名などの個人ののやなどが展開し「を終わらせる」方向のみにする。 対処法は全面降伏・全面謝罪や欄の、の登録制への移行などしかないが、それも一手誤れば、者側の等にを掲載しているだけの関係のが対となったり、個人においても友人、知人に攻撃が向かうなど人質を取るような方向にが飛び火することもある。 を・業に、最終的にそれをする記事に集まり最終的に全てのを他者に転した後ネットイナゴは移動する。 ネットイナゴの行動原理は、群集心理の基本である「 信号、みんなで渡れば怖くない」が根底にある。 つまり 「自分は他者から見えない」「見えないがいっぱいいる」「安全である」ことが条件にして絶対条件であるため、燃料供給を絶たれて人が減少すると次なるをめてたちは散する。 損の発生・終了も「ネットイナゴ」という名称からも解るようにの自室のでのわずか数の行動が「ネットイナゴの発生」に至るため、極めて気軽である。 「餌を食らう ・でをする等 」と行動をする的もないか、あったとしても「してムシャクシャしていた」「芸人のだからやった」などで、その行動により最終的にどのような効果が発生するかは考慮されない。 また、ネットイナゴ自身も明確な自身の規模や程度をしていないため、予見可性のない事態に発展することもある 関係者による未遂等。 極端な例では身元をされたネットイナゴの一部が等に謝罪したその数時間後にはのを再開していたという例のように、者の事情どころか自らの周囲の事情さえ考慮できないという「強度の性」があるともいわれており、ネットイナゴと呼ばれるような活動を行っていることも気づかず「」「悪いのは何度もを行っていた他の者で、自分ではない」など自己のみの正当性をする。 撤退の見極めがつかずにを続けると、 のようににされることもある。 この事件は最終的に者が泣き寝入りをせずをすることを決意したもので、ネットイナゴを構成していた者の氏名や住所等のをを受けつつも調を行い、が数名を書類送検するというにより大きな問題に拡大させることにより、最終的にがネットイナゴに対し一斉検挙の方針を見せることにまで成功したである。 は群れてこそ初めて恐ろしいのであって、1匹ずつはではなく単なるである。 「者が有であること」であることもとなってしまった原因の一つであると共に、反撃の際の起爆剤となる「問題化」の際私人より有利 会社人やに対してが行われていることより、芸人であることでも積極的に採り上げる ではあるが、 事件のであると名しされるという個々の行為の悪質さ、姿が見えない加者の不さは脅威でしかなく、勝算の程度と勝つまでにどれだけの損を追い続けるか、勝つことでどれだけのをできるかを考えればネットイナゴへの反撃を決断することはネットイナゴ個々が想像もできないほどの決意が必要であろう 、想像ができないために反撃を受け、され、がされた。 を・業またはの死等でネットイナゴは移動するが、に挙げられる側からすればのの所存が1匹1匹に分散しており、かつ、それを暗黙の理解として存在する 最終的に自分一匹が発生した損を弁済する可性は少ない。 仮に個々を対とし賠償の請等をめたとしてもを回復することはできず極めて甚大なを被り、終了する。 最大の問題点 まずネットイナゴのとは、数千人、数万人のたちが、発見したに、各々のの不満や憤を押し付けることである。 押し付けられた側がしようが、しようが、ネットイナゴは関係がないと自己弁護に終始する。 そして、「自分のでなどするはずがない」といった根拠のい思い込み 自分がを負うはずがないという願望 を持っている。 なお、ネットイナゴと違い本気で相手を追い込むことを的としている者 に常駐しているである はネットイナゴとはに異なる。 の旗印さえあれば的を餌とする価値がなくなる 飽きる まで、また、「の旗印」がなくとも大勢により行われている行動 の・の等 を、「大勢が 群れが 行っているから」という理由のみでをさせるネットイナゴの行動の最悪の問題は、 一人として的な利益を得ることもなく、意味も的もなく突如に損だけが生じる(にもかかわらず、ネットイナゴたちは 「自分たちがそれをやらないとの不や悪をすることが出来ない」と本気で思っている)という点であり、 の負の部分の徴とも言えるだろう。 悪意なき祭り やにありがちだが、攻撃意図すらまったくなく、単になんらかのきっかけで「と聞いて」「駆けつけ」「聞いてきました」 「だワッショイ」といった でをに追いやるもままある。 冒頭の記事のとおり、にはももなく、単にのみで動く。 そしてとなった側てみれば、にがあろうがなかろうが結局食い荒らされ泣きを見ることに違いはない。 的なを収めたはネットイナゴの法的追及の可性を示した重要なであるが、当該事件の実行者は年齢等により最終的に事件としては不起訴とされ、民事での勝算をもめた場合有利に展開させるまでには至っていないようである。 民事訴訟を提起した場合ネットイナゴが社内のから活動を行った場合はへの個別の請が必要とされ、反訴の可性もあり、最終判決までに必要な訴訟費用・期間は大で、では民事の展開を断念したとされる。 諦めたら? ネットイナゴ談• 関連動画 関連項目• 関連ネタ• な『自称:』はただの『自分勝手』が大半で、「自分(達)だけが特別で安全圏」だと意識に信じ込んでるが多数。 人を死なせてもでオッケーなは、同時に自分が他人に殺されてもオッケーな場所なんだが、なぜかその手の自分勝手を振りかざす連中は自分が同じ事をされる事は想像してないし、自分に向けられたら大騒ぎ始めるし。 自分で自分の首を絞めるような暴論を振りかざして暴れてるのに、いざ『自論そのもの』を用いてにその暴論から導かれる墓を明し始めると発狂する人の多い事多い事…… 4283 ななしのよっしん.

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『World of Tanks』で今さら聞けない用語を解説! チャットでよく耳にする“芋”ってなんだ!?【めざせ! 戦車道免許皆伝 第26回】

いなごとは

成立年代は不明。 いなごの襲来、悔い改め、神の霊がそそぐこと、主の日等について述べてある。 全四章。 のちに使徒行伝の中でペテロがヨエル書を引用し、がすべての人に下るというヨエルの預言がにおいて成就したことを述べている。 ・ヨエルとは誰か?:ヨエル書以外の聖書記述中情報がなく、詳しいことは不明。 の名前はペトエル。 ペトエルもヨエルも何者か不明。 父の名が伝わっていることから、父の名が伝わらないミカと異なり、貧しい庶民ではなく、おそらくは一定の身分や教養のある階層の出身と考えられる。 ペトエルという名前は「神を広めよ」という意味なので、祭司や神殿に関連した人物だった可能性が考えられ、ヨエル自身もそう考えられる。 ・ ヨエルの時代背景:ヨエルが生きた時代は不明である。 ホセア・・ミカなどは、彼らが生きた時代の王の名が記されているために時代が確定できるが、ヨエル書本文には全く王の名が出てこない。 本文中にも、名前のみならず、なぜか王に関する記述が全く存在しない。 そのため、以下の時代の可能性が指摘されている。 しかし、人(人)のの歴史についてはの数世紀前にさかのぼる文書が見つかっている。 ・しかし、十二小預言書はもともとは一巻の巻物におさめられ、一まとまりの内容として意識されていたという説がある。 この説に立てば、ホセア書の次、書の前にヨエル書が配列され、十二小預言書中二番目に記載されてきたことは、ヨエルがかなり早い時代の預言者と意識されていたものだと推測される。 十二小預言書の中でも前半六つはの時代、後半六つがそれ以後のバビロン捕囚や捕囚後の時代のものという配列を考えれば、の時代のものと受けとめられてきたと考えられる。 ヨエル書に登場する「いなご」を軍隊の比喩と考えれば、差し迫るの軍勢を預言したものとも考えられる。 十二小預言書の中でも、比較的短い分量。 ホセア・・ゼカリヤらに比べるとかなり短い。 しかし、内容的には整然とした構成を持ち、「災いから希望へ」・「神への立ち帰り」という十二小預言書に通底するテーマが最も明瞭に現れている。 「いなご」をどう受けとめるかで、後世の我々にとっても重大な示唆に富むものとなる。 語には二つの用語がある(『聖書思想事典』参照)。 ホセアは、神との愛という内面的契機を重視しつつも、の除去という点で実際の生活態度の悔い改めも強く迫る。 それに対し、ヨエルは、エピストレフォーではなくメタノイアを強調したと言える。 前者については二章で、後者については四章で主に言及している。 また、二重の意味で使用している点で独特の歴史のとらえ方がある。 ペトエルについては前述。 (ただし、ヨエル書の「いなご」襲来について、聖書の歴述は存在しない。 〈孤独相〉から〈群生相〉に突然変異する。 群生相になると、1㎢あたり五千万の個体が群生する場合がある。 別名・飛蝗、それによる被害を蝗害といい、古代より中東や中国で猛威を振るい、20世紀に入ってからもアメリカ・中国・フィリピン等で甚大な被害を与えた。 ) 日本では、が、いなごとウンカのために起こったと言われている。 (1732年夏に起こった享保のでは、の人口の五分の一、約七万人が餓死したと言われる。 一説には人口の三分の一が餓死。 や桜坂、万行寺や徳正寺や顕乗寺などに、享保のの時に亡くなった人々を供養するための飢え人地蔵と呼ばれる像が現存。 幕府はのために救援米を十三万六千石送ったが、は優先的に家中の武士に分け与え、飢えた庶民には五万三千石しか分け与えず、残りの八万三千石の米を人口比率で言えば圧倒的に少ない武士たちだけで独占し、武士は一人も餓死しなかったという。 ) ・聖書においては、いなごは、10章においてエジプトに対する「十災」のひとつとして登場する。 また、11:22では食用可能な昆虫として言及される。 ・申命記28章15節:「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。 」同38節、呪いの実現の一つ:「畑に多くの種を携え出ても、いなごに食い尽くされて、わずかの収穫しか得られない。 ・1 :4 いなごの四つ種類 (ハバード、48頁)正確には、各種の単語は、はたして「いなご」を意味するのか、あるいは「いなご」だとしてどの成長段階なのか、不明。 ガーザーム:「かみつく」 アルベ:「増やす」 イェレク:「跳び虫・ばった」「なめるもの」 ハーシール:「破壊者」「とどめをさすもの」 (1:4 バルバロ訳「ガザムが残したものは、いなごが食った。 /いなごが食い残したものは、エレクが食った。 /エレクが食い残したものは、ハジルが食った。 ・1 :5 関根訳「覚めて泣けよ、酒に酔う者」今まで現実を直視していなかった人々が、災難や危機に際してやっと目を覚ますこと。 また、現実を直視して目を覚ますことの勧め。 ・1 :6 「一つの民」: いなごは本当にいなごなのか、あるいは民族や軍隊の比喩なのか? (参照:6:5と7:12では、アマレク人など敵対する民族の数の多さを「いなご」のようだと比喩で表現している。 (ナホム3:15~18では、いなごをの比喩に使用。 ) 2、四つのいなごは、それぞれ、、、シリア、ローマ 3、病気(なんらかの、ペスト、など) 4、人の心をむしばみ傷つけ害する言葉や教えや情報(、唯物主義、弱肉強食主義、カルト宗教、性的・暴力的な表現の氾濫など) 5、黙示録9章に出てくる、アポリオンから派遣される人間のみを攻撃する「いなご」。 (「蝗は無神唯物の文化の霊であり、その毒はである。 」(全集9巻467頁) 6、飢え。 (物質的・精神的)。 7、飢えや病気や貧困による死。 8、黙示録第六章の白・赤・黒・青の馬(=キリスト・戦争・・疫病)。 ・1 :7 「ぶどうの木」・「いちじくの木」 中東における最も重要な果物。 比喩としてとらえる場合、ぶどうの木は(ホセア10:1、詩編80)。 新約においては、ぶどうの木はキリスト(15章)。 いちじくは、しばしば律法や、あるいはファリサイ人のたとえ。 農耕的な供え物。 灌祭:ぶどう酒を神に捧げた。 ともに、日常的に神の恵みに感謝し、神との関係を持つために行われていた祭儀。 のちののミサにおけるパンとぶどう酒に類似。 つまり、「いなご」の襲来の結果、神との通常の交わりを維持することができなくなったことの衝撃と歎きを述べている。 10節はその理由としての大地の荒廃が述べられている。 ・ 1 : 15 「主の日」 主が歴史に介入する日、時 ヨエルは、今現在やって来ている「いなご」の襲来という危機において、主が歴史に介入している時間を見ている。 その上で、四章における終末の日としての「主の日」を展望している。 つまり、終末としての「主の日」を、今現在起こっている「主の日」を通して感じとり、注意を促している。 二重の「主の日」の構造となっている。 ・1 :18 「なんという 呻きを 家畜はすることか」 動物も戦争やの際は人間と共に、人間以上に苦しむ。 (のゾウ、マイケル・モーパーゴ『戦火の馬』、『の犬たち』等) 環境汚染においても、動物が真っ先に甚大な被害に苦しんだ。 二章ではこれから近い将来にやってくる「いなご」の被害が描かれている。 ・2 :9 「盗人のように窓から入りこむ」:気付かぬうちに静かに忍び寄る、という意味?病気や、あるいは死そのもの? ・2 :11 「主の声」:主の意志の実現としての「主の日」 ・第一部を通して ・ 非常にリアルな描写。 恐怖をかきたてる「いなご」による襲撃の様子の描写。 ・ 未曾有の「いなご」の襲来による被害と、その出来事や体験を記憶に留めるべきだという主張、および近い将来にもっと大きなそれらが起こりうることの警告がなされている。 衣でなく心を裂き 君たちの神に帰れよ。 」 ・口語訳:「主は言われる、/「今からでも、あなたがたは心を、/断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 /あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。 /あなたがたの神、主に帰れ。 」 ・文語訳:「されど、エホバ言いたもう、今にても汝ら、断食と哭泣(なげき)と悲哀(かなしみ)とをなし、心をて我に帰れ。 汝ら衣を裂かずして心を裂き、汝らの神エホバに帰るべし。 」 ・「立ち帰る」(シューヴ)のは、「今」。 (人生で一番大切な時は、今と今から。 ) ・「自分は今までの人生の方向が間違っていたことを認めます。 自分は今まで罪につかえこの世につかえ肉の情欲につかえてきたものでありましたが、今日以後はキリストにつかえ神につかえ義につかえてまいります」(『入門』166頁) ・それが外面的なことではなく、内面的なことであるべきこと。 ・砕けたる心(詩編34:19、ルカ18章10~14の徴税人。 神の御心にかなった悲しみ=救いに通じる悔い改め 第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。 悲しみから見た人生に永遠の薫(かおり)があります。 この世にこびり着いて離れ難き人の目を、神に向かい永遠に向かって開くものは悲しみであります。 悲しみの無い人は俗人であると言って憚りません。 もし人の人たることが永遠を慕い、永遠の生命を得ることにありとすれば、悲しみは人生の祝福であります。 ・「断食」:ヨナ3:7等。 このヨエル書の箇所では、文字通りの断食を意味すると思われる。 しかし、のちに「断食」の意味は深められ、 イザヤ 58 章やゼカリヤ7章では、形式的な断食ではなく、悪による束縛・くびきを断ち、貧しく苦しんでいる人々を助ける社会正義のことを「断食」と呼んでいる。 ヨエルの「断食」をこの意味に受け取れば、やミカと同じ内容にもつながる。 後世の我々は断食の意味を広く深く受けとめることも可能。 (政池仁は、「正しき思い、明るい心」で生きることを自らに課すことが「断食」だと神への深い祈りの中で思い至っている。 「パラクレートス」290号参照。 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。 しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。 文語訳・130:5「我、エホバをまち望む。 わが霊魂はまちのぞむ。 ヨエル2:13も、この箇所を思い起こし、神の「思い直し」を望んでいる。 ・2 :15 、16 民全体に「立ち帰り」が呼びかけられている。 (参照・) ・2 :16 「花婿・花嫁」 なぜここに出てくるのか? においては、新郎は兵役義務や公務を免除されていた。 申命記24章5節:「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。 彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。 あるいは、祝い事の自粛を厳しく命じている。 厳粛に民族全体で神に立ち帰ることを勧めている。 ・2 :17 主への嘆願 の背景 参照:列王記上8:37~39、歴代誌下6:28~30 では、ソロモンが神に対して、いなご等が発生した場合にも、の民が、心に痛みを覚え祈るなら、罪を赦し、こたえてください、と祈っている。 それに対し、ソロモンの夢の中で神が答えて、以下のように語ったとされている。 歴代誌下7 :13 ~14「わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。 ただし、ここで問題が生じる。 人が立ち帰れば、神が罰を思い直す(立ち帰る)という構造になっているように読める。 (マラキ3:11には、人が立ち帰って立ち帰りにふさわしい行動をすれば、神がいなごを滅ぼすことが述べられている。 ) ・しかし、ヨエル書には、ホセア書において批判されるや、書やミカ書で批判されている社会の不正義が一切書かれていない。 いきなり、いなごの襲来が記されているだけで、前提となる民の側の罪は一切書かれていない。 ・これから見る第三部にも、別に悔い改めて立ち帰ったから赦された、とは書かれておらず、2:18では、「はご自身の国を熱愛し、その民を憐れまれた。 」(岩波訳)とのみ記されてつながっている。 ・したがって、申命記にあるように、なんらかの神への背きの罰としていなごの襲来があったようにも受けとめることができるが、むしろ、第三部にこれから述べられる祝福を与えるために、神がまず人の側に立ち帰ることを促すために「いなご」(悲しみ)を送ったようにも読める。 つまり、罰するためでなく、(悲しみという)祝福をもたらすために。 ・:「悲しみの経験ある人でなければ、『悲哀(かなしみ)の人』キリストを知ることはできません。 そして永遠の生命を得ることが人生最大の幸福であるとしますれば、キリストを知ることがすなわち最大の幸福なのであります。 悲しみはキリストを知る門であります。 ですから悲しみは神の恩恵であります。 前々々回「ホセア書を読む」資料参照)。 したがって、ホセア書の次にヨエル書が来ているという配列を重視し、ホセア書の内容を受けてヨエル書を読み解くのであれば、ヨエル書における「立ち帰り」は「罰」の結果ではなく、むしろ神の側の「愛」や「贖い」が先行したものであり、「祝福」であると受けとめることができる。 ・損害の何年分も償われる。 豊かな大地が回復する。 のうちに神がいることを人々は知るようになる。 いちじくとぶどうの豊かな実りの回復。 ・神の愛に満ちた、豊かさに満ちた人生の実現。 ・いちじくとぶどうを旧約と新約の御言葉のことと解釈すれば、これらの箇所も、単なる物質的な回復や物質的な祝福ではなく、霊的な意味にも受けとることができる。 神に立ち帰ったのち、豊かに御言葉が与えられることと解釈できる。 ・2 :23 岩波訳:「…彼はあなたがたに、 義に従って秋の雨を与え、あなたがたに冬の雨を、もとのように、秋の雨と春の雨も降らせて下さった。 ハモーレ・リツダーカー。 訳やヴルガタ訳では、 「義の教師」としている。 雨が言及される中で唐突だという説もあるが、秋の雨と春の雨=旧約の御言葉と新約の御言葉が与えられるという意味ととれば不自然ではない。 (書前々回レジュメ(7章、第一の幻)参照。 ・ただし、この箇所は、物質的な豊かさの回復の意味に受け取っても十分に素晴らしい箇所と思われる。 そのうえで、義の教師や精神的な糧も与えられていると受けとめることも可能と思われる。 ・誰もが、預言・夢・幻によって神のメッセージを受けることができるようになる。 ・奴隷にも神の霊がそそがれる。 つまり、身分は一切関係なく、平等である。 (神の霊がそそがれる以上、当然「奴隷」も尊い存在ということになる。 人権の根拠。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 ・・・」 (参照:ゼカリヤ12:10においても、が人々にそそがれることの預言がある。 残りの者には、逃れ場がある。 しかし、キリストを主と告白し、神を父と呼べるのは、の働きだと新約は述べている。 (フィリピ2:11~13、ガラテヤ4:6)。 それを踏まえれば、むしろ「神の霊のそそぎ」があったからこそ、「立ち帰り」が可能となり、「御名を呼ぶ」ことができるようになったと読むことができる。 もしその読み方をするのであれば、ヨエル書の第二部と第三部、つまり二章十二節以下から三章にかけては、同時に起こっていることと考えることができる。 ) ・ヨシャファトの谷:神の審判の谷。 とオリーブ山の間のケデロンの谷という説もある。 ・、土地が奪われたこと。 ・人身売買、。 (参照:アフリカの黒人奴隷。 フレデリック・ダグラス自伝には、海外の伝道団体に聖書を寄付するために黒人の赤ん坊を売り払ってお金をつくる南部の奴隷主人についての言及がある。 また、の植民地化やなどの過去の歴史の罪科を直視しないことを考えれば、日本にとって決して無関係なことではない。 挑発的に彼らの敵意やを揶揄している表現。 したがって、神の本意は、ミカとイザヤの中のヨエルとは正反対の表現の中に、非戦論・平和主義の中に、あると考えられる。 ・4 :13 鎌、刈り入れの時 黙示録14章、マルコ4:29、ルカ10:2、イザヤ63:3 審判。 「赦し」の意味にこの箇所をそれらの訳は受け取っている。 関根訳「わたしは今まで罪なしとしなかった/彼らの血を罪なきものとしよう。 ここは、新共同訳の「復讐をする」ではなく、むしろ関根訳等のように、罪のゆるしと受け取るべきと思われる。 (ただし、歴史的に見て、復讐の審判が行われる主の日を希求したものとみることも可能。 「復讐の神」(全集九巻680頁)=紊乱された神の秩序の回復。 ・シューヴ(立ち帰り)の内容において、それまでは外面の行動の重視に力点が置かれていた中で、特に内面における契機を重視し、のちの「メタノイア」につながる内容を説いたこと。 ・「主の日」を二重の意味で用い、「」の思想を最も早く打ち出していること。 ・神の霊が万人にそそがれるという、神と個人の直接的関係と万人の平等を明確に預言していること。 ) ・「主の日」を二重の意味に受けとり、今起こっている問題や災厄から類推して終りの日をリアルに感じ取るという姿勢と、において義が貫徹されるという信頼の姿勢の、この二つの姿勢を持つことをヨエル書から学ぶことができるのではないか?特に日本にはこの二点が欠けているのではないか? ・神の霊が万人に平等に降るというヨエルの預言は、神と人との直接的な関係と万人の平等を明確に示しており、ルターの万人祭司主義を先取りするものであり、さらには無教会主義の根拠となるものと思われる(「一人一教会」)。 聖職者や組織を媒介にしなくても、個人は神に直接結びつき、神から救いを受け取ることができるという意味で、ヨエル書は無教会主義の根底をなす。 ・「断食」を深く広い意味で受けとめて、社会変革の意味だと受けとめるとしても、まずは個人の「悲しみ」の体験にもとづいた切実な神への「立ち帰り」が必要だということがヨエルから学ぶ貴重なメッセージ。 ・ただし、ヨエルの場合、「立ち帰り」が個人に始まるとしても、個人に止まることなく、民族全体に呼びかけられているものであることも注目すべきことと思われる。 ヨエルや洗礼者、そして主イエスは、個人の内面の救いや隠遁にとどまらず、「立ち帰り」を広く人々に呼びかけるものであったこともあらためて確認されること。 ・冒頭がいなごの襲来のため、ヨエルには深刻な悲哀に満ちたイメージが当初はあったが、「立ち帰り」以後の、圧倒的に豊饒な祝福に満ちたイメージこそ、ヨエルの真骨頂と思われる。 「悲しみ」は「永遠の窓」であり「祝福」である。 衣でなく心を裂き 君たちの神に帰れよ。 」 「参考文献」 ・聖書:新共同訳、訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等) ・の参照サイト:Bible Hub () ・デイヴィッド・アラン・ハバード著、安田吉三郎訳『ティンデル聖書注解 ヨエル書、書』、2008年 ・黒崎幸吉編『𦾔約聖書略註 下』、藤本正高「ヨエル書」 ・『新聖書註解 旧約4』、「ヨエル書」、1974年 ・レオン・デュフール編『聖書思想事典』、1999年 ・全集9巻、14巻、、1963年 ・『入門』中公文庫、2012年 heartfulwill77.

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