尾形 育英。 【芸能】仙台育英の元10番・パンサー尾形のサッカー史、指導者への思い。「自分を作ったのはサッカー」

パンサー・尾形 手術終了を報告「お腹を切ったので今日は痛くて痛くてたまらない」― スポニチ Sponichi Annex 芸能

尾形 育英

もくじ• 当初は「グレートホーン」というコンビで活動していたが、解散後は「サンキュー尾形」の芸名でピン芸人として活動。 2008年 6月に東京 NSCの後輩にあたる向井慧と菅良太郎とともに、お笑いトリオ「パンサー」を結成。 トリオは 2013年ごろからテレビ出演が増えはじめ、「笑っていいとも!」や「王様のブランチ」などの人気番組に出演。 2014年の「碧の海」でドラマ初出演。 2017年 3月にかねてから交際していた女性と結婚した。 学歴~出身大学の詳細 スポンサードリンク 出身大学: 中央大学 文学部 偏差値 53~ 58(学科不明のため) 尾形貴弘さんは高校卒業後は、中央大学に進学しています。 一般入試での進学ではなく、サッカーによるスポーツ推薦での入学です。 大学時代もサッカー部に在籍して、サッカー日本代表の中村憲剛選手は在学時の後輩にあたります。 中村さんは3学年下の後輩でしたが、授業の「代返」に行かせたことをインタビューで話しています。 「俺が4年のときの1年です。 憲剛は俺のことを「ほんっとにダメな先輩」だと思ってると思います(笑)。 ひどいんですよ、俺。 代返(欠席者の出席を装うために他者が代わって返事をすること)行かせたりとか。 元日本代表にですよ(笑)。 「ちょっとお前授業出てこい」って言って」 尾形さんは大学時代は寮生活をしており、4年間を4人部屋で過ごしています。 また大学2年生の頃まではプロのサッカー選手を目指していましたが、大学3年生の時にプロになれないことを悟って、以降はギャンブルと酒、女に溺れたとインタビューで話しています。 そのため大学4年生の時にはほとんどサッカー部の練習には行っていません。 またサッカーを諦めたことで、お笑い芸人になろうと思っています。 「まずは就職を考えて。 で、企業でサッカーやろうかなとか思ってて。 クラブチームでやったり、あと企業のサッカー部でやったりとかしてたんですけど、「サッカー、もう無理だ」と思って、一気に冷めたんですよね。 僕もそんなにやる気がなかったけど、周りがもっとやる気ないから。 レベルもガクンと下がるし、やっぱり。 それで芸人になろうって思ったんですよ」 なお尾形さんは大学時代に教員を目指したこともありましたが、結局は教職課程などは受けませんでした。 またすぐにはお笑い芸人を目指しておらず、大学卒業後は事務機器大手のリコーに就職しています。 そして25歳の時にお笑い芸人を志して NSC東京に入校しています。 デビュー後はコンビ解散で、ピン芸人としてもまったく売れずに、引退してラーメン屋を開業することまで考えていました。 しかし新宿で偶然、 NSC東京の後輩の菅良太郎さんと出会ったことで、パンサーの結成につながります。 「偶然、新宿で会ったんで、コンビを組まないかって持ちかけたんです。 その前からずっと菅と組みたいと思ってたんだけど、後輩だから俺に気ぃ使うだろうなと思ったら言えなかった。 断られるのも怖かったですしね。 たぶん、あそこで会ってなかったら、地元に帰ってラーメン屋やってたと思います」 トリオは2013年に「笑っていいとも!」の曜日レギュラーに起用され注目されて、以降は数々のバラエティ番組に出演しています。 スポンサードリンク 学歴~出身高校の詳細 出身高校: 仙台育英学園高校 フレックスコース 偏差値 38(かなり容易) 尾形貴弘さんの出身校は、私立の共学校の仙台育英高校です。 同校は部活動が盛んで、陸上部や硬式野球部、サッカー部などが全国的な強豪として知られています。 尾形さんは子供の頃からサッカーが得意で、高校時代も同校のサッカー部に所属して、キャプテンを務めたほど。 チームも全国ベスト 16となるなど、かなりの腕前でした。 また高校時代は後にJリーグのサンフレッチェ広島などで活躍した中島浩司さんとはチームメイトでした。 「高2の終わりぐらいからベンチとか入り始めて、最後は10番をつけました。 ずっと中島(浩司:ジェフ千葉、サンフレッチェ広島などでプレーし2013年に現役引退)がつけてたんですけど、最後の最後に俺が(笑)。 俺らの10番は調子いいやつがつけるんすよ。 監督が調子いいやつに渡す。 それで中島は8番になったのかな」 (中学時代) 尾形さんは高校時代はサッカーで活躍しただけあってかなり女子にモテており、バレンタインデーのチョコレートを80個ももらったエピソードも残っています。 なお高校時代も3年間寮生活をしています。 【主な卒業生】 高橋ジョージ(歌手) 岸川聖也(卓球選手) スポンサードリンク 学歴~出身中学校の詳細 出身中学校:宮城県 松島町立松島中学校 偏差値なし パンサー尾形貴弘さんの出身中学校は松島町内の公立校の松島中学校です。 中学校時代もサッカー部に在籍して、部活動に励んでいます。 当初は地元の鳴瀬町(現在は東松島市)内の中学校に進学していますが、その学校のサッカー部はできたばかりでちゃんとした指導者もいませんでした。 そのため小学校時代のサッカーの恩師が、この中学校に転校してサッカーを続けることを勧めています。 「小学生のときの指導者の人が中学の宮城県選抜の監督もやっていたのかな。 その人から「お前そこにいたらダメだ。 (中学校を)辞めろ。 辞めて一人暮らしして出てこい」って言われて。 それで俺、一人暮らししたんですよ(笑)。 中一の終わりぐらいから単身(笑)。 それで少年団で一緒にやってたやつらが多い中学校に移って」 そのため尾形さんは中学校1年生にして一人暮らしをしています。 またその際には母親の支えがあったことをインタビューで述べています。 「母ちゃんがメシ作りに来てくれて、また家帰っていくっていう。 それがなかったらサッカー続けてなかっただろうな」 その甲斐もあって中学校時代には、県内でも注目されるほどのサッカー選手に成長しています。 家族構成は両親と姉の4人家族です。 小学校2年生の頃からサッカーをはじめていますが、小学校のサッカー部は5年生からしか入部できませんでした。 そのため電車で6駅くらいのところにあった松島町の「松島サッカースポーツ少年団」に入団しています。 「それから小学校の間はずっと、もう毎日、小学校が終わったら一回家に帰って、赤いジャージに着替えて、サッカーボールを持って電車で通ってました。 結構有名だったんですよ。 赤いジャージ着た小さいやつが、電車の中とかでもドリブルとかリフティングをしてて(笑)」 以降はサッカーにまい進した小学校時代でした。 以上がパンサー尾形貴弘さんの学歴と学生時代のエピソードのまとめです。 当初は下積み生活が続きましたが、31歳の時にお笑いトリオ「パンサー」を結成後は波に乗りました。 大ブレイクこそないものの、以降は着実にキャリアを重ねて、現在では多くのテレビ番組に出演するほどの人気ぶりです。 ピンでも高い人気を誇るだけに、今後の動向にも注目です。 スポンサードリンク ここまでお読みいただきありがとうございました。 ご質問やご意見などがございましたら、お手数をおかけしますがページ上の「お問い合わせ」よりお願いいたします。 また出身校や偏差値情報などのリサーチには万全を期しているつもりですが誤りなどがあった場合はご指摘していただけると幸いです。 なお返信はあるだけ早くおこなうようにしていますが、数日かかる場合があることをご了承ください。

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パンサー尾形は仙台育英高校サッカー部キャプテンだった!その実力、戦歴は?

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お笑いトリオ・パンサーの尾形貴弘は名門・仙台育英高校で10番を背負い、中央大学の体育会サッカー部に所属。 川崎フロンターレに所属する中村憲剛選手の先輩でもある 尾形が4年生のとき、中村選手は1年生。 昨年よりボルシア・ドルトムントのブランドアンバサダーを務め、「自分の人間性を作ったのはサッカー」と豪語するほど尾形に、サッカーとの思い出を語ってもらった。 サッカーとの出会いは小学1、2年生の時。 神社の鳥居をゴールにしてボールを蹴っている年上のお兄ちゃん方がいて、彼らに誘われて仲間に入れてもらいました。 そこで、お兄ちゃん達全員を抜いたんですよ。 「こんな気持ちいことってあるのか!」と感じたのを鮮明に覚えています。 あまりに楽しくて、帰ってから家族に「サッカーをやりたい」と伝えました。 すると父親がすぐにサッカークラブを探してくれたんです。 地元の小学校のクラブは5年生からしか入れなかったのですが、少し離れた町にチームを発見して、そこに入りました。 放課後、赤いジャージに着替えてボールを持って、毎日電車で通っていました。 漫画みたいな話ですけど、最前の車両から最後尾の車両までドリブルで乗車客を抜いたり、リフティングしたり、と。 移動中も練習をしていて、地元では有名でした。 高校生になった時に「電車でサッカーをやっていたあの子か!」と何度も言われました。 サッカーを始めた原点が"人を抜く楽しさ"だったので、小学生の時からずっとドリブラー。 パスはしないで、全員抜いて自分でゴールまでボールを運んでいました。 中学も高いレベルでサッカーをしたい思っていた中、松島の学校の監督にお声がけいただき、単身で乗り込みました。 中1から一人暮らしをしてたんですよ。 ただ、チームではスイーパーをやらされました。 ドリブルが好きだったので前線をやりたかったのですが、後ろを任されたんです。 「なんで後ろなんだよ」と思いながらプレーしていたんですけど、結果的に後々に生きました。 高校に入ると自分のドリブルは通用しなくなって、ボランチに落ち着いたのですが、中学時代にポジショニングやディフェンスを学んでおいてのがここで活かされました。 当時の先生には感謝ですね。 でも、チームで一番点をとっていたのは僕だったんですよ!後ろからドリブルで全員抜いて、と。 そして、地元でドリブルという武器で結果を残し続けたことによって、宮城県選抜に入ることが出来ました。 選抜の練習場所は仙台だったのですが、そこで大きな衝撃を受けましたね。 仙台は東北でも都会なので、かっこいいチームメイトが多かった。 アシックスやプーマのジャージを着ているんですよ。 僕が着ているのはノーブランドで、野球のスパイクみたいなものを履いていて。 恥ずかしくなり、プレーも消極的に。 劣等感があったせいで、得意なドリブルをせずにバックパスばかりで自分の特徴を全く出せない。 辛い日々が続きました。 お前に誰も期待していないし、お前がサッカーが上手いとかはどうでもいい。 楽しくやればいいんだよ!」と言われたんです。 その一言がガツーンと来て。 その日の練習は吹っ切れて全員をドリブルで抜いて、レギュラーにもなりました。 この経験は本当に大きかったです。 大学、そして社会人までサッカーを続けられたのは親父のこの一言のおかげです。 仙台育英へ進んだのは中学校の県大会がきっかけです。 結果は良くなかったのですが、当時の監督であるブラジル人のムニールさんが声をかけてくれて、育英のサッカー部に入ることが出来ました。 特待生ではないのですが、優遇がとても良かったんです。 合宿や練習着、1年生16人だけが行けるドイツへのサッカー留学にもお金がかかりませんでした。 当時の宮城県にはチームメイトだった中島浩司 ジェフユナイテッド千葉やサンフレッチェ広島に所属 や、東北高校の平間智和 横浜F・マリノスやベガルタ仙台に所属 、東北学院の千葉直樹 ベガルタ仙台などに所属 のようにすごい選手がたくさんいて。 彼らを見て「ドリブルやテクニックで勝つのは無理だ」と思いました。 そこで、「自分は上手い選手のサポートに回ろう」と。 ドリブラーとしてのプライドを捨て、ボランチになりました。 プレースタイルもファイターになって。 負けず嫌いな性格も相まって、チームメイトの浩司とよくやり合ってましたね。 高校時代は選手権もインターハイもいけませんでした。 印象的なのが3年生のインターハイ予選。 平間擁する東北高校と決勝で当たり、引き分け。 この試合、延長後半でPKを取ったのですが、チームメイトがそれを外してしまい再試合になったんです。 それもまた引き分けて、最後のPK戦で負けました。 本当に紙一重の差で優勝できなかったんです。 サッカー人生で一番、悔しかった試合です。 中央大学は声をかけてもらい進学したのですが、高校の時以上に周りの人は上手いし、挫折をしたことがないのでプライドが高い。 その中で、試合に出られないことを監督や周りのせいにする選手が多かったと思います。 プライドが邪魔をするんです。 僕も最初はプロは目指していましたけど、周囲の凄さを見て諦めましたね。 印象的だったのはセレッソ大阪のサテライトと試合をしたとき。 当時、レギュラーだった西澤明訓 元日本代表 選手が怪我明けで、調整としてサテライトの試合に出場したんです。 僕はCBで彼をマークしていたのですが、西澤さんが目の前でジャンプしたとき、僕がヘディングでも届かない高さのボールを胸でトラップしたんですよ。 ジャンプが高すぎて、スパイクの裏が見えました 笑。 このとき「プロは無理だな」と思いました。 本当に飛び抜けている人、どうあがいても追いつかないものを持っている人はいるんだな、と。 2019年からドルトムントのブランドアンバサダーをさせてもらっているのですが、サッカーの仕事がこういう形でできて嬉しく思っています。 実は先程話した高校1年生の時のドイツ遠征で、体がキレキレでドリブルもめちゃくちゃ成功していたんです。 その時、ドイツのチームから「残ってください」と引き抜かれそうになったみたいなんですよ。 これは後から聞いた話なのですが。 だから、今回の件は不思議な縁を感じましたね。 ドイツに縁があるのかな、と。 ドルトムントの試合はちゃんとチェックしてます。 好きなのはサンチョやブラント。 ブラントに関してはトップ下もボランチもできますし、贅沢な使い方ができる。 こんな選手いるのか!と思いました。 歴代で一番好きな選手はレドンド 元アルゼンチン代表、レアル・マドリードなどに所属 です。 芸人になって初めて組んだコンビ名をレドンドにするくらいくらい好きでした。 ボランチですけど前のポジションもできますし、テクニックもある。 アウトで持って方向転換する動作がかっこよくて、真似をしていました。 今の子達にもぜひ見てほしいですね。 将来的にはコーチのライセンスも取ろうと考えています。 プロを目指す大学生や高校生に「プライドを気にするな、サッカーが好きなら楽しくやれ!」ということを伝えたいです。 講演会で話もしてみたいですね。 プライドがサッカーの成長を妨げていることに気づいていない人は多いと思いますし、挫折したことがない人は特にそう。 大学生で初めて挫折した時に、這い上がり方をわからないということはあるのかな、と。 あと、いつか地元に戻って指導者もしたいなと考えています。 すごく田舎で、サッカーを教えてもらえる環境がなかったですから。 そういった地域の子どもたちに教えてあげたいな、と。 僕は毎日毎日、サッカーしかやってきませんでした。 サッカーが僕の人格を作ったと言っても過言ではないです。 諦めないことやパワーの出し方とかは、サッカーで培ってきました。 その精神力を活かして芸人をやっています 笑 そして、プロになることの難しさを肌で感じたので、サッカー選手を見ると「凄い... !」と思うんです。 すごく尊敬しています。 有名な俳優さんや歌手の方に会うよりも、サッカー選手に会ったときが1番緊張します。 彼らはいま、次の試合のため、みんなの前に出るために家で努力していると思います。 次に選手たちを見た時、ファンはこれまで観戦していなかった分、感動が強くなることは間違いないです。 それは楽しみにしていてもらいたいです。 あとは、今だからこそ、昔の選手の動画、例えば白黒の時のペレのスーパープレーやマラドーナの緩急あるドリブルとかを見てほしいですね。 レドンドの動画も見てください、アウトでボールを持ってターンするプレーが本当に凄いので! 今でもやること、できることはたくさんあります。 だから、変に悲しまないで、昔のサッカーを振り返ったりして、その時が来るのを待って欲しいですね。 youtube.

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お笑いトリオ・パンサーの尾形、サッカーの実力はかなりのもの?

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お笑いトリオ・パンサー 2008年に結成されたパンサーは、ツッコミ担当の向井慧と、ボケ担当の尾形貴弘と菅良太郎によるお笑いトリオ。 ボケ担当の尾形は「メンタル」や「サンキュー!」などあまりウケないギャグですべりキャラを確立しました。 女性のお笑いファンも多いパンサーですが、ロンドンハーツなどのバラエティ番組で見せた本性や女グセの悪さから尾形の好感度は絶賛低下中! ちなみに宮城県出身の尾形は2014年に松島町観光親善大使に任命されました。 by by 名門・仙台育英でエース番号を背負う 尾形は小学校からサッカーを始めると中学1年生の時に東松島市からサッカーが盛んな松島町の中学校に転校。 高校は全国でもスポーツ強豪校として有名な仙台育英高校のサッカー部へ入部します。 ポジションはミッドフィルダーで司令塔だった尾形は、キャプテンとしてチームを引っ張るとエースナンバーでもある10番を背負って全国ベスト16に進出。 高校時代はエースとして活躍しただけあって、他校にファンクラブがあったりバレンタインには80個もチョコともらった事があると本人は語っています。 仙台育英高校サッカー部の同級生にはベガルタ仙台やサンフレッチェ広島でも活躍した元Jリーガー中島浩司氏がいます。 by 実はあの選手の先輩だった!? 名門の仙台育英高校での活躍が認められて、尾形はスポーツ推薦で中央大学文学部へ進学します。 中央大学のサッカー部といえば、関東大学サッカー1部リーグに所属する大学サッカーの中でも名門として知られています。 サッカー部は一般試験での入部は受け付けておらず、スポーツ推薦の少人数制で選ばれた選手しか入れない強豪チーム。 OBには現在解説者でミスターレッズこと福田正博氏や川崎フロンターレで活躍している中村憲剛選手などがいます。 特に尾形が4年の時に入学してきたのが中村憲剛選手。 尾形いわく「オレが4年の時の1年生。 めちゃくちゃ真面目」「ケンゴは俺が育てたと言っても過言じゃない」とスポーツ新聞の取材で答えています。 アメトーークのサッカー日本代表応援芸人では、南アフリカW杯で中村憲剛選手が使用したスパイクをはいて出演するなど今でも仲が良いようです。 中村憲剛選手によれば尾形は「けっこう怖い先輩だった」とコメントするなどサッカーに関しては真面目だったようです。 現在の尾形は、吉本芸人フットサルリーグでプレイを続けており、芥川賞を受賞したお笑い芸人・又吉直樹がキャプテンを務めるフットサルチームに所属。 パンサー尾形の一発ギャグのほとんどは得意のサッカーに由来するものですが、今後ギャグがウケたらサッカーに「サンキュー!」と絶叫する日が来るかもしれません… SOURCE :.

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